復讐


 ──家を出る瞬間、母親に呼び止められた。
 どうしてこのタイミングで、と思いつつ下手に逆らうと余計に面倒くさくなることをこの十七年間で嫌と言うほど学んできた。私はバレないようにこっそり深呼吸をして、笑顔を貼り付けて振り返った。

「なあに、お母さん」
「ねぇ、アンタどこ行くの?」
「ほら、前言ったじゃん。Clubリゼだよ。遊びに行くの」
「へぇ?」

 私に興味なんてないくせに。どうして今更行き先なんて確認してくるのか。早く行かないとまるとの待ち合わせに遅れてしまう。焦る気持ちを必死に隠して、なんでもない風を装って「じゃ、」とドアノブに手をかける。

「ねぇ」
 まだ、何かあるの?
 背中にかかる声に無視してしまいたい気持ちを抑え、もう一度振り返る。母は怠そうに目を細めながら、壁にもたれ掛かり腕を組んで立っていた。

「…アンタ、クスリしてんの?」

 かけられた言葉に、驚いて思わず目を見開く。

「なん、で…?」
「流行ってんでしょ?甘い匂いのするやつ。アンタもよくキャラメルの匂いさせてるから。やってんの?」
 
 カラカラと乾いた喉に、言葉が張り付いて出てこない。どっちだ。否定と肯定。どっちが正解だ。感情の読めないお母さんの目を見て、耳元に心臓が移動したみたいにどくどくとうるさい。

「…してる、って言ったらどうする?」

 実際、元々キャラメルが好きだった。そして尾崎からキャラメルに似たドラッグを勧められた時、丁度いいと思った。本当はただの市販のキャラメルだけど、匂いが似ているから周りが勝手に誤解してくれる。普通にしてたって、私は「そういう子」と勝手に判断される。それはお母さんの求める「不真面目な人間」になれる都合のいい道具だった。

「あ、っそ。別に。サツにだけは捕まんないでね」

 およそ母親とは思えない言動に、目の前が真っ暗になった。どうやらこの哀れな頭は、まだ僅かに期待を捨てきれてなかったらしい。母が私に興味のないことなんて。どれだけ道を踏み外したってどうでもいいと思ってることなんて。そんなこと、とうの昔に理解していたはずなのに。

「……うん。分かってる」

 大人しく返事をして、今度こそ家を出る。一体、何を期待してしまっていたのだろう。あの人が、心配なんてするはずなどないのに。

 分かっていたはずなのに、どうしても両目から流れる涙を止める方法が思い浮かばず、まるに遅れる旨のメールを送った。
 大丈夫。私には、まるがいるから。いつか絶対、この家を出ていく。まるの隣にいる。きっとそれが、私に残された唯一の生きる道だから。

「……早くまるに、会いたいなあ」

 だけど今は、こんな風に情けなく泣いている姿を誰にも見られたくなかった。




 ⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎



 ──山下咲良は、尾崎たちが最後に会った時厳密には死んでなどいなかった。所謂仮死状態のようなもので、過剰に摂取した薬物によりショックを受けた状態だった。
 咲良は血を流したわけでも、尾崎たちが直接首を絞めたり刺したり殴ったりしたわけではなかった。それが故に、人を殺したという実感が彼らには持てなかった。

 咲良が死んだと誰よりも実感していたのは、その死に顔を見た花織ただ一人だけだった。



 遅刻してリゼに行った花織はその場にいない咲良に違和感を覚えた。数分前のメールでのやり取りでは先に中に入って待っていると連絡があったのに、店中どこを探しても咲良の姿は見当たらない。嫌な予感がして花織はすぐに店を飛び出した。

 神室町をあちこち探し回って、何となく足を踏み入れた薄暗い路地裏でゴミのように捨てられた咲良を見つけた。恐怖で足が竦み、花織はすぐに駆け寄れなかったことを今でも後悔している。

 咲良は強い薬の影響が時間差となって現れて激しく痙攣し、泡を吹き白目を剥いて死んでいった。その最後の瞬間を、花織は見てしまった。震える足で咲良に近づけたのは、恐らく完全に咲良の息が止まってからだった。

 咲良は苦痛から地面を掻き毟ったせいで爪は割れていたし、綺麗な衣服は吐瀉物で汚れていた。その中で、嗅ぎ覚えのある酷く甘いキャラメルの匂いが花織の体に付き纏う。
 かつて花のように笑う親友の、そんな死に顔を見たのは花織だけだった。

 それは決して、決して眠るように死んだなどと。そんなこと言えるような、綺麗なものではなかった。






 親友の顔を思い出しながら、花織はまっすぐにリゼのVIPルームへと向かって走っている。冷たい夜風を浴びて来たのに、怒りで燃える全身の熱は冷めることを知らずただただポケットに入れたサバイバルナイフを握りしめた。
 

