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人間、底辺を知るとおおらかになるものである。小さなことは本当にどうでもよいことのようにしか見えなくなるし、大きなことは自分には動かせないものだと諦められるようになる。つまり。男と笑って連れ添う女にも、着飾る姿がきらびやかな体にも、あるいはせかせかと輝く一日を生きる様にも、羨ましいとは思わなくなるものだ。あるいは日々を磨くことも、毎日を積み重ねることも、将来を思い描くことすら、どうでもよくなる。それは一般的には、クズ、と呼ばれる姿なのだろうが、あいにくそういうクズほどなかなか不幸にはならないものである。不幸なことに、あるいはとてつもなく恵まれていることに、わたしは突然職を無くしても、恋人に本当は妻と子供がいても、次の職を見つける気力がわかなくても、両親の脛をかじって生きていける。
ただ、毎日を惰性に泣いて過ごしているだけで、自分自身はそれを許せてしまうのだ。こんな底辺の人間の姿を、自分自身で証明すること以上にクズな生き方があるだろうか。
今日もまた、泣きつかれてお腹が空き、ジーパンにロンTとジャンパーというとてつもなく貧相な格好で近くのスーパーへ行く。食事を作る事が壊滅的に不得意だということはないが、食事を自分のために作ることはもうずいぶん前から止めた。そうしなくても、多少のお金で十分食べるものが買える世の中だ。お金さえあれば生きられるのである。
お弁当を買い、ビニール袋片手にふらふらと町中をさ迷う。どこか、静かに食事ができる場所を探すのだ。さ迷い、更にさ迷い続けたあげく、やっと見つけたのは小さな神社とそのそばにある空き地だった。幸運なことに、なぜあるのかわからないベンチもある。そこへ腰かけて、わたしはごそごそと食事を広げた。
お弁当ひとつの時もある。もしくは、お弁当と更には唐揚げなどのお惣菜、サラダなんかまで買うときもある。今日は、お弁当だけだ。お弁当と、水筒のお茶。水筒のお茶だって本当は面倒だが、生まれつき水に弱い体質で下手な飲み物を飲むことができない。これは、毎朝つくって慣れてしまった結果だ。本当はこんなことだって、生きるためにしているようで笑えて仕方がなかったが。

