家族
ラムダに向かう途中、八神はずっと気になっていた事を花織に問いかけた。
「今更だけど花織ちゃん、学校行ってる?」
神室町に学校はない。待ち合わせが夕方だったにしても、学校から家へ帰り着替えて神室町で待ち合わせしていたのではどう考えても時間の辻褄が合わない。
花織は八神の質問に「あー…」と言葉を濁した。それだけで花織が普段からもまともに通ってないことが窺える。そんな花織を庇う様に、海藤が花織の肩を叩いた。
「良いじゃねぇか。勉強してるよかダチ探してる方がよっぽど有意義な時間だろ」
「大人がそれ言っちゃう?」
「いやまあ、状況が状況だから俺も文句がある訳じゃないけど。親御さんとか何か言われない?」
いくら友達の危機だからと言っても、その理由が必ずしも全ての大人に伝わるとは限らない。普通の大人なら、警察に任せておけと学校に行く事を優先させるだろう。ましてや親なら特に。
八神の気遣いに、花織はにっこりと笑って首を振った。
「だいじょーぶ。ウチの親、私がまともじゃない方が喜ぶから」
「…どう言う意味だ?」
意味深なその言葉に、八神たちは首を傾げる。花織はうーんと小さく唸り、足元に視線を落とした。綺麗な洋服、まだ新しい靴。手入れの行き届いた髪の毛。周りの人間は、何不自由なく育てられた子供だと思うだろう。
だけど、と花織の脳裏に母親の顔が思い浮かぶ。決して、幸せな家庭なんかではなかった。
「ウチ、母子家庭なんだよね。私はお母さんが学生の時家庭教師の彼氏と出来たんだって。でもあっさり逃げられて。そっからあの人、人生狂ったらしいよ」
くるくると手元で髪の毛を弄りながら花織が感情を込めないように平坦な声で呟く。自分の家庭環境を口にするのは、咲良以外には初めてだった。普段ならそんな事言わないのに、何故だか目の前の大人たちは信頼できる気がしてつい口が滑ってしまったらしい。
チラッと隣を歩く八神に視線を移すと、口を一文字に閉めたまま黙って花織の話を聞いている。それが続きを促されている気がして、花織は再び口を開いた。
「…真面目な家庭教師だったお父さんが裏切ったのが許せないんだって。だから私がお父さんみたいに大人しくしてる事とか、勉強できたり真面目だったりする事が許せないの。こうやって髪の毛染めて短いスカートでアホみたいなことしてる方が自分より下に見れて安心できるんだってさ」
花織は自分で言いながら、何だそれと笑いたくなった。世間一般でいう母親像とはかけ離れた自分の母親に疑問を抱いたのは思春期になってからだった。
本当は、髪の毛は黒い方が好きだし露出も好きではない。勉強することは嫌いではないし目立つことも避けたい。けれど、自分の求める「自分」と母親が求める「自分」が違うと知ってからはずっと心を押し殺して生きてきた。そうする事が平和に生きるコツだと、子供の頃に知ってしまったからだ。
そうして家族という存在に嫌気がさしていた頃、出会ったのが山下咲良だった。
「逆に、まるは親からのプレッシャーで本当はもっと自由になりたかったんだって。真面目な優等生じゃなくて、勉強はできなくても悪い事なんて一つもしてない。ただの普通の女の子。…でもあの子の親はまるに完璧を求め続けたの」
咲良から聞いた咲良の家庭は、花織の家とは正反対だった。真面目であれ。勉強をしろ。立派な大人になれ。それはきっと正しく、親が子を思う正当な教育だったのかもしれない。だけど、いつしかそれは咲良を苦しめていく。中々親の期待に答えられない咲良に、やがて咲良の両親は冷たい目を向けるようになった。
だから、花織は咲良と仲良くなれた。お互いがお互いの無いものを持っていて、それは親という壁のせいで決して手に入る事がない理想。
この話をした時、花織は運命だと思った。
自分の心の声を吐き出せるのは咲良だけだと思ったし、咲良の思いを受け止められるのも自分だけだと思った。
だけど、そんな運命のソウルメイトは花織を置いて姿を消してしまった。
「なんか、口に出すと凄いね。どこの悲劇のヒロイン設定だよ、て感じだよね。ウケる。笑っていいよ」
別に花織とて不幸自慢をしたい訳ではなかった。
衣食住を与えられた自分は恵まれている方だと理解していたし、自分には咲良がいたからまだ耐えれた。それはきっと、世間一般で言うと幸せなことなのだと花織は充分、理解しているつもりだった。
