>近所には、こっそりと通い詰める程のお客さんを持つ、美味しいお店がいくつかある。この前テレビで取り上げられて、今や「こっそり」じゃなくなったレストラン、バラティエなんかもその一つで。それでもまだまだ、知られざる名店、というお食事どころが多い。
わたしは、そんなお店に時々ひっそり通っては、美味しい幸せな時間をたっぷりと堪能する。顔見知りのお店、というほどは通えないけれど。それでも時々、顔を覚えてくれる程の気さくなお店と出会う。
大通りからずいぶん離れた、小道の坂の途中。わたしの住むマンションのそばに、こじんまりしたお食事どころがある。
このお蕎麦屋さんもその一つだった。優しいおじさんと、ハキハキしたおばさんが経営してる。お蕎麦が苦手な私が、ここの蕎麦なら唯一食べることができるほど。
からから、と小気味良い音をたてて、店の戸を開けた瞬間固まった。
「あら、いらっしゃい青ちゃん」
「こ、こんにちは。おばちゃん」
「お、久しぶりじゃねぇか」
「おじさん、お蕎麦…ひとつ」
おう。と、おじさんは奥の厨房へ行ってしまった。
さて、と。わたしは、あまり広いとは言えない店のなかで、座る場所に腰を落ち着けたいんだけど。
「……」
なぜ、カウンターで寝ているんだろうこの人は…?
しどろもどろに慌てているわたしに、おばちゃんが困ったようにその寝ている人を笑った。
「お昼が最近忙しくってねぇ。午前の授業がない日に手伝ってくれてんのよ。エースちゃん」
ちゃん、だって。なにそれ、可愛い。
しかも、机に突っ伏しちゃって寝てるし、更に更に食べ終わってない賄いのお蕎麦に顔を落としてないにしても、そのお箸は蕎麦の汁皿のなかに入ったままだし。
……この人、可愛すぎる。
「隣に座る?」
と、おばちゃんが聞いてくれたけど、わたしは首をこれでもかと振って、エースくんの後ろ側のテーブル席に座った。
そう、わたしは。わたしは、エースくん離れをすると心に固く誓ったんだから。
「あ、」
静かに椅子を引いて腰を下ろす途中。息が詰まったような声を出して、エースくんが顔をあげた。
少し寝ぼけているのか、顔を軽く振って蕎麦板を目の前に寄せる。
「あー…寝てた?」
「まぁね。お昼いっぱい使っちゃったから、疲れたのよ」
おばちゃんとそんなやり取りをしながら、エースくんはまた蕎麦を食べ始めた。
わたしは、それを後ろから息を潜めて見つつ。なんだか、とてもイタズラをしてる愉快な気持ちだった。
気づいてほしいけど、気づいてほしくない。
おばちゃんと楽しく話している姿が、わたしとの間に透明なガラスで区切られていて。まるで、テレビの向こうの映像を見ているみたいにおもえる。それなのにその度に、好きだと思わされてしまうし、簡単に忘れたりできないんだと思い知らされる。
あの、大きな背中は、人を幸せにできる優しい背中。ぽかぽか温かくて、見ているだけで幸せになれた。
「おーい」
ハッと目の前をみれば、おじさんが蕎麦を持って立っていた。
「あ」
「ほら、蕎麦」
頂きます、と手を伸ばす。しっかりと両手で受け取って、それをかちゃん、と机に置いた。ふと、ひしひしと視線を感じて体が固まる。
「青ちゃぁん?なぁに、黙って後ろに隠れてんだ?」
がちゃん、と目の前に来たのは食べかけの山盛り(だっただろう)板蕎麦。
「か、隠れてたわけじゃ……」
でも、当たらずとも、遠からず。
エースくんは、どかっ、とわたしの真向かいの椅子に座って、ニコッと笑う。
「いっしょでもいいだろ?」
座ってから聞くあたりが、ルフィとそっくり。
わたしは頷いて、お箸をとった。
「いただきます」
もぐもぐ、とお互いに食べて時間を過ごすだけ。
おじさんとおばさんは、奥で休憩中。お客さんがきたら、呼んでね。と言って、そのままなんてこと、実はよくある。
「この前、ルフィ達と会ったんだろ?」
「この前?」
ほら、サボとデートしたとき。って、エースくんがどうして知ってるんだろう?
「うん」
たぶん、ルフィかサボさんから聞いたのかもしれない。
「サボが、ルフィたちと一緒に昼飯食いたかったって言ってたからよ」
「あぁ、あれは」
「ルフィがいいっつたんだろ?」
「そう。でも、あれからあんまり長くサボさんともいなかったし……」
でも、あれは。
確かにそう言ったのはルフィだけど、私が言わせたようなものだったから。
「ま。その話はよくて。サボが、心配してたんだよ」
「え?」
わたし、何かしただろうか?
