巡らない夜の破片 U
どちらともなく、抱きしめる力を弛めてお互いの視線を合わせる。「レアナ、どうしてここに…」
最初に口を開いたのはアーサーの方だった。
彼は未だ戸惑っているように見えた。
その声もどこか頼りなく揺れている。
「私…逃げてきました。あの皇帝から…」
なんとなく言いにくいような感覚がして、口ごもる。
私はルキウスに穢され、今や人間の身。
彼の蛮行を思い出すと体の芯から震えが走る。
尽きたはずの涙が、またじわりと目の縁に滲む。
「あの皇帝」と聞いて、アーサーは察したらしい。
表情が途端に固くなった。
「あの男に…っ何か、されなかったかい?」
勢い込んだアーサーに、思わず気圧される。
彼に掴まれた両肩が少し痛い。
「ア、アーサー…」
「あの者程苛烈な男は見たことがない。奴はラクシャーサ…獣のような人間だ。君に何かしでかしたのではないかと心配していた」
そこでアーサーは一旦口を閉じた。
そして微かな吐息と共に、先程の勢いから一転した小さな声で続ける。
「…君は居なくなった。
僕は、レアナはブリテンを見限ったのだと思った。円卓を、国を、土地を。
だから、聖剣の光が消えゆくのだと。
あの男に暴挙を許してしまい、
君に、耐え難い傷を負わせてしまった僕の責任だと―」
言われたことの意味が半分も頭に入ってこなかった。
私が見限った?
円卓を?国を?ブリテンの島を?
アーサーを―?
聖剣の力が弱まったから…
私が至らなかったから…?
あの時の選択は間違っていたというの。
「わ、わたし…」
ぽたぽたと目から涙が零れ落ちる。
震える口で話そうとしても、上手く言葉にならない。
音は無意味に吐き出されるだけだった。
それがどうしてももどかしくて、どうしても嫌で、胸の内に悲しみや悔しさが渦巻く。
それに、アーサーに言われたことへのショックと…怒り。
それらも合わさって、頭は真っ白になってしまった。
「じゃあ…」
それまで何か喋っていたアーサーが、はたと口を止める。
「じゃあ、どうしろって言うのですか!?」
「レアナ…?」
「わ、わたし、私…!あの時精一杯で!!一生懸命で…考えました!でも、どうしようもなくて…どうすることも出来なくて…!!逃げられなかった!あの男から!!」
何も考えられなかった。
アーサーを前に泣き喚く自分を遠くに感じながら、それでも口を止めることはできなかった。
言葉は勝手に喉を伝い、口から溢れる。
涙は際限なく生まれ、手で拭おうともその甲斐なく地面に落ちていく。
「いたくて、痛くて痛くて痛くて!!助けも呼べなくて!
………こわかった……」
自分が今からされることが何なのか、どういう意味を持つものなのか全く分からなかった。
ただ与えられる暴力のような仕打ちに、痛みに、泣き叫ぶ他なかった。
唯一できたのは、聖剣の清廉な力を守ることだけだった。
自分が持つ力を全て聖剣に託し、繋がりを切った。
もう二度と、キャメロットには戻れないと覚悟した瞬間でもあった。
あの華やかな凱旋も、静かな玉座の間も、暖かな庭も、美しい王妃とのティータイムも…
円卓の騎士たちと笑い合うことも…
アーサーとお話することも……
全てを失くしてしまうという恐怖と痛みで最後には抵抗する気力も失せた。
されるがままに揺らされ、穿たれ、吐き出された。
ただただ私は、絶望を抱くばかりであったのだ。
そんな私の断腸の思いは、どうやら彼には伝わらなかったらしい。
逆に、捨てられたと思われていた。
まさかそんな風には受け取られているとは思いもよらずに、私はさっきまでのうのうと逃げていたのだ。
自分自身がとても情けなく思えてきた。
何を頑張っていたのだろう。
何を必死になっていたのだろう。
こんなにも痛くて苦しくて仕方ないのに、私は結局何も為せなかったのだろうか。
「あの男に組み敷かれ、これから私の身にされる蛮行を聞かされました…。
私、もうだめだと思ったんです!聖剣を穢してはならぬと!だから、だから…」
アーサーは何も言わなかった。
私は彼の顔も見れず、自分の手で目を覆いながらひたすら言葉を吐き出し続ける。
涙が地面の雨水と混ざり合い、見えなくなる。
「…私は、私がしたことは、間違っていたのでしょうか…?
ブリテンの―アーサー王の為にならぬ事だったのでしょうか…」
アーサーの手が、私のむき出しの肩に優しく触れる。
―そこは、あの皇帝に噛まれた跡が残っている。
アーサーの手が、そっと肩をなぞり首筋に触れた。
―そこには、鬱血痕が。
そのまま頬を通っていくアーサーの手に導かれるように、私は顔を上げた。
「……すまない。
僕は、君に…!」
そこにはこれでもかというほど眉を寄せたアーサーの顔があった。
苦しそうな、どこか泣きそうな。
そんな表情をしていた。
それを見て、またひとつ苦しくなる。
嗚呼、私はそんな顔をさせたかったのではないんです。
ここは地上なはずなのに、苦しくて苦しくて、息ができない。
胸の真ん中あたりがぎゅっと締められているかのような感覚がする。
どうにかこの窒息してしまいそうな想いから這い出したくて、
目の前のアーサーに縋った。
彼の首元に額をあてて、情けないくらいか細い声で彼に懇願する。
「おねがい、アーサー…
アルトリウス…私を……」
わたし、今、とても下劣なことを考えている。
でも、これ以上のことを考える余裕はなかった。
私がここから這い上がるにはこうすることが1番手っ取り早いと、体が教えてくれる。
彼の首に両腕を絡ませ、しっかりと回した。
「おね、が…」
あの行為を形容する言葉を私は知らない。
こんな舌足らずな言葉で果たしてアーサーに伝わるのかは分からなかった。
しかし―
視界はぐるりと変わった。
目の前に蒼い彼の衣装が見えるのは変わらないが、その向こうに空が見えるようになった。
相変わらずどんよりと、灰色の雲が低く構えている。
―伝わったのだ。
アーサーに組み敷かれた体勢で、私は悟った。
私の言葉の意味を彼は汲んでくれた。
そして叶えてくれようとしている。
毛先が、ところどころ水たまりに揺れて広がる。
理性なんて泣き喚いていた時には既に放り出していた。
今の私はただ、本能が求めるままに救いを乞うケモノだ。
『知っているか?ヒトはみな、獣を内に飼っている』
あの時、蝋燭の火に照らされながら低く嗤うラクシャーサの言葉がふと蘇った。
嗚呼、私、今本当に。
どうしようもなく人間なのだ――。
チラリと見えたアーサーの顔。
まだとても苦しそうだった。
もうそれを見たくなくて、私はゆっくりと視界を閉じた。

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