反転率50%
最近仕事の忙しさが増して全く会えなくなった銃兎とレアナ(半同棲中)。久しぶりに家にいるタイミングが重なることを知って、今日は早目に帰宅。{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲{emj_ip_0687}▼{emj_ip_0686}▲
ドアを開けると違和感。
いつもならとんで「おかえり」を言いに来るレアナの姿がない。
靴はあるし、電気もついている。訝しみながらリビングのドアを開けると、その姿はキッチンにあった。
声をかけようとして、その音は喉で詰まった。
彼女は蹲っていたのだ。
急いで駆け寄り名前を呼んだ。それに肩を揺らして反応するレアナの様子に、嫌な予感がする。
「どうしました?」
震える肩を手で支える。頼むから無事でいてくれ。
その時、視界の端で何かがキッチン台から落ちてきた。見るとそれはカッターの刃の欠片。視線を上げると、キッチン台にはいくつかのカッターの刃が散らばっていた。まさか、自傷行為?銃兎の背筋が冷えていく。
「わた、わたし…な…で」
ハッとしてレアナを見ると、その手にはカッターが握られていた。強く、強く。力がこもりすぎてその手は白くなっている。ざっと彼女の様子を見回すが、手首など自傷しやすい場所に傷はない。血の色も匂いも見受けられなかった。もう一度キッチン台に視線を移す。刃が散らばっている以外に違和感はない。
コンロには作りかけの鍋が置いてある。火は直前に消したのか、その蓋からは湯気が登っていた。だしの良い香りがキッチンを漂っていた。
「……め、なさ…」
ついに彼女の声はか細く啜り泣くような音を伴い始めた。懺悔の言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。
「わたし…ごめんなさ…こんな、こんな…」
「レアナ、大丈夫ですから、落ち着いてください。私です。分かりますか?」
錯乱しかけの状態に、ゆっくりと落ち着かせるようにレアナに声をかける。こんな状態の彼女に刃物を握らせておくのは危険だ。いつその凶器が彼女自身に向かうか分からない。
まさかこんなところで、仕事の経験が生きるとは…。
変わらず冷静に思考する自身に自嘲にも似た思いが浮かぶ。
震えるカッターに手を重ねようとした。
あと少しというところで、突然カッターが閃いた。
「…ッ!?」
その刃を寸でのところで躱す。
完全に油断していた。彼女の握るものが自分に向かってくる可能性を考えていなかった脳が、小さな混乱を起こす。一気に跳ね上がった心拍音が煩い。
は?今何が起こった?レアナが、カッターで…?戸惑う銃兎に現実を叩きつけるように、彼女はカッターを握り直すのが見えた。
「ち、ちが…!ちがうの、わたし、こんなつもりじゃ……!」
彼女が顔を上げた。
その表情は、銃兎が予想した通りだった。目には涙を浮かべて、彼女自身ですらこの状況に困惑して錯乱しかけているようだ。
ようやく合った目に、銃兎は驚いた。
いつもならその瞳に浮かぶのは喜色で、笑顔で―記憶にあるのはそんな表情ばかり。泣いた姿ですら、付き合い始めたあの日しか見たことがない。あの時だって、喜びに感極まっての涙だった。こんなにも取り乱して、ワケも分からず泣いて、絶望を浮かべた彼女を初めて見た。
「おねがい…じゅうと…わたしを……とめて」
じゃないとわたし、あなたを―それに続く言葉をレアナは噛み締めた。
震える彼女の腕がゆっくりと持ち上がる。
銃兎には勿論対人格闘の心得くらいはある。それに相手は素人となれば、簡単に制圧することは可能だ。
―ただ、彼女を傷付けたくない。
その一心で銃兎は自分から一手を打つことが出来なかった。
珍しく躊躇いが見える銃兎。焦りさえ窺える彼の顔を見てレアナは自分がとるべき行動があっさりと分かってしまった。
カッターの持ち手を変える。刃を下向きに持ち変えて、その先を自分の喉元へ。さっきまで恐ろしい程に自分の意志を通さなかった両腕が、簡単に動いた。
なんだ。こんな簡単なことだったのか。
不思議と恐怖は感じていなかった。これもあのチンピラが使っていた違法マイクらしきものの効果かもしれない。かき乱されていた胸中は今や凪いでいた。カッターを振り下ろす。自分の喉から血しぶきが上がるのを想像しながら―
――嗚呼、全く予想通りだった。
レアナの喉を伝う生ぬるい液体。のろのろと鎖骨に垂れる。痛くない…?レアナはビクともしなくなったカッターに違和感を感じて目を開いた。彼女の首を貫くはずだった刃先は見えなかった。確かに。たしかに―銃兎の赤い手袋に覆われていた。それを認識して、レアナは言葉にならない叫びを短くあげた。
同時にカッターから手を離した。それは落ちることなく、銃兎の手に収まっていた。
「…ぃ…ッてぇ……」
「え…じ、じゅうと……なんで…」
「…ハァ…ったく…。"とめて"っつったのは誰だ」
痛みに顔を顰めながら彼はカッターを引き、シンクに放り出した。
「ぁ…め、なさ…ごめんなさ……」
事態を把握した途端頭が真っ白になった。
わたし、わたし、ほんとに、ほんとに銃兎を…わたしが…?