普通に遊んだし、普通に話もしたと思う。
「青楽しくなかったかなぁー?だってよ」
「そんなこと」
ない、けど。
だからといって、言い切れるほど楽しかったか、と聞かれればちょっと困るんだけど。
人の多い賑やかな場所では、まだまだ気を張ってしまう。あの日も、サボさんと別れるときには、失礼だとは分かってるんだけど「やっと帰れる」なんて思ってしまった。
まさかそれを感付かれたかは分からないけど、だとしたらかなり申し訳ない。やっぱり、勢いで誘いになんて乗るんじゃなかったのかも。
はぁ。と、小さく出したため息を、エースくんには分からないように隠した。でも、落ちた肩はきっと、すごく分かりやすかったはず。
思った通り、エースくんが気を使うように話を続けてくれた。
「お前がさ、最近頑張ってんのオレもルフィもわかってるから」
「そんなこと、ない」
咄嗟にそう言ってしまって、わたしは「しまった」と俯いた。
話を暗い方へ運んでしまうのが、癖になっている。「そうだ」と言われれば、「そうかな」とやんわり頷いておけば良いのに。
「そうか?でも、オレにはそう見える」
でも、こんな風に。エースくんは、それを煩わしいと言わないで、ちゃんと綺麗に拾ってくれる人。
「…うん」
わたしは今度こそ、素直に頷いていた。
「あんまり無理するなよ。あー……なんてーか…ゆっくり?で、良いと思うんだよなオレは」
そうかな?……そうかもしれない。
「サボにも、お前の話ちょっとしちまった。ごめんな。でも、あいつ博物館でのことも気にしてたからさ」
あれで、スッゲェ心配性なんだ。と、エースくんは笑った。
「大丈夫。ありがとう」
「ん」
むしろ、わたしが話すよりきっと、サボさんも納得しただろう。わたし自身からじゃ、どうせまともに言い訳も出来なかったに決まってる。
「そーいえばさ」
と、エースくんがお箸をおいた。もう、ザルの上にはお蕎麦が乗ってない。
代わりにお茶を飲んで、ぷふぅ、と息をついていた。
「そういえば?」
「ルフィがイジケてだぞ?」
わたしは、目をぱちぱちと瞬きして。はて?と、内心首をかしげる。
エースくんはニヤニヤ、そんなわたしを笑った。
「サボと遊んだのが、よっぽど羨ましかったんじゃねぇか?」
「いやいや……」
羨ましがられること、なの?
「じゃあ、ルフィもサボさん誘えば良いのに…」
そうすればきっと、弟に甘いあの人のことだから、ルフィならどこにだって連れていってくれる気がする。
そう不思議そうにするわたしに、エースは「あ」と苦笑した。
「わるい。言い方間違った。サボのこと羨ましがってた」
「え……。ん?」
つまり、わたしと遊びたかった。って、そういうこと?
でも、今さら。いくらわたしが「近所の友達」でも、ルフィがそこまで遊びたがるとは思えない。
でも、エースくんはちっともわざとらしいこともなく、呆れたように続ける。
「友達と遊びにいくってのに、朝からぶぅぶぅ言っててな。いやぁ、アイツもなかなかお前離れをしたがらねぇな」
「わたし離れって」
思わず、吹き出すように笑い声が出た。
そんなの、お互い様だと思う。わたしだって、ルフィが新しい友達を作るたびに、その人達と遊びにいくたびに、やっぱり面白くないことだって少なくない。エースくんだって、それを知っていてわざとそんな言い方をしてるんじゃないだろうか。
「あいつとも、外で遊んでやってくれな」
エースくんは、ずずっ、とお茶を飲みきった。
「うん」
ルフィとなら、あの気を使うことを知らないふてぶてしさなら、わたしはすごく楽だし。そういうところが、好きなのだ。
わたしは、どうせ食べ歩きになるんだろうなぁ、と静かに笑う。食事中だし、エースくんの前だし、大口を開けて笑うつもりはなかったけど。でも、そうしたいくらい可笑しかった。
ルフィとデート?あれは、そんなんじゃなくて、もっと、楽しくて楽しみにできる時間だ。
「つぅか、オレもまぜろ」
最後に食べ歩きをしたルフィのことを思い出して、やっぱり笑いが止まらない。
だから、エースくんがなんて言ったのか全然聞いてなかった。
「え?うん?」
反射的にそう返したわたしに、エースくんはニコニコ笑う。
「じゃあ、三人でどっか行くか」
「えっ!」
「ん?」
なんだ、やっぱダメか?と、エースくんは目をぱちぱちとさせる。
「だ、ダメじゃない!」
思ったより大きな声が出て、それが恥ずかしくて、顔が熱かった。
「じゃあ、近いうちにな。約束」
当たり前のように、エースくんは小指をこちらに差し出して。わたしは、それに戸惑いながらも、同じように小指で絡めとった。
「ゆびきりげんまん」なんて歌を歌わなくても、それだけでちゃんと伝わる。そんな小さなことが、胸を締め付けるように嬉しくて、嬉しくて。
(マルコさん……)
ここにはいない、聡明な兄代わりの人を思い出していた。
(わたしって……。エースくんのこと、思っているよりずっと、すごく好き、かも)
この人のことを、どうやって諦めればいいのか、それがちっとも途方もないことなんだと。長い片想いのなかで、今になってようやく気付いてしまった。
(好きって、なんだっけ?諦めるって…どうするんだっけ?でも、嫌いになんかなれるわけないし)
そうやって困りきって、どうしようどうしよう、と頭のなかで狼狽える。
すると、同じように頭のなかにいる兄は、少し呆れたように笑って、わたしの額にデコピンをしてきた。痛くはないけど、痛いはずの攻撃。
『今ごろ気付いたのかよい』と、その痛みは言った。

……20130626

DODO