絶望はいつも少しやさしい
その日はなんてことのない1日のうちの一つだった。時計塔の講義が朝からいくつか。
お昼をはさんでひとつだけ。
寮に戻ってレポートを書けば、夜からは自由だった。
久しぶりにハリー…ヘンリー・ジキルと会うことになっており、ランチを食べながらもソワソワしてしまう。
何を考えてるの?と学友に問われ、慌ててディナーのこと、と返すと呆れて笑われてしまった。
ランチを食べながらディナーのこと考えるなんて、確かにどんな大食いキャラなんだ私。
それでも内心のドキドキが治まらないのは秘密だ。
ゆっくりと傾いていく暖かな木漏れ日に包まれながら、手作りのサンドイッチをかじった。
その日は、なんてことのない1日のうちの一つだった。
そのはずだ。
その、はずだった。
空は太陽がすっかり沈み、群青に染まってしばし経つ。
道は大勢の見物客で塞がれていた。
多くの頭の上から見えるのは、黒々と立ち上る煙。
これは、どういう事なんだろう。
あそこは、向こうに見える焼け焦げた柵は…
あぁ、ああ、
「うそ……」
私の呟きは囁き合う人混みに紛れて聞こえなくなった。
ヤードが野次馬たちを散らそうと声を上げている。
黄色のテープが黒くなった柵に巻かれ、懐かしい玄関のドアの前にピンと張られた。
全てに拒絶された気分だった。
時計塔の教授からこの報せを聞いてすっ飛んで来た道を振り返り、足を動かした。
遠目から物珍しい事件を見物する人々も押しのけ、足をひたすら動かす。
目の前で起きていたことの意味を、脳はまだ理解しきれていなかった。
行く宛すら考えず、どこまでも足は勝手に動いていく。
わたしは、これからどこへ行くのだろう…。
ぼんやり、そんなことを思った。
「レアナ…!」
モヤがかかったような視界が、突然クリアになった。
ハッとして視線を上げると、向こうからジキルが走ってきていた。
相当走ったようで、私の目の前で立ち止まってから暫く息を整える。
「はぁ…。ごめんよ、君のことを聞いて、いてもたってもいられなくて…」
どうやら彼もあの惨状を人伝いに聞いたらしい。
「約束の時間になっても店に来ないから、心配だったんだ。
…とにかく良かった。君が無事で…」
ぱっとジキルの優しい緑と目が合った瞬間、頭の中で思考を詰まらせていたものが溶けだした。
一気に何が起きたかを理解してしまい、そのあまりの途方のなさに涙が自然と浮かび上がってきた。
悲しさと虚しさと―孤独感。
「わ、わたし…どうしたら…っ。お母さん…お父さん………!」
たまらず口を開くと、何とも醜い声が喉から飛び出してきた。
涙がぼろぼろと零れ、地面に跡を残して消えていく。
ぐずぐずになった私の声じゃ、きっと何を言ってるのか分からないだろう。
だから…
だから、少しくらい。
ちょっとだけ弱音を吐いたって、誰も分からない。
ガラガラと自分の中の何かが崩れていき、喉が引きつった。
涙はその量を増し、それに比例して崩れて空いてしまった空虚が冷たくなっていく。
ますます声を大きくして泣いている私を見てジキルは暫くオロオロと戸惑っていたが、意を決したように止まった。
服を擦る音がしたかと思うと、ジキルの上着が私の肩にかけられた。
「レアナ、外は寒くなるだろうから…。だから、僕のアパートに来ないかい?そこで、今はゆっくり暖まって休むべきだ」
なんて下手な誘い方なんだろう。
平常通りの私なら、笑ってからかっていただろう。
けど、その拙さが今はとても心に染みて、どうしようもなく甘えたくなった。
屈んで、私の目線に合わせてくれる。
頑なに、無意味に涙を乱暴に拭っていた私の両手を止め、その片手で流れる雫をそっと拭ってくれる。
その手つきが本当に優しくて、
その体温が本当に暖かくて、
私も膝を折ってジキルに抱きついた。
ジキルは驚いて、その勢いに押されて尻もちを着いた。
それでもすかさず私の背中に手を回して支えてくれる。
肩元でわんわん泣く私の頭を落ち着くまでずっと撫でてくれた。
夜が明けるまで、まだ時間はある。
ゆっくりでいいから…
また明日のために、今は膝を折っていよう。

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