夢の残り火
これは、私が、私という人間であるうちに見る、さいごの夢。「お願い、スレイ。私を…わたし、を───」
闇はすぐそこまで迫っていた。
寝室の窓辺から見える空は暗く澱み、黒い空の中天にぽっかりあいた穴はまるで紅い月のよう。そこから際限なく、燃える泥が垂れ落ちている。その光景は、さながら地獄絵図ともいえよう。
あの泥は、私がここまで連れてきた。私とともにあり、私の内側から這いずり出でたものたち。ただの人間なら、この呪いの熱にあっという間に呑まれてしまうだろう。
しかし、ここはスレイの領域。導師の清浄なる精神の内。穢れがそこに入ろうものなら、熱く、激しい浄化の炎によって焼かれて消える。
だからこそ、私は、本当の私のまま彼に会えた。私の精神はとっくに穢れに染まっていた。導師の領域に踏み込めるかどうかはほとんど賭けに近かった。違えれば、最悪灰の山だ。
でも、もし、焼かれるくらいで済むなら。そう意を決して飛び込んで正解だったと、まんまるに開かれた若葉の瞳を見つめながら思った。
火傷のようにヒリヒリと傷む指先も、爛れ落ちるくらいの痛みを残した四肢も、今ここに健在であるなら、何も後悔することなんてない。
「レアナ…?」
私の体の真下にいる、驚きを隠せない表情。仰向けのスレイに跨りながら、彼の素朴な純情さを噛みしめた。
その純粋さが好きだった。ありのままで、輝くひと。どんなに悪意を向けられても、決して染まらないひと。太陽みたいに明るくて、暖かくて。若葉みたいに優しい色をしたその瞳も。私を呼ぶ心地よく響く声も。全部、好きだった。
私にはないもの。私では手に入らないもの。正反対にあるもの。触れることさえ、もうすぐ叶わなくなるものたち。
だから、だから。
「私を……犯して。」
「───!」
動揺に震えた彼の手を片手で攫う。温かい手。やさしい手。今まで色々なものをすくい上げてきた彼の大きな手。それを私の胸元まで導く。
触れられるうちに。
あなたのあたたかさを心地よく感じられるうちに。
「お、落ち着いて、レアナ!」
慌てて動き出す彼の体を太ももに挟んで止める。体重は、ほとんど全て彼にかけた。
───優しいひと。
胸の内で、そうひとりごちる。
私を跳ね返すでも、突き飛ばすでもない。きっとスレイが全力で抵抗すれば、私はベッドから転がり落ちるどころかこの空間から弾き飛ばされるだろう。
そうならないのは…そうしないのは、彼のお人好しと称されるほどの優しさだった。
「どうしたの?急に、こんな。」
「もう時間がない…今じゃないとだめなの…」
これは私の身勝手な理由。一方的なお願い。
こうすることしか知らない、馬鹿な私の。
どんなにスレイが嫌な顔をしても、押し通そうと思っていた。
しかし彼の顔には、困惑の中にあっても拒絶感は見当たらない。それに、私の方が困ってしまう。
いっそのこと拒絶された方が、潔く諦めがついただろう。でも、こんな、こんな優しさを見せられたら…。私はありもしない期待を浅ましくも考えてしまう。少しでも優しく、甘い、夢のような時間を過ごせるのではないか、と。
でも、それではいけない。それでは、何も残せない。
「私から奪って……
想いも、今この時間も、この心も、全部…ッぐちゃぐちゃに壊して…!」
都合のいい妄想を振り払うように私はスレイに言い募る。彼の手を強く左胸に押しつけながら、願う。
私が私である内に、彼の証がほしい。消えないほどの傷がほしい。その痛みで、私をつなぎとめてほしい。この手で。この温度で。忘れられないくらいに。
私の鬼気迫る様子に、彼は何かを察したように動きを止めた。それでもなお口ごもるのは、私が求める行為の結果を考えているのだろう。
スレイが憂慮しているとしたら、それは自身の穢れを恐れてのことではない。優しい彼のことだから、私の心配をしている。自分の為じゃなく、目の前の人の為を思い、この行為を止めようとしているのだ。このひとは。
「これは私のエゴ。ただ私のためだけの夢。」
