柘榴の網膜を食んでいく


そこは底の底。松明の明かりなくば歩くことすら叶わぬ、地底。
江戸城の地下に、密かに造られていた密室。否、部屋というにはあまりにぞんざいな造りだ。土を掘り返し、木の格子で仕切った。それだけの造り。最低限の補強をしているように思えるが、地上に聳える江戸城と比べれば、とても人を生かすための場であるとは言えない。

家光様、と呼び止める声を無視して歩みを進める。兵たちは焦って引き止めようとするが、相手はこの大将軍徳川家光。ひと睨みきかせれば、呆気なく体を凍りつかせる。
何のこともなし。
入口の警護にあたっていた兵は、今頃三厳めに報告にでも行っているだろうか。それでも今からでは間に合わない。恐らく、家光が"それ"と邂逅する方がはやいだろう。
上機嫌に笑って、家光は奥の奥、秘された牢獄へと足を向けた。


「い、家光公!?」

牢獄の前では、最後の兵が見張っていたらしい。交代の者とでも思ったのだろう。そこに現れた思いもよらぬ者の姿に、目を白黒させて絶句している。

「な、なぜかような場所に…」

「"それ"にちと用があっての。」

「いえ、しかし、その…」

あっけからんと話す家光に益々混乱が助長された兵は、歯切れ悪く口ごもる。
家光はこの兵が何に躊躇っているのかは、容易に想像がついた。このような場所でぞんざいに扱われている罪人に、天下の将軍が対面するなどあってはならないこと。凡そそんなところだろう。
それを理解した上で、来たのだ。今更、そんなことに構っている家光ではなかった。

「構わぬ。通せ。」

口を開けば、誰もが傅く。
一兵士が、将軍の歩みを妨げられるはずもなかった。

格子の前に立ち、目を眇める。
暗闇に慣れた目でも、些か捉えきれない。牢獄の奥は一層濃く、重い闇が満ちていた。
辛うじて、その闇の合間に人の形を認めた家光はそれに向けて声をかけた。

「起きよ。」

背後に控える兵が息を呑む気配がした。
それまでに、この罪人は遠ざけられていた。言葉を交わしてはならない、目を合わせてはいけない、誰にも会わせてはいけない、と。
それは畏怖という感情からだ。今ここを任せられている兵はもはや先達からの口伝でしか知らない事ではあろうが。それ故に尾鰭付いて伝えられ、余計に恐怖心を掻き立てられているかもしれない。その話を聞くのも愉しそうだ。

「まだ生きておるか。」

目線だけ兵に寄越して問うと、吃りながらも兵は報告しようと震える口を開く。

「は、はい…!ここ十数年、水しか口にしていない、ようですが…」

「なんと。それだけで十数年生き残るとは。噂以上の化生よな。」

成程、と家光は上がる口角を扇子で隠し、目線を闇に戻す。
そこにまだ動きはなかった。

「まだ息があるなら、起きよ。」

恩讐の炎がまだその胸に灯っているのなら──

「この徳川の呼びかけに応えよ。」

その言葉が放たれると、すぐに気配が変わった。重く澱んでいた空気が動く。闇が、闇の向こうが、蠢いた。

「と…………が……」

微かに、掠れた声が辛うじて耳に届いた。
兵にも聞こえたのか、その手が刀に伸びる。
まだ声が聞こえただけだというのに。

湿った空気を研ぎ澄まされた何かが切り進んでくる。それが家光の喉元まで迫る。どこまでも冷たく、鋭い、まるで刀のような──
木で組まれた格子に何かが勢いよくぶつかる重い音が響いて、家光はその感覚から抜け出した。

「と……がわ…と、…く、がわ、いえ…す…とくがわ、いえやす、いえやす、いえやす──!!」

目の前には人間の女。否、あくまで、人間の姿かたちをした女。
"それ"は格子を握りしめ、うわ言のように一人の名前を呟く。
繰り返される度に、格子が軋む音が大きくなる。
兵が後ろで「お下がりください!!」と叫んでいる。
しかし家光は下がる気など一寸たりとも持ち合わせていなかった。
格子に貼られた護符が揺れているのを横目に、家光は改めて女を見据えた。
闇から這い出てきた"それ"は、漆黒の髪を垂らし、白すぎる手で木の枠を掴んでいる。指先にまで相当な力が込められているのか、格子に僅かに亀裂が入る。