「ねー。あのさー」

心臓が喉から出るかと思った。突然、背後から声がかかることが普通の人生で何度あるだろう。慣れてしまった今でさえ、こうだ。しかもこんな辺鄙な場所で、しかもここは神社の近くだ。一瞬変な想像をしてしまった。
安心したのは、振り返って見たものがどう見ても人間だったからだ。ちょっとアレな雰囲気もあるが、かつての私ならともかく今の私には全く気に留めるようなことではない。
「なんでしょうか」
つとめて、冷静に。あるいは、ひたすら無関係を装って返事を返した。
「その水、飲みたいんだけど!おれさ、野球してすっごく喉かわいてんの!」
なんと、語尾に勢いのある人だろうか。水じゃなくてお茶だ、と訂正したけれど、目の前の人は下手すると水筒を奪いそうだ。わたしは、とりあえずポケットの中から折りたたみのシリコン製カップを取り出して、そこにお茶を注いだ。それを渡すと、目にも留まらぬ速さで空の容器を返される。
返された、と思ったけど。どうやら、もう一杯という意味合いらしい。私はもう一度そこにお茶を注いだ。
「このお茶うんめ〜!」
「はぁ……」
まあ、そりゃあそうだろう。カルキの混じりまくった都会の蛇口から出てくる水で作るものとは違いすぎるはずだ。まあ、ただ、どう考えてもこの人は味が美味しいからそう言ったのではなくて、運動して喉が渇いたのでそう感じているだけだろうと分かって、とりあえず飲む様子を観察するだけにしておいた。
人と接するのは、さっきのスーパー以来だが、こうして意味もなく話すのはとても久しぶりのことだった。会社を辞めて、親ともまともに連絡を取っていない。友人もそもそもいないような人間だったし、言うなら友人ができるような人間ではないのだ。やはり、何のために生きているのか分からなくなって詰む。
「もう一杯!」
「…飲み干す気?」
返事がない。やはり仕方なく、わたしはそのコップに一杯一杯お茶をついでやった。
そうしてやっと、わたしはお弁当をつまみ始める。どうしてか、その人はわたしの隣に座った。
「ここで野球するのはじめてだけど、お茶飲めてラッキー!ねえ、名前は?」
「…あ、…はぁ?わたしの?」
「そう!おばさんの!」
「おば……うん、青っていうんだけど、おばさんはやめてくんない?」
「じゃあ、おねーさん!」
そうね、まあ、それならいいわ。
まだ働き盛りの年齢であるわたしをおばさんといいたくなる気持ちも分からなくはない。今のわたしの姿ときたら、いきずりのなにかヤバイ人間に見えるだろう。匂いが漂うほど小汚いとは思わないが、ぼさぼさの髪や化粧っけのない顔、連日の水を搾り出すような嘔吐でやつれた顔と酒臭さ、涙で腫れた目はとても若々しくはないだろう。そんなヤバイやつからお茶もらってニコニコしてられる人間も相当ヤバイと思うが、まあ、いいやそんなことは。
「おねえさん、おれの兄さんに似てる」
「はぁ?」
「なんか、だからすげー話しかけたくなっちゃったんだよね」
そら、また…。似てるといわれたそのお兄さんを嘆けばいいのか、逆にわたしが哀れまれているのか分からないが、というかわたしの気持ちとしては前者なわけだけど。
にしたって、そりゃいくらなんでも。
「いや、こんなのに似てるとか、あんたの兄さんに失礼だよ」
「あはははは!」
「…笑うところかね」
思わずわたしまで吹き出して笑ってしまう。もちろんひっそり、小さく。ところが、そんな様子をじっと見つめられていることに気づいてしまった。
「そーゆーとこ!すっげーにてる!」
さいですか。
お弁当を食べ終わって、わたしはぼうっと空き地を眺めていた。いつ隣の人間がいなくなるかと思ったけど、同じようにわたしの隣で何が面白いのかずっと笑っている。というか、口が閉じない系の人らしい。
「口」
「くち?」
「ずっとあけてると疲れない?」
「えー?」
疲れないらしい。
他人にはおせっかいを焼かないわたしだけど、どうしてか、この人は不思議と話しやすいし嫌な感じがない。こういう人と会える運命ってやつがあるのか、とどこかくさいことを思う。
「あんたの兄さんさ」
「どの兄さん?!おれ、兄さんが四人いるからっ!」
「大家族かよ……じゃなくて、そのお兄さん。私に似てるっていう」
「一松兄さんね。ちなみに、弟もいる」
「そりゃまた、賑やかそうだね。で、その一松兄さんってひと」
「うん!」
「本当にわたしに似てるんなら、あんたみたいなのが兄弟で幸せもんだね。って、思った……だけなんだけど、わたしなに言ってんだろうね」
ほんとうになに言ってるんだ。だけど、隣の人間は気にした風がない。むしろ、にこにこ笑っているのだ。すごく嬉しいことをいわれたように、みずぼらしい人間に笑いかけている。
ほら。仕事してなくたって、お金もってなくったって、二十年以上積み重ねたもの捨てたような人間だって、笑いかけてもらえたりしちゃうわけよ。世の中って、どうしてこんなクズを捨てちゃくれないんだろう。
「あんたさ、苦労するでしょ」
「え〜?」
それすらもピンと来ないほど、鈍い人なんだろうか。でも、苦労はしてきたはずだ。どう見ても、まともには見えない。わたしもそういう意味では弾かれてきたほうだけど、ここまでぶっ飛んだ人に会うのは久しぶりだった。
それでもこうも、明るく生きられるっていうんだから、羨ましいを通り越して嫉妬する。でも、悪くない。こういう気持ちも久しぶりだけど、ぜんぜん悪いところなんてなかった。
「名前」
「えっ?!」
「おにーさんは、名前なんてーの?」
興味深々に思われるのもなんだか恥ずかしいので、目線だけは空き地の向こう側に向けたまま聞いてみる。
「十四松!」
「じゅうしまつ…名前が?」
「そう!」
最近のきらきらネームではないけれど、五男になぜそんな名前がつくのか悩んでも答えが出そうにない。
「十四松さんは、帰んなくていいの?」
わたしが外に出たのは夕暮れもとっぷりつかった時間だ。とうとう日も落ちだした。見たところ見た目以上に年齢が低いという感じもないし、門限があるとは思わないが、こんなところで時間をつぶすには私の隣である必要もないだろう。
「いいのいいの!」
ところがわたしの心配をよそに、思ったよりも緩い人らしい。
「ふーん」
じゃあ、十四松さんが帰ったらわたしも帰ることにしよう。どうせ家には何もないし、むしろ帰らなくてもいいくらいだ。ただ、少しこの人をここにおいて帰るのが後味が悪いだけ。ここまで関わってくれた人なのだし、最後まで見送るくらいはしてもいいだろう。わたしは、ポケットの中をごそごそと引っ掻き回しながら、手の感触だけでそれを見つけて握り締めた。
それから、十四松さんとはとりとめもなくいろんな話をした。話を聞けば、なんと六つ子だという。そんな存在が日本にいたなんて、とあまりの驚きに嘘でも言ってるんじゃないかと何度も疑いそうになった。