夢はいつか終わる。
夜があけると、泡となって消える。
目が覚めたら、こんな記憶は薄れる。
「私のことをおもってくれるなら、お願い。…犯して。」
どうせ、あなたは忘れてしまえるだろうから。
そう囁いて、私は彼の手を更に動かそうとした。
「待って。」
「な、に…」
「これが、君の望んだことなら…どうしてレアナは泣いているの?」
「………」
滲む視界は気にしないようにしていた。
この涙を認めたくなかった。
まるで、私がその痛みを望んでいないかのようで、そんなことないはずなのに、涙が止まらない。
彼の手が、優しい指先が、今度は彼自身の意思を持って動く。そっと私の目元を拭い、涙を払ってくれる。
私は加害者で、スレイは被害者だ。それなのに、どうしてこんなにも優しくできるのだろう。
苦しいほどに切ない想いが、喉を伝って溢れてしまいそう。
こんなに優しくされたら、私はきっと耐えられなくなる。冷たい闇の中に、戻れなくなる。
「苦しいの…息が、つまりそうで…」
彼は導師で、私は呪われた穢れそのものだ。お互いがお互いの存在を容認することなどありえない。決して、共には生きられない。
だから、せめて、形を残したい。忘れられないくらいに痛めつけてほしい。そうすれば、私はその傷跡を見る度にあなたを想える。
そんなことをしたら、スレイはきっと苦しむ。私を傷つけた自分の手を許せなくなる。
それでもいいと思ってしまった。これは夢で、スレイには何も残らない。苦しんだ記憶もなかったことになる。私に痛みが残るだけ。
ただそれだけで、いい。
これは、私の自己満足に過ぎない。変わらない現実に無駄な抵抗をして悦に浸ろうとしているだけ。分かってる。だけど、どうしたって涙が止まらない。止められない。
涙を拭い続けていたスレイが、スプリングを鳴らして上体を起こした。それによって私は後ろに倒れかけるが、素早く背に回された彼の手によってその事態は免れた。
「スレイ…?」
そのまま彼の手が背を上下に行き来する。抱きしめられるような状態のまま、困惑して彼の名前を呼んだ。
「よーしよーし。」
スレイの肩に頭を預ける格好となっているため、彼の顔までうかがい知ることはできなかった。けれど、彼が優しい表情を浮かべていることは、その声音から感じ取れた。
「レアナが苦しいなら、オレはレアナが安心できるまでそばにいるよ。息ができないなら、こうやって背中をさする。」
さっきよりもずっと近くに感じるぬくもり。心の中までも、こんなにあたたかいなんて。
その温度をもっと感じたくて、私は目を閉じた。
二人分の呼吸と背中をさする感触、スレイのぬくもり。窓の向こうの泥まみれの景色が遠のいていくような気がした。この空間は、ここだけは、スレイのそばいる。2人だけの世界。あたたかくて、柔らかで、ほどけていくような。
このぬくもりの中に抱かれたい。
──ここにいることを、ゆるしてほしい。
本当は、離れたくない。ここから消えたくない。
だから、スレイに私という存在の跡を遺そう。
私にスレイの存在を刻み込むのではなく、スレイの中に私の一部を置いていこう。
私が空っぽになっても、スレイの中に残っていれば、私はこの世界から消えることはなくなる。たとえ、この場所に帰ってこれないとしても。
ここに、何を残すことができるだろうか。私の証を、これが望んだ夢の跡なのだと証明できるなにか───
そう思った時、手首にはめていたバングルが視界に映った。
「……スレイ。
私、あなたに渡したいものがあるの。」
「ん?なに?」
「私の、大切なもの。」
ゆっくりと解かれる抱擁。
私が差し出した両手の中には、スレイと出会った時にもらった装備品のバングルがある。
「これ、まだ持ってたの!?」
「…嬉しかったの。
ひとからプレゼントを貰うの、初めてだったから。」
「レアナ…。そんなに大事にしてもらえて、オレも嬉しいよ。
けど、いいの?それなら君が持っていた方が…」
