母親


 すっかり陽が傾くのが早くなってオレンジと青のグラデーションが神室町の空を覆い隠す時間。コンコン、と事務所のドアがノックされ八神は慌てて吸っていた煙草の火を消した。パタパタと申し訳程度に煙を手で払い除けながらドアを開く。

「お待たせしました」

 そこに立っていたのは、三十代くらいの派手な女だった。どこか見覚えのある顔に、必死に頭の中で検索をかけるが思い当たりそうな人物は浮かび上がらない。

「どうぞ、中へ」

 一先ず女を中へ入れ、ソファを進める。女は無言で座り、ジッと八神を観察しているようにも見えて少し気分が悪い。しかし探偵としてその感情を表に出すことなく、八神はポケットから名刺を取り出し女に手渡した。

「どうも、所長の八神隆之です」
「…どうも、八神さん。佐倉詩織です」
「…佐倉?」
「ええ。佐倉花織の母親です」

 そう言われて改めて女を見れば、確かによく似ていることが分かる。花織が成長し、少し派手目なメイクをすればそっくりになるだろう。突然の母親の来訪に戸惑う八神に、詩織は鞄から一枚の手紙を取り出して、八神へと手渡した。

「これ、娘から預かってたの。あなた宛に」
「あ、どうも…。えっと、娘さんは…?」

 確か花織はもう鑑別所を出たはずだ。わざわざ手紙などとまどろっこしい真似をしなくとも、直接会いにこればいいものを。不思議そうに首を傾げる八神に、詩織の表情が固まる。「…聞いてないの?」動揺を隠せない固い声に、何か言いようのない不安が八神を襲った。

「死んだわよ。帰ってきた次の日に。…あの子と同じ場所で」
「……え、」
「急にフラッと出かけたと思ったら、警察から電話が来て。あのビルの、あの子と同じ場所で。手首切って死んだらしいわよ」
「そ、れは…」

 動揺を隠せない八神に、詩織はフッと笑みを浮かべる。花織の口振では母親と上手くいってなさそうだったが、彼女の目はほんのりと赤く、それが化粧のせいではないことに今更気づいた。
 花織が母親について話したとき、そこにあるのは決して憎悪の感情だけでは無かった。…と、思う。どれだけ理不尽な目に遭っても。どれだけ分かり合えなくても。それでも、家族という肩書きは呪いのように花織に纏わりついていたのだろう。

「ねぇ、探偵さん。あの子私について何か言ってた?」

 詩織がこてりと首を傾げながら尋ねる。なんて答えればいいのか考え、八神は沈黙をとった。その反応に大方予想はついていたのか、詩織はくすりと笑い「まあ、想像つくけど」と鞄から煙草を取り出す。

「吸ってもいい?」
「どうぞ」

 灰皿を渡すと、詩織が細いメンソールの煙草に火をつける。特有の、少し甘い匂いがふわりと部屋の中を泳ぐ。詩織の長いまつ毛が伏せって、その顔は花織とよく似ていると八神はそっと視線を外した。

「私たち、いい親子関係じゃなかったもの。あの子がドラッグやってようがやってまいが、どうでも良かったし。誰と仲良くしてるとか、どんな悪いことしてるとか、ぜーんぶ、どうでも良かったの」

 自嘲気味な笑みを溢して、フーッと細く伸びる煙が漂う。無言を貫く八神に、詩織は気にせず続けた。

「父親にさえ似なければ、全部どうでも良かった。私は決して良い母親ではなかったけど。あの子も良い娘じゃなかったわ」

 女の口から出てくる言葉さっきから冷たいものなのに、声に覇気が感じられず。それがまるまる全部言葉通りの意味じゃないのだろうということは、子を持たない八神にも感じられた。

 八神は俯いていた顔を上げて、正面から詩織を見た。化粧で誤魔化してはいるが、その顔色は悪い。目の下には隈がうっすらと浮かんでいるし、煙草を持つ手は僅かに震えている。
 花織の話やたった今本人から言われた言葉からも、正常な親子関係ではなかったのだろうとは思う。だけど、それだけで片付けられるような簡単な感情でこの心の違和感は説明できなかった。

「…花織ちゃんのこと、本当はちゃんと愛してたんですよね」

 真っ直ぐ自分を見つめながら投げかけれた八神の質問に、キョトンと目を瞬かせた後、詩織は声を出して笑った。狭い事務所の中に空っぽの笑い声が響き、詩織が目に涙を溜めて八神を睨む。

「さあ、どうかしら。最初から、最悪な家族だったの、私たち。最悪な父親、最悪な母親、そこから生まれるあの子も、最悪な子供。ふ、ふふふ。分かんないわよねぇ、女がどんな思いで子供産むかなんて。…私がどんな思いであの子を育ててきたかなんて、誰にも分かんないわよ」
 
