てのひらに滲む赤い執着は日に日に黒さを増していくというのに


その女は、まるで別側面たる自分の元マスターだった少女を正反対にしたような、そんな人間だった。
漆黒の髪に、陶器のように白い肌。覗く瞳は深淵の闇を映しているかのようで、時々そこに閃く紅をより鮮烈に輝かせていた。
見た目の年齢とそぐわないくらいの闇と血と色香を纏った女。
それがキサラギというマスターだった。

「…何をしている」

「オルタ」

そいつに落とされた影を見れば、まともな生き方をしてこなかった事が容易に想像できる。この冷たい城塞の床に座り込んで、血塗れになるのも気にせず肉を、骨を、切り裂いて砕いて折って引きちぎって貪り食うこの女は、凡そ人間には見えなかった。

「なにって、ごはん」

さも当然かのように、きょとんとこちらを見つめるその紅く光る瞳に呆れたため息をつく。

「貴様、私の城を血で汚すとはいい度胸だな?いかにマスターといえど、礼を欠くなら容赦はしないと言ったはずだが」

汚す…?と呟いて、女はぼんやり辺りを見回した。口端からはみ出た赤が、血溜まりに音を立てて落ちる。
広がる赤を見、落ちる赤の音を聞いてようやく納得のいったように、「ああ」と声を発した。

「ごめんなさい、床、血塗れですね」

後で綺麗に片付けておきますね。
女は普段通りの黒い瞳に戻り、笑顔でそう言った。その顔に、一種の狂気を感じた。
別になんらおかしなことが起きた訳でもない。これは女の正当な生態で、食物連鎖で、当然の行為だ。生物であれば誰もが栄養を欲する。腹が減れば食らい、喉が乾けば飲む。サーヴァントたる己が身でも、魔力という糧を欲してマスターから受け取る。
そういった自然の現象だというのに、どうしてこうも違和感を覚えるのだろうか。
この女が、普通の人間の形をしているからか。
いつも普通の人間みたいに話し、動くからか。
こんなにもどす黒い闇を引きずりながら、それでも健気に笑うからか。

白い肌にまとわりつくどろりとした血を目にして、妙に腹立たしくなった。
何をこの女に、このマスターに、そこまで思考を割かれなければならないのか。
ただこの聖杯戦争に勝って、聖杯を手に入れる。その勝利の為に、この女を知り尽くす必要などないはずだ。

しばらく黄金色の双眸に見下ろされていた女は、小首を傾げた。

「どうしました?眉間寄ってますよ、オルタ」

それを五月蝿いと跳ね除け、赤と白の混じった手を取った。女は驚いたようにその手を引こうと抵抗する。

「駄目です、汚れてしまいます…!」

「知るか。そんなもの、すぐどうとでもなる」

そもそもサーヴァントは魔力によって編まれた霊体だ。血で汚れたからといって、生身の人間のように洗い流す必要などない。
それを分かっていてなお、この女はそう言うのだ。

「相変わらず、貴様の気にかかるところが分からん」

ささやかな抵抗を無視して引っ張り上げると、観念したように大人しく立ち上がった。

「だって…」

「なんだ」

「だって、こんな綺麗な人が自分の血で汚れるなんて、見たくありません」

そう小さく呟く女の後頭部をいまだ収まらないイラついた気持ちで見つめる。
この女はまだ勘違いをしているのだろうか。
この剣も、手も、もう随分と血に汚れた。聖剣の光は反転し、全てを灼き尽くす光から全てを覆い尽くす闇へと変化した。精霊に祝福された清廉な蒼と銀の鎧は、泥に赤黒く塗り替えられた。
柔らかく包んでくれる陽だまりを捨て、冷たい影を選んだ。
その成れの果ての姿であるというのに、まだ、この私を綺麗だと口にするのか。

一方的に拒絶されたような、そんな気がして益々腹の底からどうしようもない怒りが湧いてくる。
同じ場所には立てないと、汚れてほしくないと、こちらの意思なんて介せず勝手に決めつけて。

「貴様の馬鹿さ加減にはほとほと呆れる」

「ごめんなさ――ひゃあ!?」

「これほど近付けば、もう気にする暇もないな?」

掴んだ手首を更に引っ張り上げ、膝裏に手を回して抱えると、女は驚きに声を上げて体を捻じる。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「待たん」

「こんなの、困ります…!」

「暴れるな。放り投げるぞ」

苦情を全て一言二言で切り捨てて脅すと、女はハッとして動きを止めた。
さすがに城外に放り出されるのは嫌らしい。
その殊勝な姿に腹の下に溜まっていた怒りも鎮まり、口端が上がる。

それにしても、随分と汚したものだ。
床は勿論のこと、女の服や顔にまで血がべっとりとついていた。黒い服を着ているせいか傍目からでは分からなかったが、近くでよく見ると黒い布地が更に黒く染まっていた。

「こんな体たらくで我が城を歩き回る気だったのか」

「う…」

余計に汚れることくらい、想像がつかないのか。そう言外に問い詰めれば、女は目を逸らしてボソボソと呟く。

「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」

「そ、その……近いです…」

「…巫山戯てるのか」

何とか聞き取れた言葉は、あまりにも的外れな答えだった。予想の斜め上をいく女の言葉に本気で落としてやろうかという考えが過ぎる。

「オルタは自覚がないだけです!そんな綺麗なお顔をこんな至近距離で見たら、誰だって直視できません…!!」

こちらの考えに全く意を返さず、再びジタバタと抵抗し始めた体を湯浴みの部屋に放り込む。
瞬時に受け身をとった女の上にのしかかる。憐れにもカエルのような声を上げて押し潰れかけた女の腹に体重をかけ、その耳元に顔を寄せる。

