首元の痣
「左馬刻!」そこらで一ドンパチ起こしてきた帰り道、嬉しそうな声が聞こえた。
ああこの声、間違いなくあいつだな。
咥えていたタバコを離す。
あのいつ見ても気が抜けてしまうほどの元気な笑顔を拝んでやろうと振り返った。
「…さ、ま…ぁっ…」
微かに漏れるレアナの小さな声に意識がふと戻ってきた。
……あ?俺はさっきまで何してたんだ。
ぼんやりする焦点が徐々に結ばれていく。よく見慣れた服、白い肌。そういやこいつに声かけられたんだっけか。地面に散らばる髪。は?地面?
その先に見えたものを理解するのに暫く時間を要した。
レアナの細い喉は、男の手によって締められていた。顔を真っ赤にして苦しそうに途切れ途切れに呼吸する度に、その喉が蠢く感触がした。
ああ、その感触がした。まさに自分の手から。それを認識した途端、全身の血の気が引いた。締められていないはずの自分の喉まで引き攣る。
なんで。
意味がわからない。
なぜこうなった。
俺の手で、レアナの首を絞めている。その事実を認識しても、この指が離れることはなかった。それがなおのこと意味がわからない。
こいつの顔を見る度に湧いてくるこの気持ちはなんだ。到底認めたくない、黒々とした炎しか感じられない。
心底この指を離したいと、本当に思っているのかすらその熱のせいであやふやになってくる。
あと少しのところまで這い上がってきた憎悪の言葉を奥歯で噛み締め、言葉を絞り出した。
「……逃、げろ」
なんでもいい。何をしてもいい。
俺を殴ってでも今すぐ逃げろ。
もうとっくにおかしくなってしまった自身の手ではこいつを逃がしてやれない。だからお前から殴ってくれ。止めてくれ。
「……い、や」
「何言ってんだはやく逃げろ」
「いや…!」
「ッざけんな!はやく逃げろっつってんだよ!!」
「絶対、嫌!!」
だって、左馬刻ひとりになっちゃう…!
その一言に衝撃を受けた。
こいつ、ここまできて何言ってやがる。こんなことになってまで、何考えてやがる。馬鹿じゃねぇのか。
手に力がこもった。
本格的に目の前の顔が歪む。涙さえ浮かべているのに、こいつは何もしてこない。ただ俺の顔を映すばかりだ。
だめだ。
その瞳孔が徐々にブレる。
背筋が反りが増す。
やめろ。
その涙が落ちるのと同時に、俺の中で何かが切れる音がした。
―左馬刻、左馬刻、ごめんね。
―お兄ちゃん…お母さんは?
―お母さんが、弱いばっかりに…
酒瓶の割れる音。
次いで人間を殴る鈍い音。
響く男の怒声。
か細く鳴る女の謝罪。
薄暗い世界の中で、そんな景色ばかりが過ぎていく。
―ご、ごめなさ…ぁ、う…!
―うっせェ!!