 

 ──お母さん
 
 
 詩織の頭の中に、最後に花織と顔を合わせた日のことが過ぎる。玄関の前で、静かにこちらを見ている花織に、自分が何と返事をしたのか、よく覚えていない。

 ──私、お母さんのこと許せない。自分の所有物みたいに私を扱って欲しくなかった。私の話をもっと聞いて欲しかった。お父さんの恨みを、私にぶつけて欲しくなかった。
 
 生まれてきてから今まで。それこそ事件のあったあの日、警察署で面会した時でさえ仮面を被ったような顔をしていた花織から、初めて聞く本音だった。いつもヘラヘラと笑って自分の言葉には素直に従い、不満も言わずなんの感情を抱いているのか分からないような目をしていた花織は、今はもう、まるっきり別の人間のように目の前で自分を見つめている。

 ──ある人が教えてくれたの。家族なんてただの名称だって。本当に向き合うのは肩書じゃなくてその人本人なんだって。自分の人生は、自分で決めていいんだって。お母さん、もういいよ。今までごめんね。私は、私のしたい事をするから。だから、お母さんももう自由になっていいよ。
 
 いつから、この子はこんなにも大人びた顔をするようになっていたのだろう。詩織は何も言い返すことができず、黙って花織に背を向けた。
 初めて妊娠が分かった日、夫となる男に逃げられた日。両親にさえ、お前が悪いと言われ誰にも弱音が吐けず出産した日。小さな小さな手を握り締め、絶対に生かすと誓った日。そんな日から、今日まで自分の抱えていた気持ちなんて例え血の繋がった娘にでさえ分かるはずがない。そんなことを、唐突に詩織は理解して狼狽えた。

 でも、と。

 唇を噛み締め俯く詩織の背中に、花織の言葉がかけられる。僅かに振り返った詩織は、だけどもう。その時の花織の顔を思い出すことはできない。


 ──でも、私を産んでくれてありがとう。

 そう言った花織の顔を、詩織はもう思い出す事ができないのだ。
 
 
 

「…貴女は、花織ちゃんに好きだと伝えた事がありますか」

 ぼんやりと花織が死んだ日のことを思い浮かべる詩織に、八神の言葉が落ちる。その八神の濁りのない瞳に、詩織は思わず鼻で笑った。好きと嫌いとか。そんなもの、花織に抱いたことなんてなかった。ただただ、自分の腕の中で眠る小さな命を死なせないように、必死だった。ただ、それだけの関係。そのはずだったのだ。
 詩織は八神の質問に答えず、ふるふると弱く首を振った。

「ねぇ、八神さん。私のこと、酷い親だと思う?親は愛情を持って子供に接するべきだと思う?子供は親を尊敬するべきだと思う?」

 それが真実ならば、詩織と花織は家族と呼べるようなものではないのだろう。花織が言った通り、そんなものはただの名称に過ぎない。それでも、と。じんわりと瞳の奥が熱を持ち、詩織は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

 それでも二人は、確かに家族だった。

「正しいことを言ってる時、気持ちいいでしょう?自分は普通なんだって思うでしょう?人の不完全な部分を見て安心するでしょう?……普通の人ならきっとその立場になれるの。だけど私たち、普通じゃない家族なの。そういう家族も、存在するの。貴方には分からないでしょうけれど」

 詩織はもうこれ以上ここにいる気がなくなって、すっと立ち上がると扉へと足を進める。もう二度と、この事務所に来ることも、目の前の男に会うこともないだろう。

 どうして自分は、初対面の男にこんな話をしているのだろう。泣きそうな心にふと我に帰り、詩織は八神を振り返った。茶化すことも責めるわけでもない真っ直ぐな八神の瞳を見て、なんとなく花織が彼らと行動を共にしていた理由が分かったような気がした。
 立ち上がった詩織をエスコートするように八神が扉を開き、少し迷ったように視線を彷徨わせてから口を開いた。

「…俺は結婚もしてないし、子供もいません。だけど、俺は……俺たちはかつて子供でした。子供が親に求めているものを、知っているはずです。貴女がどういう経緯で妊娠して花織ちゃんを産んだのか。俺には分かりません。それでも、花織ちゃんはきっと貴女からの愛情を望んでいたと思います」
「………そうね」

 だけどもう、死んだ相手には何もできないことを。かつて子供だった大人の二人は、充分すぎるほど理解している。

 パタン、と静かに閉まった扉を見て八神は深くため息をついた。海藤や、杉浦に何と言って報告するべきだろうか。そう考えるだけで気は重い。
 手元には、花織が残したという一通の手紙。
 真っ白い封筒に、女子高生らしい丸い字で『八神探偵事務所様』と書かれている。



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フロランタン