少し照れてはにかむ彼を微笑ましく思いながら、私は首を横に振った。
「私が持っていると…きっと、なくしてしまう。だから、あなたに持っていてほしい。大切なもの、だから。」
「……分かった。」
そう言って、彼は私の両手の中にあったバングルを受け取った。
「ありがとう、スレイ。」
「レアナが返してほしいと思ったら、また返すよ。それまで預かっておくから。」
「……うん。」
きっと、そんな日は来ないだろう。
私は暗い未来をそっと沈め、微笑んだ。
「オレさ、レアナに、自分が傷つくようなことをしてほしくないんだ。
だから、辛くなったら教えてほしい。苦しくなったらさっきみたいに伝えてほしい。オレができること、全力でするから!」
彼だって、窓の向こうの穢れに気付いているだろうに。それなのに、こんなに健気に、明るく、眩しく笑うことのできる彼は、この世界の光そのものなんだろう。
「───すき。」
「え?」
「好きよ、スレイ。」
彼のそういうところが好き。
いずれ相対することになったとしても、同じ世界に立てなくなるとしても、そういうあり方丸ごと。どうしようもなく、大好き。
暗い闇の中、ひとりぼっちでいた私を明るい光で照らしだしてくれたスレイ。
一緒に行こうと新しい世界に導いてくれたスレイ。
私に、こんなにもあたたかくて切なくて優しい気持ちを教えてくれた、大切な人。
これが恋だというものだとしても、そうじゃないとしても、私は今、愛をもって、あなたとつながりたい。あなたに触れたい。あなたのぬくもりを感じたい。
しばらくの間を置いて、突然スレイが勢いよくレアナに抱きついた。
「ひゃっ!スレイ!?」
「……それ、ほんとう?」
「う、うん…」
「うううう〜〜〜…」
「ス、スレイ…?」
唸りだしたスレイにただただ戸惑う。先程よりも強く抱きしめられていることも、この困惑にさらに拍車をかけている。
「もしかして…嫌、だった?」
普通に考えたら、こんな一方的な状況で好意を伝えられても嬉しくない。しかも、相手は穢れそのもの。いくら恋愛ごとに寛容な主神でも、これはさすがに首を横に振るものだろう。
「嫌じゃない!むしろ……」
「むしろ?」
そう聞き返すと、彼はハッと我に返ったかのように固まった。やがて動き出したと思ったら深呼吸をし、私に向き直った。
「……好きだ、好きなんだ。オレも。レアナのことが。」
「───…」
「えっ!?あ、ご、ごめん!泣くほど嫌だった!?」
気付いたら、私は再び涙を流していた。
先程の涙とは、また別の痛みを伴った涙だった。
頬を伝うものを止める術など私は知らない。この切なさとそこに混じる喜びをどう表現していいのか分からない。
ただただ、言葉にならない感情の渦が、涙となって流れていくばかりで。
「ちがうの、ちがう、スレイ。わたし、嫌じゃないのに、もうどうしていいか…!」
涙を拭う狭間に、掠れた声でスレイに必至に訴える。嫌じゃない。嫌なわけない。だって、私とあなたは、同じ気持ちで、かないっこないと思っていたものが通じ合って、それが嫌なわけないのに。
どうしてこんなに切ないのだろう。どうして、私たち、こんなに。
胸の奥底から、破裂しそうなくらいの想いが湧き上がってくる。情けないくらい、泣いてしまう。
「レアナ。」
名前を呼ばれ、涙でぐちゃぐちゃになったままの顔を上げた。揺れる視界に、彼の表情が映る。それはどこか安心しているような、嬉しそうな笑みだった。
「オレは嬉しいよ。君と、同じ気持ちなんだって分かって。レアナは?どうだった?」
「スレイ…」
凪いだ瞳から、握られた手から感じる彼の体温から、あたたかな風がふいた気がした。
今の、私の気持ち。嘘偽りない想い。
色んなことにもみくちゃにされていた心の中が澄んでいく。そこにあったのは、ただ一つ。
「私も、嬉しかった…スレイが好き…ずっと、ずっと…!」
一緒に居たい。
その望みだけはどうしても口には出来なかったけど、目の前の彼の顔は満足げに笑っていた。
