幸福と不安

  
  
 八神さんとお付き合いするようになってから、数ヶ月が経った。
 あれから助けてもらったお礼にとお酒を奢らせてもらい、それが最後になりたくなくて勇気を振り絞って連絡先を交換した。まるで初恋を拗らせたみたいに会うたびに八神さんを好きになり、何度目かのデートの終わりに我慢できずに私から告白した。「よろしく」そう言って優しく微笑んだ八神さんの顔を、きっと忘れることはできないだろう。
 
 
 八神さんは神室町で探偵をしているそうで、顔が広い。街を歩けば色んな人に声をかけられるし、色んな人から喧嘩をふっかけられている。最初はビクビクと怯えていたけれど、いつもあっという間に返り討ちにしている姿を見て八神さんが喧嘩に強いことを知った。

「でも、できれば喧嘩して欲しくないなあ」
「まあター坊も、好きで喧嘩してるわけじゃねぇだろうよ」

 私の不毛な呟きに返事をくれたのは、八神さんの仕事のパートナーである海藤さんである。初めて紹介された時はヤのつく職業の人かと思ったけれど、(実際元が付くけど間違ってはいなかった)話してみるととても明るく人懐っこい笑みを浮かべる人だった。私たちはすぐに仲良くなって、海藤さんとも連絡先を交換し、こうして八神さんのいない探偵事務所で時々話し相手にもなってくれている。

「強いのは分かるんですけど、毎回無傷ってわけではないですし、心配なんです。八神さん、小さい傷だとすぐ放置するし…」
「そこは男女の違いかねぇ。かすり傷程度だと一々手当するのもめんどくせぇってのはよく分かる」
「他人事みたいに言わないで下さい。海藤さんも、心配してるんですよ。小さな傷だって感染症とか怖いんですから」
「ははっ。こんな可愛い女の子に心配されるならそれもまた役得だな」
「もう、誤魔化さないで下さいってば」
「あー、でもまあ…そうだな。ター坊は少し、」

 海藤さんが急に真剣な顔で何かを言おうとしたタイミングで、事務所のドアが開いた。振り返ると外出していた八神さんが帰ったところだった。

「ただいま。ごめん、遅くなっちゃって」

 おかえりなささい、と言いながら話の続きが気になって海藤さんを振り返るも、海藤さんは口を噤んでしまって続きを話す気はないらしい。それは、本人がいると話しにくい内容ということなのだろうか。

「飯食いに行くけど、海藤さんも行く?」
「おうおう、独り身に熱々カップルの惚気を聞けってか?」
「しないよ、そんなこと」
「ま、今日は用事あるからまた今度、誘ってくれや」

 そう言って海藤さんはヒラヒラと手を振って事務所を出ていく。てっきり海藤さんも八神さんに用事があって待っていたと思っていたのに、どうやら私に付き合ってくれていたらしい。そういうところが、彼が人に慕われる理由なのかもしれない。

「海藤さんと何話してたの?」
「…どうすれば八神さんが怪我しないかって相談?」
「うーん。耳が痛い」
 
 




*   




 八神さんの自宅は、事務所と兼用している。恋人として二人で過ごすには少し、というかかなり、気を使う。だから必然的に夜は私の家に来る事が多かった。そうするといつの間にか私の家には八神さんの私物が増えて、いつ泊まりに来ても不便がないようになっていた。八神さんのいない日だって、洗面所に並んだ色違いの歯ブラシを眺めていればついニヤニヤと口元がだらしなく緩んでしまうような。そんな風に、彼は生活の一部になっていた。

「なあ、この前買った洗顔どこ置いたっけ?」
「右の棚に入れたよー」
「あ、あった。さんきゅ」

 自分の家のお風呂場から聞こえる恋人とのやり取りに、つい笑ってしまう。当たり前のように日常に溶け込んだこの甘いやり取りが、くすぐったくて幸せだと思う。だけどそれと同時に、日に日に言葉にできない不安が大きくなっていくのを感じていた。言葉で上手く表せなくて、自分が何に怯えているのかも分からずにこの感情を持て余している。

「何してんの?」
「わっ」

 ぼんやりとしていた私の目の前に、いつの間にかお風呂から上がったらしい八神さんが顔を覗き込んでくる。吃驚して思わず仰け反ると、八神さんが小さく笑った。

「悩み事?俺でよければ聞くけど」
「…ううん。大した事じゃないの」
「そう?」

 床に座り込んでいた私の後ろに八神さんも座って、後ろから抱え込まれるように抱きしめられる。ふわりと香るシャンプーの匂いは自分と同じはずなのに、どうしてこんなにもドキドキしてしまうんだろう。

「これ、仕事で使うやつ?」
「うん。ちょっと欠員募集ができたから社内用ポスター作ってるの」
「良いんじゃない?この狐とか可愛い」
「………犬だもん」
「え」

 八神さんが示したのは、隅っこに描いた犬の落書き。ちょっと可愛く描こうと思って犬に吹き出しマークをつけて『一緒に働くワン!』と喋らせている。そりゃ、絵が上手い方ではないけれど。中々可愛く描けたと思っていただけに、狐に間違えられたのは大変不服である。特に、必死に笑いを堪えているその姿を見ていると。

「ひどい、どう見ても犬だもん」
「いや、うん…。可愛いよ。本当に」
「笑いながら言われても説得力ないけど?そんなに笑うなら、八神さんも描いてみてよ」
「え」

 再び固まる八神さんに無理やりペンを握らせて、紙を押し付ける。私が引かないことを悟ったのか、暫く迷うようにペン先が紙の上を彷徨って、やがてシャッシャッと短い音が走った。少しの間沈黙が降りて、「できた」とペンが机の上に転がる。真っ白い紙の上には、八神さんの描いた絵が一つ。

「……ぶた?」
「ネコだよ」

 なんとも言えない表情のブタさん…もといネコちゃん。私の絵と見比べても、正直どちらの方が上手いとかそういうレベルじゃない。暫く二人で絵を眺めて、やがて先に笑い出したのはどっちだったか。

「ふっ、あははは!何コレひどい、どっちも人のこと言えないじゃん」
「これはこれで味があるかもよ」
「確かに?」

 なんでも余裕でこなす人だから、弱点なんてないんじゃないかと思っていたけど意外なところにそれは存在したらしい。笑ってるのか怒ってるのか分からない目付きでこちらを見つめる猫のイラストはとても愛おしく。捨てようとする八神さんの手から奪って大切に腕の中に閉じ込めた。


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