「なら、これから嫌という程見慣れさせてやろうか?」

それに喉を反らせて両目を力強く瞑る女の反応に、喉で低く笑う。
少しでも距離を離そうと横を向いた隙に覗いた白く細い首筋に舌を這わし、ついでと言わんばかりにその赤くなった耳に吹き込む。

「キサラギ、」

「だ、だめです…」

「私も腹が減った」

「いや」

「食わせろ」

「アーサー」

咎めるように、名前を呼ばれる。
それにぴたりと体の動きを止めた。
オルタが女の名前を呼ばないのと同じように、この女もオルタの名前を滅多に呼ばない。だからこれは反射的なものだった。
黒い瞳と視線を合わせる。
先程まで浮かんでいた動揺の色はなりを潜めていた。代わりにそこに見えたのは、どこまでも渦巻く闇と今にも揺らぎそうに濡れた虹彩だった。

「…なんだ」

「だめ」

「何故だ」

「お願い」

窘めるように、再度拒否の言葉を吐かれる。
その強くも儚い語気に心臓を掴まれた気分になった。
拒否されたにも関わらず、この女に構ってやろうと、不思議と思ってしまう。
ため息のようなものを1つ吐き、床についていた手を離して体を退かす。
女の脇に手を差し込んでもう一度抱えると、今度は女は大人しく抱き抱えられていた。

そのまま浴室に入る。
女の強い希望によって備え付けられたシャワーの蛇口を捻る。
飛び出てくる冷たい水がお湯に変わる頃、女を下ろした。
当然女ごと自分の方にもお湯がかかるが、あまり気にならなかった。
それよりも、目につく赤を落としたかった。
女の頬に付着している血を指で擦ってやる。水を含めばあっさり落ちていく血痕に、肩の力が抜けた。

「……おなか、すいちゃってて。そしたらたまたま、あそこにアレが出てきて…。気付いたら、オルタがいたんです。
ごめんなさい、あんなに散らかしていたんですね、わたし」

女の言葉に自然と眉が寄る。
警備の使い魔は何をしている。
この女だって、そこらの魔術師や使い魔には負けないくらい強いだろうが、それでもサーヴァント相手となるとどうなるか分からない。
根城に侵入する不敬な輩を排除する為に放っているというのに、全く使い物にならない使い魔である。
ましてや今回の聖杯戦争において、この女に纏わる事情を聞けば、危機感が募る。
この女は明らかに、別のマスター、あるいは陣営に狙われている。それもその血の有用性を知っている奴に。

「オルタ、痛いです」

どうやら知らぬ間に力がこもっていたようだ。擦れて少し赤くなってしまった女の頬を優しく撫でる。
この赤なら、許せる。
白い地に薄く色付く赤。先程の血痕とは違い、それはオルタの腸を煮えさすことはなかった。むしろ欲を煽るような、そんな扇情的な色でもあった。
無言で撫で続けるオルタをどう思ったのか、女は緩く微笑んでその手を自らの頬に軽く押し付けた。

「ふふ、大丈夫ですよ。残念ながら、私はこれくらいでは死ねないので」

そこでオルタは気付いた。
女は、あの血に塗れた光景に少なからずショックを受けたのだと。
己の内に棲む獣の有り様を見たのだ。
なんだ、この女。
まるで普通の人間みたいに傷付くじゃないか。
2人間にただ降り注ぐシャワーの水滴が女の目の縁をなぞって床に落ちていく様を、オルタはまるで泣いているようだと思った。



「もうこの服もダメでしょうね。汚れ、落ちないでしょうし」

オルタに背を向けて髪をタオルで拭きながら、女は残念そうに言った。
服を着たままシャワーを浴びたため、今では黒い服もすっかり水浸しだ。
そのままでは風邪をひいてしまう為それは脱ぎ捨てられ、脱衣場の隅っこに丸まっている。

「また新しい服を用意させればいいだろう」

「これ、お気に入りだったんですよ?」

――オルタとお揃いみたいで。

最後に付け加えられた言葉に思わず喉を詰まらせてしまった。それを悟られないよう、務めて平静を保って言葉をつなぐ。

「…同じものを見繕えばいい」

そうですねぇと間延びした答えを聞きながら、オルタは何にもはばかれていない背中をじっと見つめる。
拭き取れきれなかった雫が髪から伝い落ちる。
それを見てゆっくり女に近づいた。

「貸せ」

女からタオルを引ったくって後頭部まで拭いてやる。
中央で分けられた長い髪の合間から、白い項が覗く。そこに浮かび上がるように映える赤い三画の令呪。
ずぐりと熱が煽られる。
それは支配欲に近い。
この女の白い肌を彩る赤は、己の存在を証明するものだけで十分だ。
またキサラギが自分の感知せぬところで別の赤に染まらないよう、今後はあまり離れないでおくか。
知らず知らずのうちに上がった口を開いて、己がマスターである赤い印に柔く歯を立てた。
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