V.傷弓 -taking-
痛い、なんて知らなかった。痛いなんて言葉。
言う必要、なかった。
私の周りにそんなことを聞いてくれる人なんていなかった。
それが当たり前だった。
あの閉ざされた空間の中で、限られたものの中で、私はただ与えられるものだけで生きてきた。
痛いという言葉を誰も教えなかった。
それはそうだろう。私に求められていたのは、力だけだ。ただ実験を行い、それに見合った結果を出すだけ。
そこに、一個人の感想は求められていない。
ましてや、私の意思なんて。
「いたい…」
「はい?」
「ううん、なんでもない」
そう、それは過去の話だ。
今は――
「…そうですか」
「うん、そう」
今は、こうして返してくれる人がいる。すぐ近くに、私の言葉を聞いてくれる人がいる。
それが嬉しくて、顔が勝手ににやけてしまう。
へへへとだらしなく笑ってしまうと、納得いかなそうに顔を顰める彼。
「銃兎」
「今度はなんですか」
「ありがとう」
それから、ごめんね。
私は最後まで、ちゃんと笑っていられただろうか。
「定刻通り、回収完了しました。無花果様」
指定された場所に行けば、黒塗りの車にすぐ乗せられた。
後部座席の両隣、そして運転席に座る女性たちは、おそらく中王区の政府の人間だろう。
無花果様、というのが、今の政権を握る人の名前だろうか。
なにせ私が現中王区にいた時は前政権時代だったのだ。クーデターが起きてからのことは人並みにしか分からない。
そのまま一言二言やり取りをした女性は通信を切った。
沈黙が落ちる。
誰も話さない。話しかけない。
シンとして冷たく閉鎖されたこの空気が、妙に懐かしかった。
戻ってきたのだ。私は、この世界に。
なんだか、泣いてしまいそうだった。
胸が苦しい。
自分の一部が、どこか欠けてしまったかのよう。体の芯からじっくりと寒さが滲みていく。
無臭で清潔な空気さえ、何かが欠けていた。物足りない。満たされない。
あの、嗅ぎなれた煙草の匂い。そこに少し混じった香水の香り。
――足りない。
こみ上げてくる衝動を強く目をつぶって耐える。油断しては涙が溢れてくる。
心臓あたりはじくじく痛むし、喉も引き攣りそうだ。
「随分な有様だな」
電子音が混じる凛とした声に、ハッとして顔を上げる。
車に取り付けられている小型の液晶パネルに、女の人が映っていた。
「だれ、」
「無礼者!この方は勘解由小路無花果様であらせられます。最低限度の礼節は弁えなさい!」
突然隣から発せられた強い語気に肩をビクつかせて、反射的に謝った。
勘解由小路無花果…様。
先程通信していた相手方、なんだろう。
声の雰囲気と違わず、その目元からも彼女の強気で高圧的な雰囲気が伺える。
「ようやく見つけたぞ、ななし」
「どうして、私の名前を…?」
「お前、自分がどこで育ってきたか忘れたわけではなかろう。名前くらい簡単に調べはつく」
なるほど。やはり彼女たちは現政権の中枢に所属する者たちなのだ。
そうなると、私の行先はたぶん――
「お前には今後、私の指示で動いてもらう。精々その力、中王区のために生かせよ」
やはり、私はあの世界に戻るみたいだ。きっと、この思い出の詰まったヨコハマから離されてしまうのだ。
買い出し先の歩道でスーツを身にまとった女性たちに囲まれた時、覚悟はしていた。もしかしたら、と。事情のひとつも説明せず時間と場所を告げられ、もし誰かに漏らせばどのような処断が下されるか分からないと脅され、結局言う通りにするしかなかった。
後から聞いた話だが、勘解由小路無花果様は現政権のNo.2にあたる地位にいる人だそう。通りで高圧的に出られるわけだ。
銃兎のことが頭をよぎった。
警視庁の長という程なんだから、警察官である彼の上司にもあたるはず。
…拒否しなくてよかった。
心底ホッとした。少なくとも私は最善の道を選ぶことができているらしい。
これを断れば、直接彼に何らかの不利益を被らせるところだったのだ。
はっきりと銃兎をダシに脅してこなかったということは、まだそこまで調べは至っていないということか。
それなら、いいんだけど。
もうこうなってしまっては、私に出来ることといえば口を割らない、話さないという事だけだ。
あとは彼の無事を祈るのみである。
――初めまして。ななしさん。
――銃兎、と。貴女には下の名前で呼んで頂きたい。
ヨコハマで出会った彼。入間銃兎。初めて出会ったにも関わらずいきなり名前を呼ばれるし、下の名前で呼ぶことを要求してくるしでとても警戒したことを覚えている。
何故かばったり会うし、ヤクザの人と仲良しだし、しかもその人経由に彼が警察官であることも知った。
今までの人生経験が政府機関一色だったもので、警戒心が一気に跳ね上がった。
距離を置いたし逃げもした。
彼は賢い人間だ。私がその事実を知って嫌がれば、もう手に負えなくなることも想定していたはずだ。
なのに、それなのに…彼は遠ざかる私の手を取った。それでも、と詰め寄ってきた。今までにない程真剣に、意地悪に、優しく―あたたかく。
――分かりますか。これが、『好き』ということです。
手の平から伝わる彼の鼓動の速さに驚いた。少し赤みのさした彼の頬に言い様もないほど体温が上がった。彼の鼓動につれられて跳ね上がる私の心臓の音。滲む視界。
誰かに好かれることの、大きさを知った。
誰かを好きになることの熱さを知った。
誰かと結ばれる、その重さを知った。
――それを、幸せっつぅンだよ。
私は、誰かといる幸福を銃兎から教わったのだ。
幸福とは温度だ。
どこか冷たさを感じさせる彼の第一印象はすっかり覆された。代わりに感じたのはあたたかさ。
彼を見ると胸のあたりがあたたかくなる。
彼の声を聞くと鼓動が速くなる。
彼と抱き合うと、彼の体温を感じる。そのあたたかさが好きだ。安心すると同時にドキドキもする。その不思議な感覚に溺れてしまいたくなる。
ああ、彼の温もりが恋しい。
幸福から離され、突然彼に会えなくなってしまった現状がじわじわと現実味を帯びてきた。
それは隙間から少しずつ心を冷やしていく。
震えそうになる肩を抱いた私を見て、無花果様は嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「随分、弱くなったんだな、お前は」