簡単に醒めるようなはもう見ない

そこは一面白黒の世界だった。
わたしは硬いベッドに寝転がっていた。
見渡すと四方の壁は鉄格子。

――なんだ。いつものお部屋か。

ちょっとの安心と、ちょっとの落胆。

――落胆?

どうしてわたしは落胆したのだろうか。
妙にもやがかったモノクロの視界に、モノクロの男の人が現れた。
なんだかその人は、とても黒い色をした服を着ているように見える。

――鼓動が。
突然速まる心臓の音に、驚いた。
わたし、どうしちゃったんだろう。

ここにいる男の人たちは、みんな大人の人で。
わたしをいつもの場所に連れて行く人。
わたしの一日をお知らせしてくれる人。
いつもは、白くて長い上衣を着ているけど、今日は――黒い?

――あ、れ。

その人は、私の頭をぽんぽんと軽く押す。

――なに、これ。

わたしが固まっていると、その人は今度、わたしの髪の毛の先を指に通した。
そのまま、指先でなでる。

――どうして。

その指はゆっくりと髪の毛を伝い、私の毛先に至った。
そして、髪のひと束をとって私の耳にかけた。

――どうして…。

その人の指が私の頬をなぞる。

――どうして私、泣いてるの。

その人の指先の軌跡を辿るように、私の涙は静かに流れていた。
いや、この人の指先が、私の涙の跡を辿っていたのかもしれない。

――あったかい…。

手から伝わる温度は、ほどかれるような心地がした。
お尻の下に感じる硬くて冷たいベッドとは、真逆。
柔らかくて、温かかった。

黒い人は、少しずつ近づいてきた。
いつもの白い人はちょっと怖いけど、今日の黒い人はそんなに怖くなかった。
どうしてか分からない。
この温度に絆されたのかもしれない。
事実、私はこのぬくもりをもっと感じていたいと思った。
だから、ちょっと、ほんのちょっとだけ、期待する。
ドキドキする。
私は心臓を高鳴らせながら、目を瞑った。
少し間があって、ふんわり額が温かくなった。
その温かさに体は溶けてしまいそうになった。頭の中も、もうふにゃふにゃ。

ところが、そのぬくもりはいつまでもそこにはいてくれなかった。
またゆっくりと、離れていく。

冷たい。

寒い。

いやだ。

――おねがい、離れないで。

――いかないで。

――そばに、いて。



――一緒に、


手を伸ばした。

手を伸ばして、その人の袖口を掴んで――


目を、開けた。

そこは、別にモノクロでもないし、鉄格子に囲まれた世界でもなかった。
視界に自分の腕が映る。
その腕を辿ると、そこにはしっかりと黒を掴んでいる指先が見えた。

――黒?

「オイ、おまえ…」

上から声が降ってきた。
あれ、銃兎?
声の主は銃兎。入間銃兎。
黒いスーツに黒いネクタイ、ジャケットをバッチリ着こなした入間銃兎が、ちょっと驚いたような顔でそこにいた。

「…目が覚めたんですね。ななし」

瞬きをすると、目尻から涙が一筋流れていった。
それを見て銃兎は小さくため息をついた。

「何を泣いているんですか。子どもみたいに」

やれやれと言いながら、涙の跡を拭う指先はとても丁寧で、優しかった。
それに、

――あったかい…。

自然とその指先の温度に擦り寄るように、自分の手を重ねた。
こうすると、銃兎の体温がよく分かる。
彼の黒い服から指を離したのに、もう引留めるものは何もないはずなのに、それでも彼は私の手を払いのけることはしなかった。
ただ黙って、私の行為を受け入れてくれた。

「ねえ、銃兎」

「はいはい、なんですか」

「銃兎」

「聞こえていますから」

「じゅうと」

「無理に喋らなくていい」

嗚咽が一つ。
二つ。
ついには断続的に出てきた。
止めたい。
止めたいのに止め方が分からない。
別にどこも痛いわけじゃない。
昔銃兎に言われたことがあった。
痛い時は痛いって言うものだって。
痛い時は、泣いてもいいんだって。
でも、今はどこも痛くないのだ。
むしろふわふわとしてて、緩やかで、柔らかで、温かい。胸の奥が、ぎゅうと締まる。

「…なんだ、どこか痛いのか?」

銃兎の問いに、頭を横に振る。

「じゃあなんで泣いてんだよ」

「…っわか、な……っ」

もう手だけでは我慢できなかった。
私の体は、もう彼のぬくもりを知っている。
もう彼の心臓の音を知っている。
香りも、間近で聞く声も。
体に弾みをつけて、彼に抱きついた。
思いっきり力を込める。
私の思いっきりなんて、大して苦にならないだろう。彼はびっくりしていたが、それでも受け止めてくれた。
私の背に、静かに銃兎の腕が回る。
未だ足だけが乗っているスプリングが、ギシリと鳴った。