ミシリと嫌な音が聞こえる。
男が女の首を絞めていた。
その太い指が女の細い喉に食い込む。その柔らかい肌にどんどん指が――
「左馬刻…」
どこか遠くから聞こえた、泣きそうな声に意識が浮上した。ゆるゆると目を開けると、そこはどっかの病院の一室だった。
右手があたたかい。視線を向けると、そこにはレアナがいた。俺の右手に縋るように握る女の小さな手。それに握り返すと、レアナは恐る恐るこちらを向いた。
なんだ、泣いてたのはお前かよ。
濡れたその瞳を見つめ返すと、レアナはその表情を驚きに染めた。
「左馬刻…!」
思いきり抱き着かれて、地味に苦しい。だがその体温は悪くない。彼女の背に手を回してしっかり抱きとめた。
そこまで動いて、気付いた。あの時の、おかしくなった感覚がない。
こいつを見れば優しくしたいと思えるし、確かに愛おしさも感じることが出来る。
「神宮寺先生がね、治してくれたんだよ。
左馬刻、違法マイクの影響受けてたんじゃないかって」
「…あー、そういうことかよ」
そうなの?と首を傾げて問うこいつの頭を撫でくりまわした。やめてよー!と嬉しそうに嫌がるその笑顔に、言い様もない安心感が胸に広がる。
体をベッド起こすと、頭がズキンと痛んだ。これは殴られた時の痛みだ。いったいいつ殴られたんだ?顔を顰めていると、レアナが痛む箇所に手を添えた。
「痛い?ごめんね、左馬刻…。」
「あ?なんでテメェが謝ンだよ。」
「私が、逃げなかったから…。だから左馬刻が自分のこと殴るしかなくなって…。」
「…これ、俺がやったってことか。」
それを聞いて少し安心した。いくら自分の意思で制御できない状態であったとしても、それくらいは判断できたようだ。
あの時のクソ親父とは違う。それが何よりも左馬刻を安心させた。
ごめんね。またレアナが謝った。
それが妙に左馬刻の中でつっかえた。涙をしのばせたその謝罪の声は、あの忌々しい記憶の中に響いた母親のそれによく似ている。あの声は常にクソ親父に向けられていた。それを自分に向けられるのは、許せない。まるで、お前もあの男と同じ血が流れてるのだと突きつけられているようで。
「もう謝ンな。」
「でも…。」
「元はと言えば俺のせいだろうが。」
伺いみるようにレアナが身を起こした拍子に見えた喉元を見て、胸の内がグッと締まった。
それがそのまま顔に出ていたのか、彼女が申し訳なさそうに首元を手で隠した。
「オイ、それ。」
「えと、左馬刻のせいじゃないから…。」
「何とぼけた事言ってんだ。その手どけろ。」
強く言うと、その口調に観念したのか大人しくその首を晒した。
そこにはくっきりと、人の指の形をした痣が残っていた。これは、俺がしたんだよな。俺がこいつを傷つけた跡。
じわりと罪悪感が滲んできて、思わず伸ばした指先を降ろした。
「悪い…」
こいつに触れる権利すら今の俺にはない。今ですら、この手に残る柔い感覚が消えない。力を込めれば込めるほど沈み込むあの喉の感触が、簡単に蘇る。
気色悪ぃ。その手の平を強く握り込んだ。
その拳の上に、彼女の手が優しく乗った。
見上げたその顔は、微笑みを浮かべていた。
彼女は無言でその手を取って、痕に近付ける。それに指が無意識に跳ねた。
「触って。」
「何言って…」
「いいから。」
微笑んだまま、彼女は待つ。自分を殺しかけた男の手がもう一度その首にかかるのを。
気でも狂ったんじゃねぇのか。そう吐き捨てたくなった。
だが、捨てきれなかった。彼女に触れたいと燻る己の欲を、左馬刻はよく知っていた。だからどれだけ自分が情けなくとも、汚くとも、それを分かっていながらなお彼女に手を伸ばしてきた。今だって、自分の罪にあえぎながら彼女にすがろうとしている。
馬鹿は俺の方だったか。
彼女の優しい両手が、きつく握りしめた五指を解いていく。それに苦しみすら解かれた気になって、その痕にゆっくり触れた。
痛かったよな。
その痕を優しく撫でる。
苦しかったよな。
目に見える範囲の痣を余すところなく辿る。
指先に感じたそこは、相変わらずあたたかくて柔らかかった。
「左馬刻、あったかいね」
くすぐったそうに笑うそのアホ面に、今度こそ馬鹿だの阿呆だのの言葉1つくらいは言ってやろうと思った。
しかしそれも寸でのところで思いとどまる。
その手に落ちる雫に息を呑んだ。
「左馬刻、左馬刻…」
触れていた手に頬を寄せるその姿に、胸が締め付けられた。
「よかった…ほんとに左馬刻なんだね」
流れる涙を拭ってやる。
嬉しそうに笑いやがって。
「ね、左馬刻。そんな顔しないで?」
…うるせぇよ。
「―じゃあ、ひとつだけお願いしていい?」
ここに残るもの、全部上書きして?
その細い腰を掴んで思いきり引き寄せ、その口を塞いでやった。

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