>酷いにおいだった。そのせいで目が覚めた。最後に何処にいたという記憶も、それどころか自分に関する殆ど一切を忘れていたけれど、それでも、いくらなんでもこんな下水道で寝る事もないだろうに。それが、私が起きてはじめに抱いた感想だった。
酷くぬめりを帯びた体を起こして、暗いその場所の一本道を頼りに進みながら、私はいろいろな事を考えた。
まずは、ここは一体だこだろう、と。
ドブには違いなかったけれど、起きたときから感じる違和感がもっと根本的なところを否定しているような気がした。私は、私が両足を付けている世界から酷く拒絶されるのを感じ取っていた。
それから、私はいったいどうして何も思い出せないのだろうか、と。
名前はわかる。生まれた場所も。両親もいた、兄弟もいた、けれど顔も名前も思い出せない。何か色々と学んでいた気がする。学校に通っていた。それから、友人に関する記憶は殆どないので、友達はいなかった、のかもしれない。でも、それ位だった。他に何もなかった。開けば出てきそうな記憶があるのも本能でなんとなく分ったけれど、どうやって開けばいいのか分らなかった。
そして、わたしの目はいったいどうしてしまったんだろう、ということ。
一切光の入らないはずのドブで、やけに視野が広い。何処に何があるか、ちゃんと分った。そして、それが異常だという事も分っていた。

そんな途方もない事をひたすら、答えを誰が出してくれるまでもなく考えていると、視界にロープが入ってきた。それは、切れてボロボロだったけれど、私の記憶を刺激して、余計な事を思い出させてくれた。私は、あれで殺されたのだった。
けれど、生きていた。でも、違和感ばかりの体だった。正確に言うと、体中で違和感を感じていた。自分はここにいてはいけない存在だ、というその理由の端っこを、その時ちょっとだけ理解した。なるほど、死んだのだから、当然だ。と。
真実はもう少し違うことを知るのは、大分後になってからだ。その話は、いつかの機会に取っておこうと思う。

とにかく、私がこの場所において縁のある人間がいないことだけお分かりいただきたい。そして、そんな私があの場所に文字通りご厄介になるのは、それからまた2、3年後の事。
一期一会の人生に嫌気が差し、そしてその人生を変えることとなった日のお話しもまた、少しだけ長くなりそうだから、割愛する。


***


本格的なドリッパーを目にしたのは、恐らく死ぬ前の話だ。美味しいケーキの並ぶカフェで、家族だか、友人だかと目で楽しんだのかもしれない。その内の、あるは全く別の場所で、誰かが教えてくれた。あれらのドリッパーは手入れが大変なのだ、と。
リーズナブルで、コンビニエンスな紙のそれで十分だ、と。今なら、大いに頷ける。

"Good morning"