「あ、あい…っあいたかった…!
会いたかった!銃兎…!」

その言葉に、銃兎の腕の力が強まった。
少しだけ強く抱きしめられる。
痛くはない。
ちょっと苦しいけど。
でもそれ以上に溢れてしまいそうなくらい幸せだった。

柔らかくて、温かくて、堪らないほどの幸せ。

「好き……」

「…!」

「好き、なの…銃兎…!ッだから私、―!」

また、力が強くなった。
抱きしめられるというよりか、これは抱き込まれているのではないかと思えるほどだ。
でも、この苦しみさえ、今は愛おしい。
彼もきっと、同じ気持ちでいてくれているのだろうから。

「…アホだな、おまえは」

「銃兎…?ン…!」

力を緩めて体を離されたかと思ったら、頭を寄せられてキスをしていた。

キスなんて、あの日以来だろうか。
あの日――最後のデートの日。
銃兎がラップバトルに出ると打ち明けてきてくれた時から、薄々感じていた別れの時。
夕暮れ時のオレンジに染まった海。
追いかけるように空を覆う群青。
潮の匂い。
吹き抜ける風。
温かい唇。
指先に触れる銃兎の体温。
全部、昨日のことのように思い出せる。

気付けば部屋の中は、射し込む夕陽で、あの日のようなオレンジに染まっていた。
銃兎の唇が離れていくと、私の口は自然と言葉を紡いでいた。
あの日の情景を。
私の痛みを。

「私、羨ましいと思ってた…。
あの夕陽は夜になるとどこかに行ける。誰の目にも触れない遠い所に行ける。
それでも、朝になるとここに戻ってこれるの」

銃兎はそんな私の話を黙って聞いてくれた。
私を抱きしめながら、静かにそこにいてくれた。

「私も、…私も、遠くに行きたかった。誰の目にも触れない所に。誰も分からない所に。
……でも、私は、寂しがり屋だから。
きっと、誰も分からない所に行ってしまったら、寂しくて、寂しくて…泣いてしまう…」

あほな私は、そのことに途中まで気付けなかった。
そんな過ちに気付けたのは、あの鉄格子の中だった。何度も何度も思い返しては泣きそうになったあの暗がりの中で、私は独りぼっちの寂しさを知った。
あの時の景色を銃兎が一緒に見てくれたから、私はそれに気付くことができたのだ。

そう、一緒に。

「だから、また何事もなかったかのように同じ場所に、ヨコハマの海に帰ってこれるあの夕陽が羨ましかった…!」

「…なんでそれで泣くんだ」

「――いたいの」

いたい。
そうだ、私。
ずっと、銃兎に言われてたこと、そうだ。
私、いたいんだ。

「い、いたい…いたいよ、銃兎。
私、あなたと居たい。
あなたと、一緒にいたい…!」

その言葉に、その答えに、銃兎は笑った。
なぜか、泣きそうだけど。
眉尻の下がった銃兎に、今度は私から口付けた。

ただ唇と唇を押し付け合うような、幼稚で拙い行為。
いつもやっていたようなキスとは全然違う。
お互いの隙間を、痛みを、寂しさを補い合うような。


「ずっと、その言葉を聞きたかったんだよ。俺は…」

キスの間に、いつの間にかベッドに押し倒されていた。

唇を離して言った銃兎の言葉に、またいたみが走る。
聞こえていたんだ、あの時の言葉。

『ねぇ、銃兎』

『――……たい』

私があの日夕陽と一緒に隠したと思っていたいたみ。

『一緒に、いたい』


私は微笑んだ。
きっと、今の銃兎と同じように笑っているんだろう、私は。
夕陽で反射する彼の眼鏡を抜き取った。

――やっぱり、泣きそうな目。

私の手首を捕まえて迫る彼に、私は静かに目を瞑った。
また一筋、余っていた涙が流れ落ちたのを感じた。

「お前が言ったんだ。嫌だっつっても、一生離してやらんからな」

溢れる涙をそのままに、私はいっぱいの気持ちを込めて、その言葉に頷いた。
その時の、彼の泣きそうで、切なそうで、それでいてどこか幸せそうで、安心したような顔を、たぶん私は一生忘れないだろう。



――分かっていた。
沈んだ夕陽は、またどこかの朝日になる。
あの夕陽に、誰も分からない所に行く自由なんてない。
誰の目にも触れない所に行く時間なんてない。
いつも宵の闇に追いかけられながら、ずっとそんな一日を繰り返すのだ。

あの夕陽は、黒い宵の闇と共にいれるのだろうか。
そんな事を疑問に思った。
近付きはせども、共にいることは…恐らく無理なんだろう。

それなら。
それなら私は夜でいい。
黒色と一緒にいられる夜がいい。
例えそこが暗くて冷たい所でも、この人と共にいれば、寒くはない。
温かくて、安心できる場所になる。

もう、張りぼての夕陽になんて憧れない。
私には、こんなにも温かくて優しい場所がある。
一緒にいたいと言えば、答えてくれるぬくもりがある。
夜を、生きていけるのだ。
私は。
私は―

――簡単に醒めるような夢は、もう見ない。

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