だからへらっと適当に笑って空気を変えようとして、花織は固まった。目が合った大人三人が、決して笑う事なく真剣な顔で立っていたからだ。
「笑わねぇよ。笑って良い事じゃないだろ」
あまりにも、真っ直ぐな目で見つめられて花織の方が言葉に詰まった。三流ドラマに出てきそうな、ありきたりな不幸話。取るに足らない、よくある家庭環境。そう思ってた。
「話してくれてありがとうな」
ぽん、と八神の手が花織の頭を撫でて、不覚にも泣きそうになってしまった。いつだって、花織の世界にはこんな風に真剣に花織の言葉に耳を傾ける大人はいなかった。
初めて与えられる大人の優しさに、どうして良いか分からずに狼狽える。
もう少し、早くこんな大人に出会えていたなら自分たちは違う未来が待っていたのかもしれない。そんなどうしようもないもしもの話を考えて、その意味の無さに花織は声を出して泣きたくなった。
「…うん」
絞り出した言葉は、僅かに震えていた。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎
オーナーの証言通り、七福通りの端にひっそりと小さな看板を掲げてラムダは存在した。まるで廃ビルのような出立ちに、営業する気のない汚くて薄気味悪い外観。
「なるほどね」
八神がめんどくさそうに呟いたのを花織は聞き逃さなかった。
「なに?カラオケじゃないの?」
「表向きはな。多分、カラーギャングの溜まり場になってんな」
「へぇ?」
「つまり、悪い事し放題ってわけだ」
よく分かっていない花織に、海藤が補足する。「あー…なるほど」先程の八神と同じ様に、花織もめんどくさそうに頷いた。
ドラッグをばら撒く人間がこそこそと溜まっていれば、碌なことは行われてないだろう。しかし一応営業している店だから不法侵入など疑われることないし、騒いでいても「店」が対応すればいいだけだ。
八神がその入り口に手をかけて、ガタガタと押したり引いたりするが安っぽい扉は八神たちを迎え入れようとはしなかった。いっそ蹴り破ってもいいが、中にいる人間に逃げられたり通行人に通報されては面倒だ。
「どこか他に入れそうな場所は…」
「八神さん、あそこ。鍵かかってないんじゃない?」
キョロキョロと辺りを見回す八神に、杉浦が二階部分にある窓を指差す。テープで補強された窓には、僅かに隙間があり鍵が開いていることが分かる。さらに視線を彷徨わせた八神は、頭の中にルートを計算してどうにか窓へと侵入する計画を立てた。
「よし、俺と杉浦であそこから中に入ろう。海藤さんと花織ちゃんはここで待ってて」
「了解。気をつけろよ」
「うん。そっちも」
まずはパルクールの得意な杉浦が先頭に立ち、二人は器用に室外機やパイプを使って壁へとよじ登っていく。まるでスパイ映画のような行動に、花織は感嘆の息を吐いた。
「すごい、重力がないみたい」
「杉浦はもっと凄いぞ。今度見せてもらえよ」
「うん…」
海藤の言葉に上の空に頷いて、花織は目を丸めて二人が窓から建物の中へ入っていくの見届ける。もしもこの二人が悪事を働く側だったなら、一体どれほどの被害が出ているのか、考えると少し恐ろしくもある。
「…」
少し間があいた沈黙に、花織がちらりと海藤に視線を流す。どう見てもヤクザのような風貌の、探偵。無意識なのかポケットに伸びた手は煙草を掴み、ピタリと動きを止める。その意図を察して、花織はくすりと笑った。
「煙草、吸ってもいいよ」
「…いいのか?」
「うん。匂いとか、別に嫌いじゃないから」
全く気にしていない様子の花織に、海藤は少し悩んでからと煙草を一本取り出し、ライターで火をつける。それでもさり気なく開かれた距離は、彼の気遣いなのだろう。本当に気にしなくていいのに、と花織が開かれた分一歩海藤に近づく。僅かに眉を上げた海藤は、けれど何も言わずに花織の好きにさせた。
「……これは俺の持論なんだが」
再び落ちた沈黙を破るように、海藤の低い声が落ちる。壁に背中をくっつけながら、花織は顔を横に向けた。その視線の先で、濁った白い煙がゆっくりと天へと昇っていく。
「家族は他人なんじゃねぇかと、俺は思ってる」
「え…?」
予想もしてなかった海藤の台詞に、花織は思わず間抜けな顔を晒した。
それは、とても花織が知っている『常識』からは考えられない発言だった。家族と他人では、まるっきり正反対な存在立ち位置なのでは、と首を傾げるとフッと海藤の目が花織を見て笑った。
