化けの皮を剥がせば愛せるだろうか


「キサラギ──ッ!」

襖が激しい音を立てて開いた。
赤髪の男、縁は寝間に入り込み、息を切らしながら私の名前を呼んだ。
広くもない部屋にぽつんと敷かれた布団の上で体を起こしていた私の姿を見ると、彼は一瞬顔を強ばらせる。
彼は唇を開くが、息だけ吐いてまた閉ざす。
そしてそのまま、ゆっくり、部屋に踏み込んできた。

縁、と呟いた。
目の前の彼は何も答えず、私のすぐ隣まで来て屈んだ。
その手が伸びる。
よく見れば、僅かに震えていた。

まるで壊れ物を扱うかのように、柔く頬の輪郭を辿っていく彼の指先を包帯越しに感じる。

「…お前、なんで…っなんで、こんな怪我…!」

縁がこんなに取り乱すところを初めて見た。
いつもは飄々としていて、身内にはどこかツンケンしている彼が、どうして今に限ってこんな顔をするのだろうか。

「なんでって…あなたが、それを聞くの?」

次期徳川将軍、松平信春が。
どうして今更、そんなに動揺しているの。

彼は言葉を詰まらせた。
その表情には戸惑いと苦悩が浮かんでいる。

私を戦いに駆り立てているのは誰だ。
あなたの養嗣親だ。
あなたの、未来の姿じゃないか。

「それでも、それでも俺は…!」

頬から離し、今度は私の手を握る。
縁の手は熱く、それでいて優しかった。
小さい声で「俺は…」と呟く彼が、酷く寂しく見える。

「縁、それではいけないわ。」

そう突き放すように言えば、彼の手に力が籠る。
俯いてしまった彼の表情は窺えないが、あまりいい顔をしていないのだろう。
見えない方が、丁度いいように思えた。
あまりに人間らしい顔をされると、私が私を保てなくなりそうで、こわかった。
徳川が憎い。
許せない。
長年積み上げてきたそんな思いが、つき崩されてしまいそうで。
私は努めて固く、静かに、冷徹に、徳川の末席に座るこの男を突き放す。

「それは赦されないの。
あなたは、ただの道具に、そんな情けをいちいちかけるつもり?」

「お前を道具だとか思ったことなんて、一度もないさ…」

「そう扱えるようになりなさいと言っているの。辰影にだって、いい顔をされてないのでしょう。」

「兄上の事は今は関係ないだろう。」

「あるわよ。
わざわざ私のことを良いように言わなくたっていいの。そんなことで、いちいち兄弟喧嘩するのはやめて。」

そう言うと、縁は黙った。
おそらく縁は、一駒として私を見ている辰影や周囲の徳川の人間に納得がいっていない。だから、事ある毎にそんな態度を見せる辰影と衝突している。
そんなことを柳生三厳から聞かされた時は唖然としたものだ。だからどうしろというのか。私には関係のないことだろうと放置していたが、ここ最近の辰影の様子を見るにそうも言ってられないようだ。「お前があやつを惑わしておるのだろう!」と激昂された時には斬り捨ててやろうかとも思ったが、辰影も辰影で、色々なことに囚われ、苦しんでいるのだろう。詳しい事は知らないし、知りたくもないが、彼の心労にはそれなりに理解を示そう。
私のあずかり知らぬところでそんないざこざがあり、それも回り回って私にやっかみが来るぐらいなら、元を絶ってしまった方がはやい。
要は、縁がさっさと切り捨てればいいのだ。
徳川にとってただの道具でしかない、私の事なんて、これ以上構う必要はない。