 ──殺してやる。


 それだけが、花織の心を突き動かしている。

「おい、誰だお前。ここは一般人は入れねぇんだよ」
「どいて」
「…あ?」

 部屋の前にいた男を、花織は感情のない瞳で見返した。肩を掴まれ無理やり追い返されそうになるのを、冷たい声で突き返す。そして男が続いて何かを言う前に、素早くナイフを男の脇腹に突き刺した。花織の全く躊躇のない動きに、男は反応する事ができず目を見開いて呆然と立ち尽くしている。
「…あっ、?」
 短く声を上げて疼くまる男を無感情に見下ろして、花織はその横をすり抜け室内へと入る。見渡さなくても、目的の人物はすぐに見つかった。
 クラブ全体を見渡せる、派手で広い空間の真ん中にあるソファに尾崎はいた。尾崎の周りには複数人の男女がいたが、そのうちの一人が花織に気がつくとつんざくような悲鳴をあげた。何事かと周りの人間たちも一斉に振り返り、血の付いたナイフを持った花織を認識するとあっという間に蜘蛛の子を散らすように部屋から飛び出して行った。

 その中で唯一逃げ遅れた尾崎が、目を丸くしてソファから動けずにいた。
 いつか花織は自分の元へ来るかもしれないとは思っていたが、まさかそこにこんなにも殺意が含まれているとは思わなかった。いや、それぐらいの気持ちは抱いても可笑しくはない事をしたとは思っている。けれど、花織のような少女が実際に凶器を持って来るとは夢にも思わなかったのだ。

「…正気か? 俺を殺すつもりか?」
「心当たりあるでしょ」
「…はっ。どうせハッタリだろ」

 そう言う尾崎の額には冷や汗が浮かび、その言葉が虚勢から出ている事は花織でも分かる。勿論、花織はハッタリなんかではない。花織の中には確実な尾崎への殺意がある。そしてゆっくりと尾崎との距離を詰める花織の背後で、激しくドアが開く音がした。

「花織ちゃん!」

 思ったよりも早く追いつかれたらしい。振り返らなくても、そこにいるのが誰かよく分かる。荒い息遣いからここまで全力疾走して来たのがよく分かり、花織は自嘲気味に笑った。自分なんかの事に、必死になる必要などないのにと。

「八神さん、あの人たち放置しちゃったの?また逃げちゃうよ。結局は自分が可愛いんだから」
「海藤さんに見張って貰ってるよ。警察も呼んである。……時期に、ここにもくる」
「そっか」
「……山下咲良の死体を隠したのは、君なんだね」

 花織がチラッと視線を後ろに向けると、真剣な目をした八神と杉浦がいた。花織は小さく息を吐き、その確信を得た眼差しに観念してこくりと頷く。この状況で戸惑っているのは、寧ろ尾崎の方だった。

「はあ!?お前が死体を隠したのかよ!俺が勝手に疑われてんだぞ!?」
「疑われるもなにも、実際に殺したのは自分たちでしょ?」
「遅かれ早かれ全部バレるんだよ。素人がこの街で簡単に裏稼業できると本気で思ってんのか?」

 大人二人に睨まれて、尾崎はグッと言葉を詰まらせた。実際、最近ではヤクザから睨まれる事も多かった。それでもカラーギャングの勢力は少しずつ増えていったし、ヤクザの力も昔に比べれば弱くなっているのは神室町に住んでいれば実感できる。今更、引くわけにはいかなかった。

「なんで、花織ちゃんを襲おうとしたの?」
「……気に食わなかったんだよ。折角俺が誘ってやったのにいっつも一人で行動して。自分は俺たちとは違うみたいな顔しやがって。このクラブに居座ってる連中なんて、みんな似たような奴らなのによ」

 だから、花織をクスリ漬けにしようと思った。そうすればクスリ欲しさに自分に縋ってくるだろうと思ったからだ。杉浦からの質問に素直に答えつつ、尾崎は花織を見た。死んだように無表情で、暗い瞳は何を考えているのか分からない。それが、尾崎が花織に執着する理由の一つでもあった。
 いつもどこか自分たちとは違うところを見ていて、凛と背筋を伸ばして立っている花織の事が尾崎は堪らなく嫌いだった。

 カラーギャングに集まってくる人間は、殆どが未成年だった。何かを主張するには子供のくせにと言われ、何かをするともう大人なんだからと言われる中途半端な若者たち。何を求められているのかも分からず、何をしたいのかも分からず。
 まるで魔法の薬のように、キャラメルを摂取している時だけが彼らの心を癒していた。誰もが尾崎を取り囲み、崇めて尊敬して平伏して。そんな空間で、花織の目に自分が映らないのが、心底気に食わなかった。