「他人つっても、そこら辺の話したこともねぇ連中と同等の他人って意味じゃねぇぞ。あくまで、自分とそれ以外っつー意味の他人だ」
「自分と、それ以外」
「まあなんだ。人間この世に生まれ落ちた瞬間から、母親から離れて一個人として扱われんだろ。そうなりゃ人生の軸は自分で、それ以外の人間の立ち位置っつーのは、あくまで便宜上必要とされる名称で、その言葉以上の意味はねぇ、てこった」
「便宜上の、名称…」
ゆっくりと海藤の言葉を飲み込むように、花織がオウム返しに呟く。それは、花織が想像することもできなかった考え方だった。幼い頃から母親から『誰のおかげで生きているのか』『家族だから世話をしてやっているのに』と言い聞かされていた人生からは、とても結びつかない言葉だ。
そんな揺れる花織の瞳を一瞥してから、海藤は煙草を深く吸い込んだ。母親の事を語る花織の顔を思い出し、自身の親のことも思い出す。裕福とも貧乏とも言えない生活で、決して満たされなかったわけでも呑気に生きれるほど幸福なわけでもなかった。至って普通の、家庭環境。
だけど海藤は世間一般でいう普通の道からは外れ極道という道を選んだ。きっと自分は、親不孝者なのだろう。そんな自分が、家族を語っていいのかは分からなかったが、たった十七歳の少女に植え付けられた固まった価値観を、どうにかして壊してしまいたくなったのだ。
「俺には血の繋がった親父と、そうじゃねぇ親父がいる。どっちかっつーと、血の繋がらねぇ親父の方が俺にとっちゃかけがえのない家族みてぇなもんでな。そりゃあ世間の決めた枠組みには当て嵌まれねぇが、俺がそう思ってんだからそんなもん関係ねぇ」
『親父』と言う時、海藤は少しだけ目尻の皺を深くさせる。吐き出された煙を目で追いながら、その視線の先にはきっと様々な感情が浮かんでいるのだろう。
花織にとって遥かに歳上の目の前の大人は、けれど今まで出会ったどの大人とも違う気がして、花織は黙って言葉の続きを待った。
「お前もよ、母ちゃんが嫌になったら離れてもいいし、それでも向き合いたかったらぶつかれば良い。家族だのなんだの、そんな周りの誰かが付けれる肩書きなんかじゃねぇ。その相手とどうなりたいかは、自分で決めんだよ」
「……いいの?私、自分で決めても良いの?」
「あったりめぇーよ。自分の人生は自分で決めんだよ。じゃなきゃつまんねーだろ」
海藤から与えられる言葉に、ドクドクと鼓動が速くなる。無意識に体が小さく震えるのを、花織は気づかないふりをするので精一杯だった。
自分の人生は、自分で決める。そんな普通のことを、今まで誰も認めてはくれなかった。ずっとずっと、否定され続けていた。そんな花織の人生を、昨日今日あったばかりの海藤が、当たり前のように肯定してくれるのが、油断したら今すぐにでも泣きそうなくらい、嬉しかった。
「……うん。うん。そうだね、そうだよね。……あの、あのね、笑わないでね。私、大人になったら外国に行きたいの。自分の事を誰も知らない場所で、好きなことして好きに生きてみたいの。できれば、まるも一緒に。日本だと…私はともかくまるは親に連れ戻されるかもしれないから」
どこか興奮したように、花織の声は弾んでいた。きっと海藤なら何を馬鹿なことを、とは言わないだろうと思えたからだ。現に海藤は、その大きな手を花織の頭に乗せてぐしゃりと撫で回し歯を見せて笑った。その笑顔を見て、大人のくせに子供のように笑う人だと思った。
「いいじゃねぇか。夢はでっかく持つもんだぜ」
マイナスなことは何も言わない海藤に、花織もにっこりと笑顔を見せる。それが簡単なことでないことは、勿論言われなくたって充分理解している。十七歳の少女は、理解できる年齢なのだ。それをきちんと尊重されているようで、きゅうっと心臓が締め付けられるような幸福感が花織を包む。
───だけど、それはすぐに暗い影を落とした。
年相応の無邪気な笑顔が萎み俯く姿に、すっかり短くなった煙草を仕舞いながら海藤が不思議に思いながら頭から手を離し様子を伺う。
「でもまだ、まるの返事聞けてなかったんだあ。……答え、聞きたかったな」
沈んだ声がアスファルトに溶けていくの聞きながら、海藤は「そうだな」と静かに相槌を打った。とても、「大丈夫だろ」とは言えなかった。だけどもしかしたら、そう言うべきだったのかもしれないと。
そう思ったのは、随分と後になってからだった。