「いえやす、いえやす、家康…ッッ!!」

女のうわ言は徐々に明確な殺意を滲ませ始める。殺気が密閉空間に満ち始める。
女たった一人で、ここまで殺気を放つことができるとは。家光は感心すると共に、脈々と伝えられてきた"それ"の性分は正しかったのだと再認識する。

「よく余の声に応えてくれた。余は江戸幕府将軍──」

「黙れ!」

血反吐を吐くのではないかと思うほど喉から引き裂くように出された声音は、鬼気迫るものがあった。
ヒッと後ろから悲鳴が聞こえた。十数年目立った動きもなく、声も発さなかった正体不明の化生が吠えたのだ。並の兵士では、怯えるのも無理はない。

「ほう。まだ人語を操れるか。」

「だまれ、黙れ…!家康、徳川家康!!」

ばきりと嫌な音が響いた。
次いで、ばちりと何かが弾ける音。

──破られる。

家光は瞬時に悟った。
十数年この化生をここに抑えつけ、閉じ込めていた結界が、破壊される。
憎悪を吐き出し続けるその口で、手で、封印を破り、出づる。

そも、十数年目立った補修もなされなかった術式だ。脆いのは当然か。
冷静に納得し、腰に差している三日月宗近に手を伸ばした。

ついに護符は弾け飛んだ。
それと同時に格子がばきばきと激しい音を立てて割れていく。
封印の力がなければ、ただの腐りかけた木の枠だ。"それ"の手にかかれば造作もなく投げ捨てられる。

格子だった木の枠が完全に外れ、それが家光目掛けて投げつけられる。
予測していた家光が苦もなくそれを躱せば、それは唯一外に繋がる通路の入口まで飛んでいき、派手な音を立てて塞いでしまった。

「困ったのう。これでは外に出られまい。」

言葉ほどに困った様子のない家光は、愉快そうに目を孤にして土煙舞う彼方を見据えた。
背後に控えていた兵はその衝撃で気を失ってしまったらしい。
下手に見聞きされると面倒になるかもしれない。このまま寝かせてやろう、と適当に理由をつけて放置する。

煙が晴れると、格子がなくなりぽっかり口を開いたようになっている獄が見えた。そこから出てきた女は牢の外に転がっていた刀を拾って鞘から刀身を抜き放つ。
先程の様子から理性などほとんど残ってはいないだろうと思っていた家光は、僅かに驚く。

「てっきりそのまま噛み付いて来るかと思ったぞ。少しは考える頭があるようじゃの。」

「…殺す。」

そう呟いたかと思うと、勢いつけて家光に向かってくる。
三日月をゆったり構え、家光はあくまで受けに徹した。
女の一手一手はまさに野犬が如く。爪を振り下ろし、牙を向け、隙あらば噛み付こうと貪欲に狙ってくる。そして、その一撃一つ一つが重く、鋭い。全てが、家光という人間を切り裂き、噛み切り、刺し貫こうとする。
このまま攻勢に出なければ、競り負けるやもしれぬ。
そこまで測って、家光は刃を弾く。
弾かれた女はその勢いのまま刀を振り上げる。家光は下段に構え女の胴体を狙って刃を滑らす。

その時。
腕を振り上げた拍子に女の顔がよく見えた。漆黒の流れる長い髪から、紅い瞳が覗く。その鮮烈なほどの輝きに、一瞬家光は目を見張り、息を止めた。

それはそこらの武者では隙と思えないほど、ほんの刹那の隙。だが、目の前の猛獣がそれを見逃すはずもなく。
女の爪となって、刀の鋒が真っ直ぐ家光の心の臓を刺し貫かんと迫り──


止まった。
幾重に重なった布地に僅かに鋒を埋まらせ、刀の動きは停止した。
正確にいえば、刀は動いている。しかし、まるで見えない壁に阻まれたように留まり、震えている。
女は尚もその壁を突き進まんと力を込めているようだが、やはりそれ以上鋒が進むことはなかった。
誓約。
それは、女が何処の誰ぞと結んだもの、らしい。決して人を殺せぬ。喰えぬ。人を喰らうという自然の理から外れ、この化生は同族や妖、鬼を喰らって飢えをしのいでるそうだ。これもまた、先々代より伝えられてきた話によるものではあるが。
家光は女の脇腹を引き裂いた姿勢のまま、歯を食いしばるその形相をただ見つめていた。