 結局下っ端の西田が手に入れたのは花織の友達だったが、それでも良いと思った。寧ろそれを理由に花織も抱き込めると思えた。結果、彼女は死んでしまって事態は最悪な方へと転がってしまったのだが。
 
「……ほんっと、ウケんね。そんな理由でまるは殺されたんだ」
 花織の声は震えていて、俯いた顔からは表情が見えない。一歩、また一歩と尾崎へと近寄るたびに手に持ったナイフから血が滴り落ちた。
 自分より小さな少女の持つ、小さなナイフ。これなら避けられる。尾崎はそう判断して、花織との間合いを慎重に取る。所詮非力な少女の力では、カラーギャングのリーダーをしている自分に勝てるはずがないだろう。

「ダメだ、花織ちゃん。ここで尾崎を殺してしまったらどうなるのか、自分でも分かってんだろう?」

 低く冷静な八神の声が、花織を説得しようと試みる。だけどそれも、花織には想定内だった。誰だって人を殺そうとする場面に出くわせば止めに入るだろう。だけど今更、何を言われたって自分の心には響かない。冷静にそう分析して、花織は尾崎から目を離さずにいた。

「花織ちゃん」

 そんな花織に、杉浦が一歩踏み出す。

「復讐したって、咲良ちゃんは生き返らないよ」

 それは笑っちゃうくらい、薄っぺらなありきたりな言葉だった。それでも、杉浦にはそれが真実だった。
 今杉浦の頭の中には、姉の姿とかつて憎くて仕方がなかった弁護士時代の八神の姿が浮かんでいる。あの頃の自分は、今の花織と同じだ。だけど、その選択の意味の無さを悲しいほどに杉浦は知ってしまったのだ。

「杉浦さんに、何が分かるの」

 冷たい声で、花織の言葉がポツリと落ちた。それなのに、その顔は今にも泣き出しそうに子供みたいに歪んでいる。そう、花織は子供だ。たった十七歳の、大切な親友を亡くした子供なのだ。その事実が、八神たちの心をギュッと締め付けている。

「分かるよ、僕も同じだったから。だからこそ、花織ちゃんも気づいてるって分かるよ。そいつを殺しても咲良ちゃんは帰ってこないこと。そんな事しても、咲良ちゃんは喜んだりしないってこと」

 モグラの事件の後、久しぶりに姉の墓に行った時杉浦は心の底から思った。殺さなくて、良かったと。憎くて堪らなかった八神のことも。目の前で死んでいった真犯人のことも。もしも自分の手で殺してしまっていたのなら、自分はもう二度とこの墓の前に立つ資格など与えられないのだと。そう気づいて、心の底から安堵したのだった。

 杉浦の言葉に、花織の顔に動揺が走ったのが見えた。それは尾崎も同じで、花織の目線が逸れた瞬間に慌てて逃げようと試みた。視界の端に捉えたそんな尾崎を、花織が見逃すはずなどない。
 

「──花織ちゃん!!!」

 八神が叫ぶのと同時に、花織が尾崎へと飛び掛かる。こんな少女一人くらい、難なく交わせるだろうと思っていた尾崎はヒュッと息を呑んで固まった。
 今まで悪意の籠った目で見られる事はあっても、こんな風に殺意を持った目で凶器を向けられたのは初めてで、それは思った以上に尾崎に精神的動揺を与えていた。



 ───花ちゃん、私凄いことに気づいちゃった


 
 不意に、花織の頭の中に咲良の声が響く。
 勢いよく上げたナイフを持つ手が、ぴたりと止まった。花織の見開かれた目に、尾崎の恐怖に引き攣った顔が映る。



 ───私たち、二人合わせると花マル満点だね!



 ぽろぽろと、大粒の涙が花織の意思に反して勝手に両目から溢れてくる。泣きたくなんかないのに、今はもうそこにはいないのに。この声だって、幻聴なのに。それなのに、花織の頭の中には咲良の笑顔が張り付いて離れない。

 まる、まる、と花織が譫言のように咲良の名前を呟く。もしもここで自分が尾崎を殺してしまったのなら、花マル満点は無くなってしまうだろうか。そんな考えが、花織の頭を過った。

 本当は、花織にだって分かってる。
 杉浦の言うとおり、自分が尾崎を殺しても咲良が喜ばない事ぐらい、分かってる。嬉しそうに笑っている咲良の顔が好きなのに、尾崎を殺したって咲良はきっと悲しそうに笑うんだろうと。