「縁、あなた、将軍になるんでしょう。それなら、そんな粗末な同情は捨ててしまった方がいいわ。」

「同情…?」

「だってそれは、ただの足枷だもの。不必要な苦しみまで引きずって生きたくないでしょう?」

「これは同情じゃない!」

「…!」

突然彼ががばりと顔を上げ、私の両肩を掴んだ。
彼の指先が肌にめり込みそう。
痕がつく程強い力は、先程私の手を優しく握っていた人と同一人物だとはとても思えない。

「これは、足枷なんかじゃない!」

「縁…?」

何を怒っているのだろう。
彼はなぜ、こんなに必死になっているのだろう。
その燃えるような青い瞳が、彼の激情を生々しく真っ直ぐに伝えてくる。

「どうしたら分かってくれるんだ…。どうしたら、お前は自分の事を大切にしてくれるんだ…」

縁から落とされる、一つ一つの言葉がなぜだか胸を抉るような鋭さをもって降り積もっていく。
喉の奥がぐぅと締まって、声が出ない。

嗚呼、だから知りたくなかったのに。

肩が引き寄せられる。
今夜はいつにも増して、月が明るい。
彼の背から差し込む月光に目を細めながら、その少し汗ばんだ熱を測る。
いつもよりずっと力のこもった腕が巻き付き、離れない。
彼が抱く感情が、波打つ鼓動よりもたらされる。

「え、にし…」

避けなければならなかった。
触れた熱は、ずっとあたたかく、己の冷たさを思い知らされる。
知ってはいけなかった。
突き放せなくなる。
そのぬくもりは、もうずっと忘れていたものだった。

「なぁ、キサラギ。
俺はお前に何をしてやれる。
お前が望むものはなんなんだ。
教えてくれよ、なぁ…」

ならもう離してよ。
その一言がどうしても言えず、震える唇を噛んだ。



「若様。かような時間に如何なさいました。」

「十兵衛か。」

月明かりが差す廊下を歩いていると、向こうから十兵衛がやってきた。
縁はその姿を認めて、しかしそれ以上なんら言葉も出てこず、口を閉じた。

「若…?」

妙にふさぎ込んでいるような主の様子に、十兵衛は怪訝に思い、再び呼びかけるがやはり応答はなかった。
しばらくして、縁はようやく口を開いた。

「あいつ、あんなに細かったんだな…。あんなに柔らかくて、か細くて、思い切り力を込めたら折れてしまいそうな…」

ぼんやりとした口調でぽつぽつと零すそれは、独り言に近かった。
十兵衛はその真意を計りかねて眉を顰める。

「抱きしめたら、震えててさ…。
体中力が入ってて、固くて冷たいのに…それでも柔らかくて、あたたかかったんだ。」

縁がやってきた廊下の先、彼の表情、時刻、それらを含めて熟考し、十兵衛はやがて思い至った。
とある存在を。
幕府が長年秘匿してきた、脅威を。

「信春様。」

咎めるように、縁の名を呼ぶ。
あの者に会いに行ったこと、あの者に要らぬ感傷を抱いていること、それは縁の立場として相応しくない。
あの者は女人の姿をしているものの、おおよそ人間ではない。
あの脅威的な力は正しく扱わなければならない。
一歩間違えれば、その刃は徳川に向く。
その全てを以て十兵衛は鋭く縁を呼んだが、彼はその意図を汲み取らず、なおも続ける。

「大嫌いな徳川の人間に抱かれているのに、『離して』も言えずに震えていたんだ…。
女、みたいだった。まるで普通の人間の女みたいで…」

「信春様!それ以上はなりませぬ。」

「十兵衛。
あいつ確かに化物みたいに強いし容赦もないやつだ。…でも一人前に寂しがるし、苦しんでる。
あいつは女だ。たったひとりの女なんだよ。」

二人の間に何があったか十兵衛が知る由もない。
だが、縁の真摯な瞳に口を噤まざるをえなかった。
自分ではもう歯止めが効かなくなるほどの所まで、縁は進んでいってしまったのだ。
それほどにまで想いを強くしてしまったのだ。
もう取り返しがつかない。そんな予感が過ぎり、十兵衛の胸の底が重く冷えきっていく。
以前父である宗矩がかの存在に苦言を呈していたことを思い出した。
家光公が、もしや化生の類に懸想しているのではないかと。
父が何を見てそう思ったのかは分からない。
だが今は、その憂慮が胸に迫るようだ。
主君が破滅の道を歩もうとしているような気がしてならない。
そんな仄暗く鉛のように重い予感が、のしかかる。

横を通り過ぎていく主の歩みを呼び止めることすら、その重みに耐えかねている今の十兵衛には叶わなかった。
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