裂けた布地から滴り落ちる真っ赤な雫に手が伸びた。ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながらひたすら口にする。
「見た目ほど深い傷ではありませんから大丈夫ですよ」
嘘だ。だってこんな血が。
反論しようと顔を上げると、そこには驚くほど優しい顔をした銃兎がいて。
「それよりあなたは怪我などありませんか」
なんてことないような声で他人のことを気にかけるような言葉を吐いて。
「ば……」
「ば?」
「バカじゃないんですか!!」
は?とぽかんとしてる銃兎の手を痛くないように引いてソファへ。
ガチャガチャバタンと慌ただしく救急セットを戸棚から出す。
「ほら!はやく!手袋を脱ぐ!!」「殺菌!消毒!!」「いっ〜〜〜!!ばっかお前!加減するとかないのか…!!」
さっきとは一変。騒がしく応急処置をする。ひとしきりギャンギャン言い合って、ふと訪れる沈黙。包帯がゆっくりと回る。
「…体はもう大丈夫なのか」
手当される様子を静かに見ていた銃兎が気遣わしげに言う。
「…うん」
小さな沈黙。最後に包帯の端を結ぶ。
「…その、ごめんなさい。わたし」
改めて謝罪の言葉を発そうとしたレアナの目元を白が覆う手の指先が擦る。
「また泣くんですか?」
普段小馬鹿にしたような言い方。でも今日だけは違った。どうしてそんなに優しくできるの。わたしはあなたに刃を向けたんだよ?そう問うと、彼は破顔して笑った。
「あなたはそんなこと出来ませんよ。私が保証します」
「嘘ばっかり…さっきわたし…」
「どうせまた厄介事に巻き込まれたんでしょう」
そしてレアナの腕を引っ張り上げ、微かに戦慄くその柔な体を抱きしめた。
「お前が無事でよかったよ。」
心底息をついたようにそう言って。その吐息にレアナはぽろぽろと涙をこぼす。耳元で銃兎が喉を鳴らして笑う音がした。
レアナがカッターの刃先を喉に向けた時。
身体中の血の気が引いた。あんなに煩く鳴っていた心臓の音もあの一瞬消えた。
手が伸びる。
腕を引いたのでは間に合わない。叩き落としてはその刃先が今度は彼女の足に落ちるかもしれない。全て反射的に処理され、答えはもう明確に弾き出されていた。
容赦なく皮膚を割く鋭い痛みに思わず顔を顰めた。手袋のおかげで傷口の方は浅くなったか。流れ出る自分の血を見て冷静に判断する。彼女の喉を伝う赤が、一瞬彼女自身の色のように見えた。
…いや、落ち着け。
あれは自分の色だ。大丈夫だ。彼女に刃先は届いていない。
…思わず怪我の有無を聞いてしまった。そんなの先程から散々己の目で確認してきたことじゃないか。その時からずっと御しきれない不安が渦巻いていた。
それが落ち着いたのは、リビングで彼女から明確に大丈夫だという答えを得てからだった。
自暴自棄になりつつある彼女の腕を引く。簡単に胸に収まったその熱に、銃兎もようやく心の底から息をつくことが出来た。
震えながらもおずおずと首にまわる腕。
すすり泣く声。
その弱々しいレアナの様子に愛おしさを覚えて、すっかり安心して解けた喉から音が擽るように鳴った。
やっぱり泣くのかよ。

0120