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昨夜の記憶がほとんどない。
記憶をなくすほど飲んだのは初めてだ、と思う余裕も出てきた。
記憶はほとんどないが、おそらく飲みすぎた、という確信を持ってチョロ松は何時間もトイレに篭っていたのだ。二日酔い独特の吐き気のために、男七人(しかも唯一の女は母親)が使うトイレの便器と仲良くしながら、寒気、体中の痛みとだるさ、それから頭痛と戦っていた。
さすがに朝からこの状態なので、気の毒に思った母親がマシになればと薬を用意し、おかげでそれから二時間後にはトイレを開放できるくらいには回復していた。
のそのそ、と居間に戻れば、相変わらずのニート兄弟が、手持ち無沙汰に暇をもてあましている。チョロ松は、飲んでさえいなければ今頃は後一歩というところまで来ていた面接で、仕事をもらえたかもしれなかったのだ。しかし、悔いても仕方がない。仕方がない、と思えるほどには満身創痍だった。
「やぁっと、トイレから出てきたのかよ〜」
にやにや、と笑いながらチョロ松を冷やかすのはおそ松だ。
「……うるさい」
どかっ、とちゃぶ台の傍に腰を下ろし、冷たい机にすがるように額をこすりつける。カラ松は、多少心配そうにその様子を見ていたが、台所から戻ってきた影に気づく。そして、とりあえず元のテレビの前の位置に居直った。
「ねえねえ、昨日青と飲んだんでしょ?どうだった?どうだった?!」
台所から戻ったのは、十四松だった。とん、とコップに水を入れて傍によってきた十四松が、チョロ松には聞きなれない名前を口にする。ありがたくコップの水を飲みつつ、昨日の記憶を引き出そうとするが、どう努力しても何も思い出せそうにない。
「青……?」
「あれ?違った?」
相変わらず、焦点のいまいち合っていない目で見つめれれると、更に思い出せそうなことが思い出せなくなりそうで、チョロ松はぎゅっと目を閉じた。
「いや、違わないから。おれたち、わざわざお前迎えに行ったのよ?」
おそ松が、そんなチョロ松の顔を覗き込むように「うりうり」とちょっかいをかける。
「チョロ松兄さんがこんなになるまで飲むなんてめずらしー!」
あははは。と、十四松は立ち上がって笑い飛ばしたが、ふと、目をグワッと見開いた。その様子を見ていたのは、おそ松とカラ松だ。どうしたんだ、と目線を向けるも、十四松はチョロ松の方を見て固まっている。
「どうしちゃったの、分けわかんないんだけど」
「ま、まぁ。いつものことだけどな……」
おそ松は、そそそ、とカラ松に目配せをするが、十四松の行動の原理のほとんどは兄弟にも解読不可能だ。ごくり、と息を呑むようにその次の言動を伺う。
「それ!!!!!」
それは、ほとんど二階まで響いたと思うほど大きな声だった。
二日酔いのチョロ松の頭をガツン、と貫いたのは言うまでもないが、居間の隅で猫雑誌を猫と一緒に見ていた一松も、携帯をコンセントの近くで充電しながらいじっていたトド松も、目を見開いて十四松を見た。
「なに…っ。ほんと、叫ばないで、十四松」
頭を両手で抱え込むように縮こまったチョロ松。しかし、そんなことなんか知るものか、とでも言うように十四松はチョロ松の胸倉を掴みあげたのだ。
さすがにそれはまずい、とおそ松とカラ松が腰を上げた時。十四松は、チョロ松のそこから小さな何かを引きずり出した。
「これ、どうしたの?!」
「いや、だから…叫ばないでって、十四まつ」
「これ!どうしたの!?」
「知らないよ!!」
叫ぶな、といっていた本人も、半ばやけくその喧嘩腰でそう返事をする。しかし、聞かれながら、全くそれに記憶がないのも本当だった。首から下げられているのは、長い皮ひものついた微かに香りのする匂い袋だったのだ。
「一松兄さん、携帯かして」
「あ?…ああ、はい」
十四松は、「手を離せ!」と喚いているチョロ松の胸倉を掴んだまま、一松の前に立ちふさがり、相変わらず大きくし尽くした黒目で迫る。
一松は、触らぬ神に何とやら、と大人しく携帯を渡した。おおかた、誰にかけるつもりなのかも分かっていたのだ。だから、煩わしく操作をしなくてすむように、手短に目当ての番号の場所を教える。
「履歴。たぶん残ってる」
「うん」
十四松は袖で隠れた指で器用に画面を操作すると、スピーカーモードで電話をかけ始めた。
つつつつつ。
代わり映えのしない発信音が、居間に響き渡った。
今から何が起こるのか、ほとんど死に掛けているチョロ松以外の全員が、固唾を呑んで見守る。
ぶつっ、と通話が繋がった音で、緊張はピークに達した。

