>[ホ]

目が合った。

青はさかさかと足を動かしながら、できるだけ人に会わずにすみそうな通りを進み、後ろからついてくる「何か」を振り払おうとしていた。
もしかすると、自分が朝から飲んでいたお酒のせいで見ている幻覚なのかも。と、何度も早鐘を打つ心臓を押さえるために足を止めようとするが、はやる気持ちがそれを許さない。もし、青自身にどうにもできないものだった場合、一体どうなるのか彼女にも想像がつかないのだ。今までなんとかできなかったものに出会ったことはないが、何度も死ぬ思いをしたことならある。それもこれも、もしかすると自分が見ている幻覚のせいなのかもしれない、と思うと頭がどうにかなりそうだった。
誰にも会いませんように、と青はそれだけ念じるようにとにかくどこかへ逃げようとしていた。そんな時。ジャンパーのポケットが震える。
ぷぷぷぷぷ!
気の抜けるような着信音に気づいて、彼女は足を止めないまま電話の着信を見た。
「…っ!こ、っのタイミング?!」
相変わらず、間が自由というか、全くなんという男なんだ。と、青は内心で罵声を飛ばしながら。ほとんど考える間もなく電話に出た。
「十四松さん、何?!」
『あ、青!!おっすおっす!!』
「よ、う、け、ん!」
ちょっとでも助かったと思った自分が馬鹿だった、とその辺の電柱に頭をぶつけたい衝動に駆られながら青は根気強く電話を繋いだままでいた。そうでもしなければ、間違いなく後ろの気配に飲み込まれてしまいそうになる。
『おそ松兄さんがね!一緒に飲みにいかないかーだって!』
「いきません。魂胆みえみえ!ってつたえて!」
十四松は「わかった!」と、ありのままを電話越しに伝えている。それからすぐに、電話の向こうでがやがやとやり取りが聞こえ、「ちょっと代われ、十四松!」という声と一緒に電話の向こうの気配が入れ替わった。
『もしもし?!』
思わず、青が携帯を耳から遠ざけるほどの大声が叫ぶ。
「もしもし。叫ばなくても、聞こえて、ますけどっ?」
『え、てか。なんか、お前息荒くね?え、もしかしてまずいときに電話しちゃった?』
青には相手がどうせしょうもないジョークを言おうとしてるのがわかって、こっちはそれどころじゃない、と憤慨しながら、それを通話越しに表せなかった。なにせ、息も絶え絶えで、とにかく会話をするだけで精一杯なのだ。
「意味がわかりませんっ。というか、あなたは十四松さんのどのお兄さんですか?」
『おそ松だよ!会話の流れ!っつーか、お前ほんとに大丈夫か?走ってるだろ』
「心配が、おそいっ!」
なにもかも、遅い!
もう限界だ、通話を切ろう。いや、切る!そう決めて、赤いボタンに指を置いたとき。

「あ!いたいた〜!俺すげー!」

ぽかん、である。
青は状況をすっかり忘れて、しばらくぶりに足を止めた。後ろの気配なんて、たいした問題じゃない。目の前で起こった魔法のような魔法が、いったいどういうことなのか全く理解できなかった。
「え?」
「あれ?ランニング?!ランニングすんの?」
「…いや、しない。というか、十四松さん……さっき、通話の向こうにいなかった?」
「いたいた!そんで、なんか、電話で話すのメンドクサイから直接来た!」
十四松にまともな説明を求めるほうがアホらしいことは重々承知であっても、これほど目の前の人間に詳細の説明を求めたいと考える出来事もない。
「……走ってきたの?」
「うっす!マッハ飛ばしてきやした!」
「あ、そっすか」
ここから松野家までの距離をどうすれば瞬きほどの時間で来れるのか。
そもそも、どうして場所がわかったのか。
そしてやっぱり、不思議なことにどうやって追いかけてきていた気配が消えたのか。
全部聞こう、と一瞬口を開きかけた青は、そのまま深呼吸をしてやめた。何度もいうが、目の前の十四松という存在がどれほど不思議か、彼女はよくわかっている。
だから一言。
「ありがとう、助かった」
「ん?おれなんかした?」
青が、手に持っている携帯が繋がったままだということに気づいたのは、その後だった。

***

「……」
「……」

この沈黙が生まれる前にさかのぼる。
図らずも十四松に助けられた青は腕を引かれるままに松野家に連行された(文字どおり、十四松がテレビの真似をするように「連行」したのだ)。ところが相変わらず、家にはおそ松しかいなかった。
「なんでお前が来ると、みんな用事ができるんだろうな?」とてつもない謎だ、というようにおそ松は首を傾げたが、当の本人は苦笑いをするしかない。とにかく、やってきたからには飲みに行こう!と、おそ松があまりにしつこいので、青は仕方なく「ワリカン。それから、高くない店ならいいですよ」と首を縦に振ったのだ。
そこまでは、至って普通の流れだ。強いて言えば、縁を切ったはずのおそ松が、十四松が青を思い出したのと同じように、なぜか彼女のことを忘れていなかったことは彼女自身にとっても不思議で仕方がなかったが。ともかく。
今。青がこうして、気まずい空気を共有するのは、十四松ではなく。当然、おそ松でもない。そのどちらでもない、けれど間違いなくあの二人の兄弟の一人だという状況が重々しい沈黙を生み出していた。

「「あの!」」

せっかくお互いに意を決しても、同じタイミングでしゃべりだしてしまい、そしてまた室内に沈黙が流れる。
(兄弟なのはわかるけど、そもそもあの二人以外とは会ったこともないし)
会う予定なんか、これからもありえなかったのだ。それなのに、食事の場所を指定したおそ松の指示通りに着いてみれば、待っているのは二人ではない一人なのだからとうとう青もからかわれているのか、と怒りだしそうになる。それでもそうしないのは、目の前の一人松があの二人の兄弟とは思えないほど好青年だからに他ならない。
なるほど、六人もいれば、一人くらいはまともなのがいてもおかしくないか。と、青は一瞬頷きかけたが、すんでのところで思いとどまった。すでに、事前の調査(以前おそ松と雑談をしたとき)で誰一人働いておらず、しかも一癖ないし二癖はあるようなニートであることは分かっている。
こいつまさか、おそ松との飲みに便乗してたかりにきたのでは?と、青の心は疑心暗鬼で満ち満ちていた。
「……ちなみに、何松さんですか?」
「え?あ、チョロ松です」
ただでさえ、緊張かなにかで強張っている様子なのに、名前を名乗っただけで消えそうなチョロ松を見て青はもう疑うのをやめていた。なんだか、気の毒にすら思えてきたのだ。
そうとなれば、最初の挨拶はこうである。
「はじめまして、チョロ松さん。青、といいます」
「はじめまして、青さん……って、え?!青さん?!」
青は相手の驚きように驚いて、つきだしで出てきていたたこの酢の物をひとつ、机の上に落としてしまった。

……20151114
ちょろ松編、とうそぶく。

DODO