これで良かったのだと、そう告げていた。
「あーぁ…夢みたいだ…」
ベッドに手をつき、天井を仰いだスレイは、力が抜けたような声でそうこぼした。
「夢では、あるけど。」
「でも、夢じゃない。そうでしょ?」
「そうなのかな……」
「だってレアナは、ここに居るから。」
当たり前のように言いのけるスレイの顔を見上げた。彼はあっけからんとしていて、これが本当に現実なのだと、そう信じて疑わない様子だった。
スレイが信じているものを私も信じたいと思った。
彼の目に映る光に、私は希望を見たい。
こんな残酷で、不合理で、不平等で、大嫌いな世界のほんの一部でもいい。彼が見る世界を私は好きになりたい。
黒ずんだ空の向こうから、光がちらちらと射し込む。
もう、夜があける。
「最後のワガママ、聞いてくれますか?」
スレイの頬に手を伸ばし、その心に問いかける。若葉の瞳は揺れながらも、正面から私を見据える。
「……うん。」
それだけ言って、姿勢を直した彼はその両目をぎゅうとつぶる。あまりの可愛さに、私は小さく笑みを零した。そして同時に思う。ああ、好き。大好き。
固くなった頬を指先で軽く撫で、そっと顔を寄せる。引き結ばれた唇と唇が、確かに触れ合う。
痛いほど高鳴る心臓の音。
唇を通して伝わる熱。
確かにここに生きている証。
──どうか。ひと欠片でも、彼に残せますように。
窓辺に映る細い光を私たちは瞼の裏で感じる。
彼の両手が私の背を引き寄せ、私の両手が彼の背に絡みつく。もうこれ以上ないくらいに私たちは近付き、それでもひとつになれない境界を埋めるように、きつく、ずっと───
スレイも、ひょっとしたら勘づいていたのかもしれない。
私がいつか、彼のもとを離れなくてはいけなくなること。ずっと一緒にはいられないこと。もしかしたら、この夜が最後になるのかもしれないこと。
瞼の裏が白み、私は目を開けた。
視界に広がる見覚えのない光景に、落胆の息を落とす。
本当に、最後の夜になってしまった。
でも、それで良かったのかもしれない。
身に覚えのない血溜まりを見下ろした。この姿こそ本当の私なのだと、朱色の向こうで私が嘲笑う。
肉片ひとつ落とさず呑み尽くしたこの業を思えば、この食指が導師に及ぶまでに離れることができて正解だった。
この業にどんどん私という意識は蝕まれ、そしていつか、消える。人間としての機能が段々失われていくうちに、私は悟った。
もう、きっと、会えない。会ってはいけない。私はこのままひとり消えゆく。それは死と同義。いや、死よりもずっと怖い。私という存在がこの世界に何も残らない。ああ、それはどんなに───
思わず手首に触れる。そこには、ずっと嵌めていたバングルがなくなっていた。
「あ…」
渡せたのだろうか。あんな不確かな夢の中で。ちゃんと。
「スレイ……っ」
きりきりと痛む胸。その場に屈んでその痛みに、悲しみに、耐えようとして両目を瞑る。
涙は、流れなかった。
この身の内に凄む獣は、いずれスレイの、導師としての道に立ち塞がる。
私は、おそらくもうそこには介在してはいないだろうけど。せめて、それまでの間だけでもいい。あの夢を、消えゆく私の居場所にしたい。この孤独を癒してくれる、あの一瞬を忘れたくない。
最後に、人間らしくいられた私を。辛かったり、嬉しかったりする度に涙を流せたあの時の。
私の、最後の、光。
優しい風が、私を慰めるように寄り添いながら流れて行った。
「スレイさん!」
「スレイ!」
永い夢を見ていた気がする。
ぼやける視界に瞬きながら、スレイは重い体を起こした。
何故か心配そうにこちらを覗き込む天族たち。それに疑問符を浮かべた。
「どうしたの、みんな…?」
ぼんやりした問いかけに、エドナが呆れたようにため息をついた。
「アナタ、覚えてないの?」
「え、どういうこと?」
「どうもこうもないわ。穢れよ。」
その一言に、未だピンと来ていないスレイの様子をみかね、ライラが詳細を付け加えた。
