「ね、幸村くん」


彼女はベッドの上に寝転んで、アプリで「ハートがどうの」「キャンディがどうの」とぶつぶつつぶやきながら、頻りに指をせわしなく動かしてゲームに興じている筈だった。けれどもそんな彼女に安心して、彼女の寝転ぶベッドサイドに腰掛けながらいつもの雑誌を読んでいた俺を現実世界に呼び覚ましたのは、いつの間にやらそれから目を離してこちらを間近に見つめるまっすぐな目と、いつもより何やら信念めいたものを感じさせるハッキリとした声だった。

「どうしたの」
「キスしたいな」

突然の申し出に多少驚いて目を見開けば、彼女は俺の方へとじわじわにじり寄ってきて、そうして自分の後ろで膝立ちになって俺を抱きしめる。彼女の髪が肩に当たってくすぐったいし、それほど大きくは無いとはいえ、存在しないわけでは無い胸が微妙に当たって、少しばかりドキドキする。

「いいけど、今日は積極的だね」
「そういう気分なの」

小さくよいしょ、と言って膝で歩いて俺の前へと移動して、俺の開いた足の間にまた膝立ちになった。そうして今度は前から俺の肩口に腕をおいて、ふふんと鼻を鳴らして笑う。いつもとは違う、挑戦的な顔つきで俺を見下げる彼女がなんだか少し新鮮だ。

面白くなって笑い声を零すと、「幸村くんはじっとしててね」とイタズラ盛りの子供みたいな声で言われる。「え、何で?」と問えば、「今日は私がキスしたいの」と。付き合い始めてもう何年も経つけれど、こんなことを言われたのは今回が初めてだ。

「俺のことはまだ『幸村くん』なのに?」
「……幸村くんは幸村くんなの!」

俺はいつだって名前を呼び捨てなのにな、彼女はいつまでも俺を『幸村くん』と出会った頃のまま呼び続ける。彼女のその呼び方に特別を感じられないほど子供ではなかったけれど、それと今日とのギャップが何だか面白かったのでからかうと、思った通りのむっとした声が返ってきて、尚のこと面白い。

ベッドについていた手を彼女の腰に回せば、「目、つむって」と言われる。言われた通りに目をつむると、暫くは無言の時が続いた。
まだかな、と思って目を開こうと思ったその瞬間に、鼻の頭にちゅ、と控えめに唇が触れたのがわかった。

「くすぐったいんだけど?」

俺の質問に答えることもなく、ちゅ、ちゅと唇が鼻の頭、鼻筋、それからまぶたの上に移動する。
そんなことをされてじっとしていられるような性分でもなくて、堪らず目を開いて腰に回していた手を彼女の頬に添えれば、「じっとしててって言ったのに」と、不満そうに言われてしまった。

「ごめん、無理」
「無理じゃない!」

もう!と怒り始めた彼女に、「少しだけ、黙って」と言って、今度は唇にキスをした。出かかった言葉を間違って飲み込んでしまったみたいに、途端におとなしくなるのが可愛くて、愛しさがこみあげてくる。

顔を傾けて、時折角度を変えながら、互いの酸素を奪い合うみたいなキスをする。時々「ん、」とくぐもった声が聞こえてくるのがたまらなくて、背筋を何かが駆け上がっているみたいにぞくりとした。
頬に添えていた手を片方だけ髪に差し込んで、またキスを続ける。最初にしていた、唇同士が触れるだけの物ではなくて、次第に互いの唾液を交換しているかのようなキスに変わって行った。少しだけ開いた唇から舌をねじ込んで、歯列をなぞって、互いの舌を絡めあって、それから、……それから。





どんどんと胸を叩かれたことに気が付いて唇を離すと、でろりとだらしなく唾液が零れ落ちた。それがどっちのものかなんか全くわからないくらい、長い間キスをしていたように思う。

頬を上気させながら、足りていなかった酸素を補うみたいに肩で息をしている。彼女が手の甲で拭った唇は互いの唾液でリップグロスみたいに濡れていて、頬と、少しだけ乱れた髪と、彼女を取り巻く空気と全てが合間って扇情的だ。
こう言う時に、俺は運動部でよかったなと少しばかり邪な感想を抱く。キスで息が上がっていたら格好がつかないし、何より、彼女のこんなに魅力的な姿を見られないなんて、あまりに大きすぎる損失だろう。

「……しんど」

膝立ちだった筈の彼女は疲れてしまったのか、大きくため息をついてから初めと同じように「よいしょ」と言って俺と同じにベッド再度に腰をかけて、ぼすんと俺の肩口に顔を預けた。

「疲れた?」
「うん」
「ごめんごめん」

軽い調子で謝れば、「笑い事じゃないんですけど」と不服そうな答えが返ってくる。そんな彼女に目をやれば、頬はいまだに上気して赤くなったままで、何だかそれも堪らなくて、むくむくとまた欲が立ち上がってくる。

「ねえ」と問うと、さっきの俺と同じ「どうしたの」が、俺とは違う声色で返ってくる。そういうのが、いちいち嬉しいような、そうでもないような。

「キスしたいな」

俺もさっきとおんなじセリフを言えば、彼女は笑う。「さっきしたじゃん」と目を細めて言うので、ぐいっと顔を寄せてそんなことを言う唇をもう一度塞ぐ。


「お望みなら、キス以外もね」


さっきあれだけ激しいキスをしたのに、耳元でそう言うだけで真っ赤になるところが可愛い。「そういうとこ、好きだな」と続ければ、小さな声で「幸村くんのそういうとこが嫌いだな」と返ってくるのが、おかしくて。

「嘘はいけないな」

と何処かで聞いたことのあるセリフを言いながら、俺はまた彼女の唇を塞ぐことに専念した。