そして君は君は笑う
海の中で、生きているみたいだった。
もの心ついた頃から両親は厳しかったと思う。有名な大学を出ているらしい両親は、子供の私にそれ以上を期待していた。着る洋服、一緒にいる友達。学ぶ塾、習い事、生き方全部。両親の指示通りに生きていた。
昔小学校の授業で、服を着たままプールに入ろうというのがあった。最初は楽しく遊んでいたのに、体にへばりつく衣服が重く思うように動かない体に苛々とする感情と、このまま溺れたらどうしようという焦りが生まれたのを今でもよく覚えている。そしてその感情は、十七歳になった今でも心にずっとこびりついていた。
まるで深い海の中を全力で走っているような息苦しさを、ずっと感じていた。どれだけ走っても早く走れず、錘をつけているように体は重く。ニコニコと笑って両親の期待に応えれるように努力して。私なんてものは最初からなかったみたいに。誰かのためだけに、私は息をしていた。
「山下さんってさあ、正直うざくない?」
「あー、分かる」
聞こえてきた台詞に、扉にかけていた手をピタリと止めた。忘れ物を取りに来ただけなのに、教室にはまだ誰かいたらしい。聞こえてきた自分の名前に、足が地面に縫い付けられたように動かない。
「委員長に立候補するとかさー、内申点あげるのに必死か、っての」
「でもあの子、あんな優等生ぶってる割に成績そんなに良くないらしいよ」
「まじ?何それウケる」
キャハハ、と響く笑い声に頬が熱くなってジワリと涙が浮かぶ。自分がクラスに馴染めているとは思ってないけれど、こんな風に陰口を叩かれているとも思わなかった。委員長だって、別に好きでなったわけじゃないのに。誰も立候補せず、クラスに流れる重い雰囲気と真面目な私に向けられる押し付けの視線に耐えきれず手を上げた。ただそれだけなのに。
扉にかけていた手を引っ込めて、もう忘れ物は諦めて帰ろう。そう思った矢先だった。スッと自分の隣に誰かが立ち、躊躇なく教室の中へと入っていく。あ、っと呆気に取られてその後ろ姿を目で追うと、明るい金に近い髪が夕日に溶けていくようにズンズンと突き進んでいく。
──佐倉花織
この学校では少し浮いた存在の、一匹狼の女の子。彼女は自分を見る複数の視線などまるで気にも止めず、自席からノートを取り出す。それから、私の机に置きっぱなしだったマフラーを手に取った。
「…あ、佐倉さん。忘れ物?」
「びっくりしたあ」
「それ山下さんのじゃん。仲良かったっけ?」
彼女たちは私が入り口付近に立っていることなど気づきもしないで、何事もなかったかのように佐倉さんへと話しかける。佐倉さんは彼女たちを一瞥し、無言ですぐ横を通り過ぎた。どうすればいいのか分からず立ち尽くす私に、マフラーを差し出す。そこで初めて、彼女たちは私の存在に気がついたらしい。
「あ、山下さん…」
気まずそうに呟かれた言葉に、私はへらりと笑って返した。私は何も聞いてません。そう態度で示すと、彼女たちはあからさまにホッと胸を撫で下ろす。
「ありがとう、佐倉さん」
佐倉さんからマフラーを受け取り、小さく震える手をバレないように「やっぱマフラーがないと寒いね」と誤魔化した。佐倉さんはこくり頷き、背後に振り返る。
「いいよね、群でいると強くなれた気でいれるから」
「…、は?」
「羨ましいなら素直に言えばいいのに。委員長になりたいです、て」
「なっ…!私は別に…!!」
顔を赤くする彼女たちに、佐倉さんはくすりと笑った。同い歳と思えないような大人びた微笑みに、私は別の意味で頬が赤くなる。佐倉さんは適当にかけていた私のマフラーを綺麗に巻き直し、柔らく微笑んだ。
「陰でコソコソ何か言ってる人より、人が嫌がることをする山下さんの方がずっと偉いと思うよ」
そう言ってスタスタと離れていく背中から、私は目が離せなくなっていた。ドキドキと煩く鳴る心臓に、興奮が止まらない。運命だと、直感で思った。もっと仲良くなりたい。もっと佐倉さんのことが知りたい。どうしてこんなにも泣きそうな気持ちになるのか、その理由が知りたい。
そして数日後、私は佐倉さんを追いかけて屋上の扉を開いたのだった。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎
花ちゃんは、とても強い女の子だった。
教室でいつも一人で、だけど孤独を感じさせないまっすぐな目をしていて。進学校であるうちはみんな真面目な生徒ばかりなのに、花ちゃんは派手な髪色と何個も校則を破った格好をしていた。みんな花ちゃんのことを落ちこぼれというけれど、本当は違うことを私は知っている。
本当は頭が良いのに隠している事も。
誰も見向きもしない教室の花の水換えをしている事も。
うちと一緒で、親とあまり上手くいってない事も。
本当は、少し寂しそうに笑う事も。
私は、誰よりも知っている。
『じゃあ、明日十八時にリゼでね』
ピッと短い音をさせてすっかり寝る前に恒例となった花ちゃんとの通話を切る。まるで恋人同士のようで、幸せな気分に笑みが溢れた。
相変わらず両親の帰ってこないこの家で、花ちゃんの声を聞けるだけで寂しさが紛れるような気がした。今まで感じていた孤独が嘘のように、世界は驚くほど色鮮やかに見える。
花ちゃんとなら、何処にだっていける。
何にだってなれる。
そんな根拠のない自信が、胸を締め付ける。それだけで、この腐った世界が大切に思えてきた。
それは、きっと花ちゃんにしかできないことだ。
──『ねぇ、まる。』
ベッドに転がりながら、電話の中で花ちゃんが言っていたことを思い出す。いつもカラカラと楽しそうに笑う花ちゃんが、少しだけ緊張したように切り出した話はとても魅力的な提案だった。
『大人になったらさ、二人で海外に行かない?私は多分、大学とか行かせてもらえないだろうからさ。頑張ってお金稼ぐよ。だからまるは、いっぱい勉強してて。それでさ、一緒にこの地獄から抜け出してやろうよ。』
あまりにも素敵な話に、咄嗟に言葉が出なくて言い淀む私に、花ちゃんは慌てたように『返事はまた今度でいいから、ね』と付け加えた。
うん、と返事をしながらも私は胸の高鳴りを抑えきれなかった。キラキラと目に映る全てのものが輝いて見えて、枕を抱えながら堪えきれない笑いを溢した。
親も教師もクラスメイトも。今はもう何も怖くない。あの人たちの声なんか届かないところで。世界で一番幸せだって言える。
例え世界中を敵に回したって。明日地球が滅びる日だって。二人だけで、笑い合っていこう。私たちだけの世界で。花ちゃんと一緒なら、私はこの世界で生きていけるから。
明日、花ちゃんにちゃんと伝えなければ。答えはもちろん、イエスだって。
ねぇ、花ちゃん。大人になることがこんなにも待ち遠しく感じるなんて、想像もしていなかったよ。
これから、一緒に色んな場所へ行こう。
綺麗なものをいっぱい眺めて、美味しいものも沢山食べて。
──そうしたら、一緒に大きな花マルを咲かせようね。
約束だよ。