「スレイさん、昨晩から強い穢れに囲まれていらっしゃったのです。」
異変に気づいた天族たちが助けようとしたが、あまりに強い穢れであったため、手を出すことすらできなかったそうだ。
穢れはスレイに取り憑こうとしていたが、導師の浄化の力でそれは叶わない様子であり、天族たちは見守ることにした。
ずっとこのままなら、ロゼを起こして…と考えていたところ、夜があけるのと同時に穢れも消えてなくなった、ということだった。
「何かスレイさんの中で変わったことはありませんか?」
「うーん…別に体調もそんなに変わったことないかなぁ。ちょっと体重いかなってくらいで。」
「それはおそらく、長い間スレイさんが穢れと戦っていたから…でしょうね。」
「体調の他に何かないのか?」
「えー?そんな事言われても…う〜ん…」
しばらく悩んでいたが、やはりスレイ自身これといって思い当たることはない。
ただ、なにか夢を見ていたような…目を覚ましてから、そんな気がしていた。
「夢…それはどのような?」
「それが全然覚えてないんだよな〜…」
「君はな…!」
いまいちはっきりしないスレイの言葉に、ミクリオは思わずイラつきに似た感情を抱く。エドナに至っては、もうスレイに期待していないかのように遠い目をしていた。
苦笑いをしながら、ライラは「まぁまぁ。」と周囲をおさめ、スレイに向き直った。
「きっと、穢れと戦い続けてお疲れなのだと思います。少し休んで、冷静になったらなにか思い出すかもしれません。」
「なのかなぁ。」
戦っていたという自覚がないし疲れたという実感はわかないが、いつもより体は重い。きっとそうなのだろうと思うことにした。
出立は遅らせて少しの間ゆっくり休んでください、との主神の助言に、そうするよと答えて掛け布を引っ張ろうとした。
手を開いたその拍子に、何かが転がり落ちる。
「何か落ちたぞ。」
ミクリオが拾い上げたものを見て、スレイの脳を衝撃が揺さぶった。
「こんな装備持っていたか?」
なんとなしに問いかけたミクリオだったが、間を置いてもスレイから答えが帰ってこないことに不思議に思い、バングルから視線を上げた。
「スレイ…?君、───」
「ちょっと大変!!」
ミクリオが何かを言いかけた瞬間、ドアが大きな音を立てて開かれる。
慌てて駆け込んだらしいロゼが、焦ったように声を荒らげて言った。
「レアナがいないの!!」
なんだって、という誰かの驚いた声が遠く聞こえる。
みんなが、スレイの方に視線を集める。旅の指針を決めるのはいつだってスレイだ。それに加え、ロゼも、天族たちも、みんな知っていたのだ。スレイの想い、そしてレアナの想いも。
ミクリオに手渡されたバングルを見つめる。それに込められた彼女の願い。想い。心。そして、意思。
ぐらぐらする心臓を抑えるようにスレイはバングルを握りしめた。
「───行こう。」
「行く?行くってどこに?」
「今、立ち止まるわけにはいかない。」
窓からは眩しいほどの朝日が射し込んでいる。それに目を細めた。あの夜は、決して怖い夢でも、戦いの夢でもなかった。怨嗟の闇が蔓延っていようが、恐ろしい熱が渦巻いていようが、あの時間は、決してそればかりではなかった。
どんなに濃い穢れに満たされようが、そこにあった一筋の美しさを信じたい。目の前にいた彼女の姿は夢そのものではなく、確かに存在していた希望なのだと。
伝承に準えた導師の服を羽織る。
バングルを腕にはめ、この場にいる全員を見渡した。
「こうしている間にも、潰えていく心がある。想いも、つながりも。
だからオレは進まないと。オレの道を。」
「レアナさんを追いかけなくてもよろしいのですか?」
ライラは目を伏せながらそう問うた。
ライラはきっと、レアナの本質を感じ取っていたのだろう。いずれこうなることも。
「うん。どこかで会えると思うんだ。レアナの道とオレの道は絶対どこかで交わる、そんな気がする。」