「あれ、十四松……。お前何してんの?」

疑いそうになったけれど、街頭の明かりがつき始めたころにやってきた人物を見て、やっと心から信じることができた。そこはかとなく違いはあるが、どう見ても同じ顔だ。そして、どう見ても知り合いだった。
なるほどな、と色々と納得する。だって、十四松さんはどう見たって「寄せそう」な人ではないからだ。それなのに、こんなところを見つけてしまうなんておかしいと思ってはいた。
「えーと、そっちの方は?」
「青おねーさん!」
こちらにやってくる人が十四松さんのどの位置にいるご兄弟かはわからないけれど、実にまともに普通の人に思える。「どうも」と、わたしは小さく会釈した。
「こいつ、なんかしませんでしたか?」
へらへら、と人当たりよさそうにそう聞いてくるご兄弟さん。
わたしは首を振って、いいえ、と返した。むしろ、わたしに付き合ってくれたといっても過言ではないけれど、そこまで説明する必要もないか、とくちをつぐんだ。
かわりに、ポケットの中の手を出して、その人へ向ける。
「青です。はじめまして」
「あ、はじめまして。おそ松です」
しっかり握手をしてから、わたしは席を立つ。十四松さんも、ぴょん、とベンチから立ち上がった。
それから自然と三人で空き地の入り口まで歩いていく。
「それじゃあ、十四松さん。今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ〜!」
「いや、絶対おまえ何か迷惑かけただろ」
帰る道は、それぞれ反対方向だ。わたしは、二人が背を向けて道の向こうへ行く前に、その十四松さんの背中をぽんぽん、と二度叩いた。
「ん?」
振り返る顔はやはりどこかちょっとおかしくて、やっぱり口は閉じてない。でも、不思議と嫌な感じがしないのが、どうしても羨ましくて好きに思えた。
「コップ、返してください」
「あ!!!そうだった!!」
はいっ、と渡されたものを受け取る。

「帰り道、気をつけてくださいね」

わたしたちはそこで分かれた。
わたしは久しぶりに気分がよかったし、なんだか少し元気になっているような気がした。でも、人と関わることはもうしないと決めてしまっていたし、だから「そう」したことには迷いはない。
わたしは確かに、十四松さんと繋がっていた縁を切って、その場を分かれたのだ。

………20151108
続くかわからないけど、はじめてみました。

DODO