四度目のパーピーヤスを愛せ
眠らない街、シンジュク。
× × 年前から変わらない、摩天楼の風景。夜になればネオンと電飾が華々しく闇を照らし、行き交う雑踏が落ちるはずの夜の静寂を割く。
それでいてどこか昏く、どんよりとした雰囲気が漂う病めるところ。
夜中の頂点を回ろうとしている頃、繁華街はその日一番の盛況をみせる。
それは表社会と裏社会が交わる瞬間。
「ヒ、あ…お、お助け…!」
「ふふ、面白いことを言うのですね。助ける?なぜ?」
「ぎゃああ!!」
硬い何かの折れる音が路地裏に響く。
ここは、闇。シンジュクが抱える闇の、もっと暗いところ。
人通りもなければ、電飾もない。ただ繁華街の通りから差す華やかな光がその場所を照らすのみである。
その濃い闇に紛れて、ヒトは様々な営みを生み出してきた。裏取引、水商売、暴力、金――薬物。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!お、お願いです……助けてくださ、」
「随分覚えの悪いひと。もう一本折らないとダメかしら」
また1つ。
小気味いいくらい簡単に、男の指は女の足に踏まれて折れた。
そして同時に響く叫び声。
「あああ…ッ痛い…痛てぇ…!たすけ、たのむ、何でもしますから…!!」
『何でもします』。
その言葉に、女は折った指を抉るように踏みつけていた足の動きを止めた。
そして緩く口角を上げて、涎を垂らして情けなく懇願にすすり泣く男の傍に屈んだ。
「あら、何でも?今、何でもと、そう仰いましたか?」
その女は、それは大層美しく微笑んだ。
「こうなる前に、呼んでほしかったんだけどね」
藤色の綺麗な髪を滑らせながら、寂雷は困ったように笑う。
その小さく上がる口角、やんわりと八の字を描く眉に、つくづく、菩薩みたいな表情ができる男だとキサラギは思った。
「一応呼んであげたでしょう?救急車」
「一応…。重傷になってから、ね」
「あら、不満なのかしら。これ、そのまま放置してあげてもよかったのよ」
「こら、人を指さして『これ』はいけないよ」
そのお叱りに思わずキサラギは小さく笑いを零す。この男、どこまで子ども扱いしてくるんだろうか。もうそんな歳を遥かに越えたというのに。
「はいはい、寂雷オトウサン」
お、お父さん…と呟いて何とも言えない顔をしている寂雷の横を素通りし、キサラギは診察室のドアに向かう。
それに気づいた彼が、キサラギさん、と呼びかける。
「もう、行くのかい」
「ええ、ここに留まる理由もないし」
「そう…。ああ、そういえば、一二三君が君に会いたがっていたよ。口には出さないけど、独歩君もね」
また時間があったら顔を見せに行ってあげてほしいな、と微笑む寂雷の顔を覗き込むように、キサラギは距離を詰める。
「貴方は、私に会いたくなかった?」
それに益々寂雷は眉を下げ、困った顔を深めた。それでも距離を作らないことをいい事に、更に彼女はその胸元に手を添える。
まるで愛しい男にしなだれる女のように、彼に体重をかけた。
アメジストの如く反射する瞳と女の瞳がじっとりと交じり合う。
「…いけないよ、こんな風に大人を遊んでは」
寂雷はそう言ってやんわり腕を押す。
しかしキサラギはその細くも硬い男の手首を掴み、指先でゆっくりなぞる。あともうひと押し。
「大人だから、遊べることもあると思うの。…だめ?」
「――大人だから、遊びではなくなる事もある」
その時男の眼光が閃いた。
もう片方の彼の手が、うねるようにキサラギの耳の縁をなぞっていく。
その冷たい指先が耳を這い、燻るような熱を引いていく。
彼女の頭の奥で微かに痺れが走る。
――きた。
「…と、私は思うけどね」
そこで寂雷はあっさり体を離した。
もう一度彼の瞳を覗くが、そこには先程までの鋭い光の名残りも残されていなかった。
キサラギは心底落胆した。残念無念。
「なぁんだ、つまらない」
「はぁ…君のその悪癖は治らないのかな」
「ふふ、貴方のその鉄面皮が崩れない内は、ね」
本当に、この神宮寺寂雷という男はお堅い。仏のような微笑みを浮かべて病人に応対する。看護師と話し合う。その辺を散歩する老人に挨拶する。
"神宮寺寂雷は虫をも殺さぬ仏のような男"
それが世間一般的な見解だそうだ。
全てを許し、その懐に受け入れてくださる有り難ァい高貴な存在らしい。
それが彼の一面であることは否定しない。
だからこそ私は、彼の仏の顔が崩れたところを見たい。キサラギは希求に沸く胸の内を惜しむことなく視線に乗せる。
この目で見てみたい。全てを慈しみ、何をも愛さぬこの男が欲界に落ち、その瞳に色欲の光を宿すその瞬間を。
ただの人間の男に成り下がり、欠けたものを求める、その姿を。
「困ったものだね…」
「それはこちらの台詞よ、神宮寺寂雷」
どうしてこの人は仏の真似事をするのだろうか。
人らしく笑えばいい。泣けばいい。怒ればいい。憎めばいい。溺れればいい。
「ちゃんと、人生を楽しみなさい」
せっかくの、人間なんだから。
ヒールを打ち鳴らし、今度こそ女は診察室から出ていった。
「君の方が、随分と人間らしいな」
――それが少し、羨ましいよ。 拍手 9119