だから今は、オレはオレの道を進む。スレイ自身が望む夢と、導師として歩む道と。
それがどこかでレアナの歩む道に交わる。その先に何が待ち受けていようが、関係ない。全部乗り越えて、そしてもう一度レアナに伝える。
オレの想いも、レアナの想いも。
たとえ、その時そこにいるのが彼女そのものじゃなかったとしても。
「レアナに会うためにも、今は導師の旅を続ける。きっとそれが、彼女の道にもつながっているだろうからさ!」
「…ええ、きっと。そうですわ。」
「まぁ、いいんじゃない?ワタシはなんでもいいけど。」
「全く、人騒がせなお転婆娘なんだから!」
「仕方ない。スレイがそう決めたのなら、邪魔はしないよ。」
スレイの決意に、三者三様ながらそれぞれが同意してくれた。そうと決まれば、と各々が旅支度に取りかかる。
そんな中、ライラがスレイに歩み寄った。
「スレイさん。もうお分かりかもしれませんが、レアナさんは…」
「大丈夫だよ、ライラ。オレは、どんなレアナもひっくるめて好きなんだ。
たとえレアナが良くないことをしていたとしても、レアナが忘れてしまったとしても…レアナが信じてくれた夢を、オレは忘れない。」
「ってこれ、ライラに言っていいことなのかな…!?」と苦笑いする導師の眩しさに、ライラは目を細めて微笑んだ。
「人が人を想う気持ちを、誓約なんてものでは止められません。それは真に、導師が人である所以なのです。
きっと…スレイさんなら大丈夫です。レアナさんをどうか、救ってあげてください。」
そう言って、ライラは目を伏せ、両手を握りこんだ。
「あの夜のこと…皆さんにはあまりお話していませんが、主神である私には確かに感じられました。スレイさんの中に、レアナさんが入っていったことを…」
精神そのものすら穢れで侵されていた彼女が、導師であるスレイの中に入ることはできないと、その時ライラは思った。浄化の炎は、明瞭な意識の中で受けるにはあまりに酷な強さだからだ。己の四肢が烈しい炎によって灼かれ続ける。それは正しく地獄の様相だ。レアナはすぐに引き返すだろう、と。しかし彼女は、爛れ落ちるほどの熱と痛みに巻かれながら、それでも前に進み続けた。自我にまで到達したその泥を無理やり引き剥がされても、なお。
そこで、ようやくライラは、彼女の想いの強さに気付かされた。柔い恋慕で歩むには、2人に残された道は険しすぎる。そう思っていたが、どうやらそれは、ライラの方がこの2人の想いの深さを見誤っていたらしい。
「スレイさんの精神世界にたどり着くまでの間、レアナさんはどんなに苦しくても、どんなに痛くても、決して歩みを止めませんでした。それはきっと、レアナさんの愛なのだと…私はそう思います。」
2人が茨の道を歩む決意をしたのなら、何としてでも支えたい。それがいつか、希望そのものになるとライラは確信していた。
「ですから私は、そんなお二人を応援しています。
…ふふ、これは、導師におっしゃっていいことでしたでしょうか?」
「ライラ…ありがとう。
じゃあこれは、オレとライラの秘密ってことで!」
「そうですわね!」
「なーにが秘密だって?」
突如現れたロゼに驚きながら、スレイはライラと顔を見合わせて笑った。
「ちょっとライラ。ザビーダがいないんだけど!……って二人とも、なに笑ってるの?」
「ひ、み、つ、です!」
「はぁ??」
バングルが、朝日を浴びてきらめいている。
あの時は、レアナが大した装備を持っていないと言っていて、それじゃだめだと渡したんだっけ。
スレイは頭の隅で思い起こしながら、太陽に手をかざした。
絶対たどり着くから。
レアナがスレイの中で、どんなに辛くても歩みを止めなかったように。
この道がどんなに険しく苦しいものであったとしても、その先に待っている君のために。
絶対に、諦めない。ここには君の想いも、時間も、この心も全てあるのだから。

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