 ───花ちゃん、ごめんね。

 自分は悪くないのに。
 いつだって咲良は誰かのために謝ってしまうから。


 ────違う。
 
 違うんだよ、まる。

 私は、ただ…


「……ッまるに、笑ってっ…ほしかっ、たっ!」
 
 
 叫びながら、涙が溢れて視界がぼやけてしまう。殺さなきゃいけないのに、そうしてしまうと咲良の笑顔まで殺してしまいそうで、力が振り絞れない。
 呆気に取られた尾崎が、這いつくばって逃げようとするのがかろうじて見えた。殺さなきゃ。殺さなきゃ。早く、殺さなきゃ……。そう思うのに、体は上手くいうことを聞いてはくれなかった。

「花織ちゃん、もういいよ」

 いつの間にか、すぐそこに八神が立っていた。優しくナイフを持っていた手を解かれて、遠くの方に投げ飛ばされる。その後ろで杉浦が尾崎の行手を塞ぎ、呆気なく縛り上げていた。

 ああ、もうだめなんだ。
 そう悟って、絶望に歪んだ顔で花織は八神を見上げる。
 花織にはもう尾崎を殺せない。咲良の復讐もできない。花織には、もう親友にできることが何も残されていなかった。

「なんっ、でぇ…?殺さなきゃいけないのに…わたし、まるに何もしてあげれなかったのに…!なんでそいつは生きてるの!!まるを殺したのに!ねぇ、なんでダメなの、なんで殺しちゃいけないの、まるが何したの、なんで、なんで、なんで…っ!?」


 花織の世界から咲良を奪ったのに。

 くだらない理由で、親友を殺したくせに。

 どうして加害者である尾崎は生き延びて、なんの罪もない咲良が死ななければならなかったのか。どうして、この復讐が正当化されないのか。泣き叫ぶ花織の声がフロアにこだまして、八神はそっと蹲る花織の側に膝をついた。

「気持ちは分かるよ。でも、復讐したって死んだ人は帰ってこない。辛いけど、受け入れるしかないんだ。こんな奴らのために、花織ちゃんが手を汚す必要はないんだよ。必ず、法が裁きを下す。それが残された人の心を守るためにあるんだ」
「でも、でもあいつらまるの事、何も知らないのに…!まるがどれだけ苦しい思いをして死んだのか、何も知らないのに…!わたし、まるがっ、まるが死ぬ前に手を伸ばしてたのに、こわくて…、わたし…っ、すぐ駆け寄ったけどもう遅くて、まるのこと、大好きなのに…!まるのために、殺さなきゃいけなかったのに…!!」

 パニックになった頭で、花織はとにかく感情を吐き出した。苦しいくらい次から次へと涙は流れてきて、必死に呼吸を繰り返す。花織の頭には、ずっと咲良のことでいっぱいだった。
 柔らかく微笑む姿と、最後に見た苦悶に歪む死に顔が交互に浮かんでは消えて花織を苦しめる。伸ばした手を、どうしてすぐに握れなかったのか。

 過呼吸になりそうな程取り乱す花織の肩を、今度は杉浦がそっと抱きしめた。大切な人を理不尽な理由で失う気持ちは、杉浦が一番理解できる。
 ぽんぽん、と落ち着かせるように背中を叩きながら、あの時自分が取り乱した時も一人じゃなくて良かったと、心から思う。八神や海藤、東が話を聞いてくれて。それだけできっと、あの時の杉浦はゆっくりと救われていたのだ。

「そうだね。でも、アイツを殺しても何も解決しないこと、自分で気付けたんだよね。偉いよ、花織ちゃん」
「すぎ、うらさん…」
「偉いよ、本当に。花織ちゃんは偉い。きっと咲良ちゃんが花織ちゃんを守ってあげたんだよね」

 まるで自分のことのように辛そうに顔を歪める杉浦の顔を見て、花織が目を見開く。一週間前、咲良が死んでるのを見つけてから、今日までずっとずっと我慢してきた涙が止まらなくて。杉浦が苦しいくらいに抱きしめてくるから、頭を撫でる手が怖いくらいに優しいから。

「……う、っヒック……な、んでっ……、っまる、まるぅ…っ、!」

 嗚咽が止まらず、呼吸が苦しくて花織は肩で息をしながら杉浦の胸板を叩いた。この怒りを、憎しみを、虚しさを。誰にぶつければいいのか分からず、何を叫んでしまえば楽になれるのかも分からずに。

 花織は小さな幼子のようにわんわん声を上げて泣いた。


 ────花マル満点、だね


 その泣き声に交じって、まるの優しい声が聞こえた気がした。



漢字ふりがな

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