「あ?青?おれおれ!十四松〜!」

さっきまでの緊張感は何だったのか、全員(やはりチョロ松以外)がずっこけた。
『ああ、十四松さん?こんにちは。どうかしたの?そしてこれは、誰の携帯?』
電話の相手は、今までの流れを知らないので、暢気にマイペースに受け答えをする。それを聞いていたおそ松が、十四松相手だとなんて気の抜ける女なんだ、とため息をついた。
まあ、こうしてスピーカーで会話が聞かれているとも思っていないだろうから、おそ松はあえて息を殺すように会話を聞いていた。それは、他の兄弟も同じらしい。
「これは、一松兄さんの」
『あ。やっぱり。あのさ、今度自分の携帯に登録したら、この携帯から番号消しとかなきゃだめだから』
「なんで?!つーか、おれの携帯壊れてから買ってもらってない」
『……わかった、もういい。で?用件は?』
ああ、そうだった。と、言うように十四松はいっそうチョロ松の胸倉を掴んだ手に力をこめた。当のチョロ松は、兄弟の誰も見て見ぬ振りをしている状態だった。
「青のお守りがここにあんだけど!」
『え?チョロ松さんに貸したやつ?』
「これ、返す!」
『いいよ。まさか、取ってないよね?』
「まだつけてるよ。取ろうか?」
そういって、とうとう十四松が止めを刺さんとばかりに革紐を締め上げて、おそ松と近くにいた一松がその手を無言で、必死に防いだ。
『そのまま、つけてもらってて』
「なんで?」
『いや、まあ。そしたら失くさないし?』
そこではじめて、おそ松は冷静になりながら首をかしげた。常にどこかぶっ飛んでいる十四松の会話だから聞き流しているが、さっきからこの二人は何を話しているんだ、と。
「返す!」
『いいんだって。そのうち、返してもらうから』
さらに、スピーカーに近いおそ松と一松は、電話の向こうから電車の音と遮断機の独特なサイレンを聞いていた。このあたりでそんな音がする場所があっただろうか。隣町には詳しくなかったが、おそ松の記憶にはまったくそんな覚えがなかった。
「どこいんの?!」
十四松も、それに気づいたらしい。それとも、返しにいくために場所を聞いてるんだろうか。とにかく、兄弟には、だんだん十四松が何かに焦っているように見えるのだ。
『わかった。じゃあ、あとで貰いにいくから』
「今!どこいんの!!」
『……十四松さん、大丈夫だから』
呆れたように笑う声色が聞こえるが、おそ松は「勘のいい人だなぁ、まったく」と呟いた声を聞き漏らさない。
「なあ、十四松すげえ焦ってるからさ」
とうとう、堪えきれずおそ松は口を開いた。受話器越しの相手が、ぐっと押し黙る気配が伝わる。スピーカーで聞かれていたことに気づいたか、そうでなければ外面に切り替わるその雰囲気がありありと分かった。
『おそ松さん、十四松さん説得しといてください。取りに行きますし、電車きたので』
「どっかいくの?」
『散歩ですよ。ニートは暇なんです』
ぶつ、と。急に切れた電話に、居間の全員がその場の空気をどうすればいいか分からずにいた。今のやり取りが夢の中の出来事だった気さえし始めるのだ。しかし、そんな中、何度も電話をかけなおそうとする十四松の姿が異様だった。
上の兄全員が、十四松を落ち着かせようと言葉を探して、戸惑う中。
「……十四松兄さん、とりあえず手を離さないとチョロ松兄さんが死ぬ」
一声でそれを止めたトド松のその勇士を、兄たちは内心讃え倒した。

……20151121

DODO