>妻の事は愛していた。いや、愛してる。
これからもずっと、あれ以外と籍を入れようなんて考えもしなければ、そんな相手も現れないだろう。
だが、そうまでして思っていた女とは、オレはついぞ結ばれる事はなく。急に行方をくらました彼女に、子供がいたと知らされた時には、彼女とはもう二度と会うことが叶わなくなっていた。
彼女の父の話によれば、オレと結婚を考え始める間柄になって怖くなって逃げ出してきた、という。青が腹の中にいると分った、その日に。そういえば、彼女も片親で、母親のことは良く覚えていないと言っていた。それが原因なのかは分らないが、彼女は怯えた様子で実家に帰ってきたというのだ。
オレが酷く憎くてたまらないのは、世界中の隅を回る事になっても、彼女を見つけ出そうとしなかったあの時の自分だった。世界どころか、この国一つならどんなに手間がかかったって、探し出せたはずなのに。
「どうか、この子をオレに引き取らせてください」そう、頭を下げる事でしか、その後悔を償う方法がなかったというんだから、やっぱりオレはどうしようもない男だったのだ。
「………」
元々静かな空間に、人が二人も居座れば、多少なりとも何かしらの「生活音」というやつがあってもおかしくないだろう。
おかしくはないんだが、残念ながら、今はこの場所にそういうモノは存在していない。
聞こえるのは、かすかなページをめくる音だけだ。娘は、ソファに寝転がって図鑑を読みふけっているし、オレはその隣の一人掛けソファで、極力邪魔をしないようにその辺にあったバイク雑誌を見ている。
ちなみに、さっきまではオーディオ雑誌だった。そろそろ、この家に戻ってくるなら、いい音響システムを買い揃えたいと思っている。まぁ、余談だが。
「……も、もうすぐ昼だな」
なんで娘に話しかけるだけでこんなに気を使わなきゃいけないのか分らないくらい、オレは気を使って言葉を発した。
けれど、返事は返ってこない。どうやら、オレの言葉なんて聞こえちゃいないらしい。ムカつくやら、ガッカリするやら、呆れるわで、次の言葉を考える気も起きなかった。
仕方なく、12時を過ぎたら勝手に何か作る事にする。
もう一度、オーディオ雑誌を開いて、俺はその文字を追った。『今買うならこれが欲しい!重低音にも対応できる、新機種続々!』少々値段は張るが、やはりその分フォルムも機能も魅力的だ。
とうとう、お目当てのオーディオのページにドッグイヤーをつけようとしたとき、唐突に娘の声がした。
「あ、今なにか話しかけた?」
今、っていうか。だいぶさっきな。とは、もはや言うまい。どういう耳の構造をしていたら、離れた国との生中継みたいに遅い返事が返ってくるのか、考えたって意味もないだろう。
「もうすぐ昼だろ。メシ、どうする?」
オレの話を聞くと、一度上がったその顔は、すぐにまた下がった。
「ああ、……うーん…」
そして、沈黙。
娘の目は、もはや図鑑の文字を追うのに一生懸命で、当然脳みそに昼の事なんて微塵も残ってないに違いない。
そんな娘の、青の横顔を見て、オレは「ん?」と、考えた。妻とオレ、そういえばどちらにも、青は似ていない。顔が、という訳じゃなく(現に、顔はオレと妻にそっくりだし、髪の色だって)。じっとしているところが、とでも言うんだろうか。
大人しい、とは違うだろう。上手く言う事はできないが、動を静で表しているような。昔は、小学校くらいのこいつは、もっと活発で、動き回る事が好きな、快活な子供だった。
よく、オレに似ている、と周りから笑われたもんだ。
妻は、よくオレと二人でいるときは、どこかに出かけたがったし、家にいるときはいるときで、一緒にゲームをしたり、映画やドラマを見たり。
(楽しかったな……)
そうだ。本当に、あれと一緒に暮らすことがあれば、一生幸せでいられる気さえしていた。妻も、そう思ってくれていると、信じていた。
(そうじゃなかった、のかもしれねぇな……)
そう思っていた妻は、オレの元を連絡先一つ告げずにいなくなり。そうして彼女がいなくなってはじめて、オレは彼女の事を多くは知らなかったのだと思い知らされた。同時に、急にいなくなった女に、オレは腹を立てて探す事もしなかった。
妻は、動を表したような明るい女だったが、ほんとうは娘の青のように、静の時だってあっただろう。それをちゃんと見抜いていれば、あるいは。
いや、もうそんな不毛なことは、随分前に考えるのを止めていた。
「素麺、がいいな。わたし湯がくから」
見えない国境を越えて、再び遅れて届いた返事に、オレは反応が遅れた。
「……あ、ああ。ソウメンか」
「ツユは父さんが作って。……父さんが作ったツユ、美味しいから」
「そうか?なら、任せろ!」
相変わらず、青は何を考えてるのか分らない。だが、その最後の言葉は、オレを喜ばせるには十分だった。そうと決まれば、少し時間のかかる麺ツユのダシを作っておこうと、オレはソファから立ち上がった。
ベランダと繋がる大きな窓から、日差しが眩しかった。今日は、春というには随分温かい。もうすぐ、夏が来るだろう。
ずずず、と麺を奪い合うようにして、オレ達はソウメンを食べていた。
彼女は麺を湯がくのが上手で、オレは麺ツユを何度も作らされた。夏になると、よくこれを食べたがる。オレも勿論、この素朴な食い物が好きだった。
『父さんが、ツユを作るのが上手いの。シャンクスなんて、まだまだね』
『そりゃ、お前のおやじさん相手じゃ勝ち目ねぇよ』
『あははっ』
とうとう、その年のうちにあいつを「よし」と言わせられなかった。来年こそは、とその夏の終わりには思ってたんだったかな。
…………………20150528
今年も、これが美味しい時期になった。