「く…っ殺す、家康、必ず殺す、殺してやる…!!」

恨み節を連ねる女の唇が震えている。
力を込めすぎた肩が、体が、刀が、震えている。
紅に染まった瞳孔は開き切り、艶やかに光を纏う鮮血の向こうに、激情に沸く朱殷の色が覗く。

「…憎いか。この徳川が。」

「殺す、お前は絶対に…」

「余が、憎いか。」

「私がお前を…!!」

女の血が着いた三日月宗近を嘆く女の首筋にぴたりとあてる。

「そちは殺せぬ。」

「…っ!」

「人間も、憎き徳川も。そちは殺すこと叶わぬ。」

「黙れ!」

尚も心の臓に刃を突き立ててこようとする女の視線が、家光と合わさった。
そこでふと、殺意と血に染まった女の目元が弛んだ。きつくつり上がった眉や目尻から徐々に力が抜けていく。

「おまえは…」

女は驚いているようだった。
刀を持つ手の力も弛み、布地から鋒が引き抜かれた。

「いえ、やす…じゃない…。おまえは、おまえは誰だ。その似姿は、なんだ。」

少し熱が冷めた様子の女は、刀を構えたまま一歩、また一歩と家光から距離をとる。

「やれやれ、ようやっと気付いたか。
余は、江戸幕府将軍、徳川家光と申す。かの東照権現の正当な孫であるぞ?」

「徳川、家光…」

まだ驚きが抜けない丸い瞳は、ゆるゆると家光を見回し、やがてぼんやりとその名を繰り返す。

「あなたが…第三代将軍の…」

「その通りじゃ。
さて、冷静になったところで、そちにいくつか問いたいことがある。」

「…なに。」

「徳川が憎いか。」

「なにを今更。」

「人間が憎いか。」

「………、」

女は、最後の問いに答えなかった。
これによって、家光は望んでいた答えを得た。
女は明確に区別していた。その飢えと渇きと復讐の炎に身を焦がしながらもなお、弁えていた。
憎むべきは徳川で、人間ではない、と。
家光は確信した。
この女の理は信に足る、と。
徳川の刃となるに能う力であると。

「そちに、機会をくれてやろう。」

「機会…?」

「なに、復讐を果たしたいのだろう?ならば、それを成就する機会を与えてやろうと申しておる。」

「なぜ。なんの為に。」

「その代わり、そちにはこの日の本の為に存分に働いてもらう。」

その条件に、女は目を瞬かせた。
が、すぐに不快そうに表情を歪めた。

「おっと、これは徳川の為ではないぞ?日の本に暮らす民草の為よ。」

この女には、江戸城を拠点として、方方へ出向き妖怪退治や極秘の任務についてもらう。
その代わり、女は江戸城に出入りでき、外に出向く自由を得る。報告の為に家光に目通る機会もあり、それを怪しまれたりもしない立場を得ることにもなる。
それは、徳川を殺めんとする者にとって、これ以上ないほどの好待遇だ。
外に出ながら、そちは余の殺し方でも考えておくがよい。
そう言って不敵に笑む家光に、心底分からないといった面持ちで、女はもう一度問うた。

「なぜ、あなたはそこまでするの。」

「手に入れたいものが、できた。」

「…?」

眉を顰めながらも、真っ直ぐにこちらを見つめ返す赤い両の瞳。
家光はその鮮烈な光沢に目を細め、扇で口元を覆った。

「なに、大したことではない。
…それで、どうするのじゃ。はよう決めよ。」

もう一度獄に戻るか、それとも──


しばらく逡巡するように視線を巡らせ、やがて女は家光を見据えて口を開いた。

「それは、喰える仕事?」

「そちが望むなら、幾らでも。」

「………そう。
それなら…いい。」

女は囁くほどの声でそう呟くとそっと瞼を下ろした。
それと同時に、塞がれた入口の向こう側から数人の足音が聞こえる。
派手に音を轟かせたのだ。すぐに誰かしらが駆けつけるのは当然か。
「家光様!」と己の名を呼ぶ声も聞こえてきた。

「では、行くぞ。」

そう呼びかけると、女は目を開いて応えた。
その瞳は、この牢獄の闇と同じ、底の見えぬ暗く深い影に染まっていた。
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