巡らない夜の破片 T

湿った大地を踏んで走る。
走る、走る。
ただひたすらに、暗い森の中をひとり。

時々躓きそうになりながら、なお走り続ける。

既に息も足も限界だった。
それでも、少しでもあの拠点から遠のきたかった。

あの侵略者、ローマ軍から。
皇帝ルキウス・ヒベリウスから。


もう、木々は何も語りかけてこない。
鳥も、花も、草も、大地も。

いや、私が聞こえなくなってしまっただけか。


ついに、木の根に足を引っ掛け転んでしまった。

ベシャッと音を立て、ぬかるんだ土に倒れ込む。


どうしようもなく、孤独だった。
こんなにも誰かの声が聞こえないのは初めてだった。

今はただ、小雨が降り注ぐ音を聞くばかり。


泥濘を蹴って走る複数の足音と荒々しい息遣いが迫ってくる。
その唸り声すら鮮明だ。

地面から起き上がる気力もなく、ただその音を聞く。

口から涎を垂らし、牙をむいてこちらを睨めつける猛獣の姿を頭に思い描く。

私はこの子たちに食われるのだ。

それは、相当マシなことのようにも思える。
あの禍々しい皇帝に骨の髄まで食い絞られるよりかは、自然に還る方がどれほど気分も楽なことか。

そう思うと、もうだめだった。
体の力は底から抜けていき、声のしない地面に四肢を預ける。

1匹の鳴き声を合図に、猛獣の囲いがジリジリと狭まり、ついにその内の1匹が飛びかかった―



思い返せば、この生を受けたのはもう25年前のことだった。

当時まだ幼かったアーサー…アルトリウスと初めて会った。
この子がのちにこのブリテン島を救う英雄となるなんて、とても信じられなかった。

マーリンの計らいによって、幾度となく夢で逢った。

アルトリウスが自我をもち始め、言葉を操れるようになった頃。
私は初めて名前を問われた。

「そういえば、きみはなんていう名前なの?」

「名前…?」

「ぼくはアルトリウス、マーリンはマーリン。じゃあきみは?」

名前。
この場合、私はカリバーンという名を名乗ればよいのだろうか。

私はカリバーンの精霊であり、それ以外の何者でもない。
カリバーンの精霊は私しかいないのだから、名前もこれ以上必要ないのだ。

そう伝えるが、イマイチ理解できないのか、アルトリウスは首を少し傾げる。

「でも、不便だろ?剣の名前かきみの名前かわからないよ」

そんなものだろうか。
むしろ私の名前を呼ぶ機会なんて、この時期くらいしかないだろう。
この先、この子がカリバーンを抜いて選定を受ければ、私の出る幕はなくなる。
その時この子に必要なのは、「私」という人格ではなく、剣としての力だ。

返答に困ってしまいマーリンを仰ぎみると、彼女は笑って言った。

「アルトリウス、君、彼女に名前を付けたらどうだい?彼女はカリバーンという名前だ。だが君が違う名前が欲しいと思うならば、そうするといいさ。
この夢は、君の夢だ。」

アルトリウスは顔を輝かして、大きく頷いた。

「じゃあきみの名前は―」




襲いくる痛みに備えていたが、いつまで経ってもそれはこない。

代わりに獣の甲高い声が聞こえた。


閉じていた目を開けて頭を上げると、私を庇うように立つ人影が1つ見えた。

フードのついた布地のマントを翻し、
その人は、迫る獣に両の手で何かを横に振る仕草をした。

すると、まるでそこに剣があるかのように獣の腹は裂け、また1匹また1匹と倒れた。

恐れをなした群れの何匹かは慌てて逃げ帰っていく。


嗚呼、その不可視の剣に見覚えがある。
小雨が教えてくれる。
そこに見えるはずの剣の形を。
その形に沿って、雨の雫が打ち、伝い、落ちる。

今やあったはずのその繋がりも感じられず、冷たい鉄としてしか捉えられない身ではあれど。

その剣筋も、背丈も、よく覚えのあるものだった。


「アー…サー……」

掠れて小さくしか出ない声に、しかしその者はこちらを振り向いた。

目深に被った布の向こうに見えた金色の髪に確信を抱く。

「レアナ…?」

もう、会うことはないと思っていた。
もう会えることはない、と。

だから逃げた。
あのローマ軍の拠点から、ルキウスから、アーサーから。

人間となってしまった私には、もうなんの意味もない。力もない。
彼の傍にいる必要もない。

「アー、サー」

アーサー、アーサー、嗚呼、

「アルトリウス…!!」

先程までの力尽きた体は、今や溢れた気持ちで溺れそうだった。
必死でアーサーに向かって走り、その胸元に駆け込んだ。

アーサーは危なげなく受け止めてくれた。
彼はまだ混乱しているのだろう。
その両手は頼りなさげに宙に浮いている。

「アルトリウス、アルトリウス…!」

高まった気持ちが抑えられない。
自分の内側から一気に膨らんだこの想いで破裂してしまいそうで、アーサーに力いっぱいしがみついた。
きつく閉じた目から、涙が止まらない。

この気持ちは何なんだろう。
私の胸の中を支配するこの心は。

もう会うことはないと、会えない、会わない、会いたくないと思っていた。
ほんの数刻まで。

けど、彼に会った。
会ってしまった。

それに、私は、きっと喜んでいるんだろう。
歓喜し、嬉しいと感じている。
なんて矛盾。
なんて愚かで、浅ましい。
これがヒトの心というものなのだろうか。

「レアナ…」

もう、呼ばれることのないと思っていた私の名前。
アルトリウスが付けてくれた私の名前。
それがまた聞けるだなんて、思ってもいなかった。

アーサーの両腕が徐々に私の背中に回ってくる。
そしてどんどん力強く、しっかりと私を抱きしめ返した。

「レアナ…!」

その声に、その力に、私は彼も同じ気持ちなのだろうか、と思った。
彼も私に会えて嬉しいのか。
こんな、穢れてしまった私に。


そのまま私たちは、小雨の降る中しばらく無言で抱き合っていた。



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