寝ぼけた声が、私に声をかけた。この家の同居人の一人である、男の子だ。けれど、boyの響きが好きではないらしく、わたしは彼のことを子ども扱いした事がない。どんな経緯があるのかは大体知っているが、つまり、性格として素直な子ではないのだ。名前を、ネロという。
この家に住む同居人の中で数少ない、わたしを「認識」出来る一人でもある。
わたしは、一生懸命脳みそを切り替えて、英語の引き出しを開いた。もう、喋らざる終えなくなって長い。昔ほど困る事も、そう無くなった。
「おはよう。何か飲む?」
「ミルク。ハチミツ沢山入れて」
「はいはい」
ネロ君は、そのままダイニングには行かず、kitchen chairに腰を下ろして、広い作業台に頭を置いた。わたしはミルクを温めながら、その姿に苦笑する。
"Are you acclimatized here?"
気を抜いていたときに、ぼそり、とそう聞かれる。なんとかそれをとっさに訳して、"Yes"と答えた。
そういう気を使ってくれるのは、本当の意味でネロ君だけだろう。彼もまた、この場所に来てからは随分と苦労したらしい。『慣れた?』だけでなく、彼の気遣いの言葉には、流石のわたしもいつも絆されてばかりだ。わたしは、笑って付け足す。
「少し前よりは、随分楽」
「あっそ。なら、いいけど」
布製のドリッパーは、元よりそんな色をしているのかもしれなかったが、茶色く染まっていた。フラスコに溜まったその液体を、ネロ君が"Gah..."とその液体を見て、顔をしかめる。
苦いものは、嫌いらしい。それが、わたしが知る数少ない、彼のステータスの一部だった。
「はよー」
間の抜けた挨拶に、わたしはキッチンの入り口を見た。そこには、寝起きのままの髪をそのままにした、ネロ君と同じ白髪の男が立っている。男、というか。私にとっては、この人もまた、ネロ君以上にboyなんだけど。
ちなみにこの人には、わたしは見えない。言っておくけれど、わたしが幽霊ってことは無い。断じて。たぶん。そう、信じてる。
"Dante,you look so awful"
ネロ君のその言葉も当然。確かに、目の下のクマがひどい。"Ah...."と、彼は頷く。若干機嫌が悪そうに見えなくも無い。
「眠れなかった」
「はぁ?どうしてまた」
ネロ君が、呆れたように言う。わたしは、なんとなく原因が分って、キッチンの隅っこで身を小さくした。ことん、と静かにハチミツミルクを置いておくのは忘れない。
「いるんだろ?青」
更にキッチンの隅っこで小さくなる。消えられるなら、消えたい。なぜわたしは、幽霊じゃないんだろうか。
「いるけど。なんだよ、あいつのせいか?いい加減、慣れろよな」
「オイ。じゃあ聞くが、お前は部屋中をゴキブリが這いずり回る気配の中で、寝れるのか?」
想像しただけで「オエップ」である。ネロ君も流石に、言葉が見つからないらしい。
「まさにそんな感じなんだよ、青が家に居ると!なー!頼むから、もう一回話し合って別の解決策を……」
私の姿が見えないのをいいことに、全くこの半裸男は言いたい放題である。私だって、好きでこうなってしまった訳でもないのに。しかし、申し訳ありません。
「おい、青がいるんだから……」
「聞こえるように言ってんだよ!」
そりゃもう。そんな大声でなくても聞こえてますけどね、バッチリとね!
"Shut up!"
大きな怒鳴り声が響いて、それと同時に蒼く鋭い刃のようなものが彼に突き刺さった。初めてその光景を見たわたしは、余りのことに言葉をなくして失神しそうだったけれど、今はもうそんな事はない。
現に、普通ならそんなものが刺されば、声も上げられないような傷と出血だというのに、彼はピンピンしながら「ぎゃあああ!」と叫んでいる。どうともないようだ。
"Morning. You have coffee?"
飄々と挨拶をする男は、身悶える彼に、更なる追い討ちをかけて踏みつける。その人物こそ、先ほど信じられない凶器を放った張本人。わたしはトレーにコーヒーカップを乗せて、それを差し出した。
ちなみに、ドリップコーヒーのこだわりは、目の前の男のものだ。
「おはよう。バージルさん」
ああ、と涼しげな顔をしているバージルさんは、床で失神しかけている彼の双子の兄。年下なのに、思わず萎縮してしまう雰囲気がある。
こうも正反対の人間が生まれるものか、しかも双子で、しかもこんなに容姿が似ているのに。世の中って言うのは、分らない事が多い。わたしが言うのも、何ですがね。
そう。私のことを見ることができて、触れる事ができるのは、この家にはバージルさんとネロ君の二人だけ。残りの同居人は、まるっと私の存在を認識できないらしい。
それは、今も床に突っ伏している彼のような「嫌悪」だったり。
二階でグーすかと寝続けていられる、まるで私の存在なんて少しも感じ取れないような「無意識」だったり。
わたしが近付くだけで、電流のようなものを感じる「反発」だったり。
あるいは、わたしの存在を視覚できて、会話できても、すぐに忘れてしまう「忘却」だったりした。
ちなみに、忘れられる、事に関しては珍しい事じゃない。わたし、という存在はどうやら、この世界とは少し板を挟んだ、別の層にあるようで、普通の人間にはその層で起きる事を覚える事はできない。とは、バージルさんの手持ちの文献の受け売りにせよ。
「おっさんが増えただけでも大変だっていうのに……」
それに重ねて、わたしのお守りも、となれば気苦労は圧して図るまでもなく。ネロ君には、いつもながら申し訳なさで一杯だ。
ちなみに、おっさんが増えた、ということの説明は少し保留。
「ごめんね」
「いや。どの道、アンタにはいてもらわないと」
いやほんと、ごめん。
君って全然若いのに、気苦労で禿げてしまいそうだから、おねーさんちょっと心配。ネロ君の頭をよしよし、と撫ぜてみれば鬱陶しがられた。さらに、ごめんなさい。
「上のダンテ達はまだ寝てるのか」
バージルさんが、呆れ気味にそう言う。
「昨日の帰り、遅かったよ。えーと、一番年上のダンテさんと、そのそっくりの……」
一晩中、ソファの上に座って時計を眺めていたわたしは、上で寝ているうちの二人が帰ってきて二時間も経ってない事を知っている。
名前は同じだし、見た目すら未だに見分けがつかない。何しろ二人とも、同一人物だ。
「……いい加減、こいつらの名前をどうにかする必要があるな。あの髭豚は起こしてくる」
バージルさんが怒り半分で二階に上がっていくのを、ネロ君が軽く手を振って見送った。
「今朝の朝ごはん、何だろうね?」
わたしがぼんやりそう言えば、ネロ君は呆れたように笑った。
「でもアンタ、食えねーじゃん」
そりゃあ、そうなんだけど。

………20130922
という連載をしたいくらいには、彼らが好きです。

DODO