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翌日。チョロ松は珍しく早起きをした。
とうとう青が昨日のその日のうちにお守りをもらいに来ることはなく、珍しく夜更かしをして彼女を待っていた十四松も、真夜中を過ぎるころには玄関で落ちてしまっていた。
必然的に一緒に待っていることになったチョロ松としては散々な一日だったが、救いといえば、ニートには一日をどう潰しても全く困ることがないということだろうか。
(やっぱ、就職しよう……)
寝起き一番にそう思いながら、チョロ松はいそいそといつものパーカー姿に着替える。布団を見れば、十四松以外の他の兄弟は寝ているままだ。十四松が早起きをすることは珍しくはない。高校球児時代の癖なのか、割とある頻度で兄弟の誰よりも目が覚めがいい。
そこでふと、チョロ松は自身の首元を見て血の気が下がったのを感じた。
昨日、あれほど十四松に「外したらだめ!」とか「おれの傍にいなくちゃだめ!」と目くじらを立てられたので、寝る直前まであれを首から下げていたはずなのだ。もしかすると、その十四松が勝手に持って行ったのかもしれない、とチョロ松は逸る心臓を押さえながら一階の居間へ下りた。居間には、テレビから見ているかも分からない天気予報が流れていて、ちゃぶ台には一人、十四松が湯飲みを傾けながらぼぅっとしていた。
「あ。チョロ松兄さん!おはようございます!」
「おはよう…」
挨拶もそこそこに、チョロ松は十四松の袖の長い手元を見る。しかし、予想していたものの姿がない。もちろん、何度確認しても自身の首からも下がっていない。外れていないか、布団だってちゃんと確認してきたのだ。つまり、ないものはないのである。
そうなると、真面目な気質のチョロ松は、冷や汗をかきながら十四松の傍で土下座をしていた。美しいフォームに、十四松が黒目をギョッと大きくするほどに。
「どうしたの?!チョロ松にいさん?すげー土下座だけど!」
「ごめん、十四松!お守りどっかいっちゃって……!!」
さて、昨日あれほどの剣幕だった十四松もこれにはどう出てくるか予測がつかない。チョロ松は何が起きても受け止める覚悟でいると、ずずず、と湯飲みのお茶をすする音が聞こえた。
「え?」
恐る恐る顔を上げると、にこにこと笑いながら(とはいっても、いつものように焦点の合っていない目と口が大きく開いた表情のことだったが)、十四松が「大丈夫!」と、チョロ松の肩を叩いた。
「青には返したから!」
「え?あ、そうなの?って、……いつ?!」
「うーんとね。……あ!さっき!」
「さっき?!」
確かに行動の早い人間なら起きていてもおかしくないような時間だ。学生の登校時間より少し早いだろうか。そうだとしても、隣町からこの家まで来るには更に一時間は早く起きていなければおかしい。しかも、他人の家を訪ねるにはいささか非常識な時間帯ではないだろうか。チョロ松の中で、青という存在がますます謎を極める。
なにせ、それなりに気遣いだという自覚すらあるチョロ松が初対面の女性とベロンベロンになるまで飲み、その上そのことを一切、顔すら覚えていなかったのだ。チョロ松の中で青という女性は、いるかいないかも怪しい存在ですらある。
ところがでも、十四松の反応を見る限り、あるいはおそ松の様子から察するに、不思議なところがある、というのはその人のデフォルトな部分らしい。
「一度会ってみたかったんだけどなぁ……」
思わず、チョロ松はそう溢す。すると、十四松がジッとその顔を見つめ返して、やはり笑っているようなそのいつもの顔で「大丈夫」と言った。
「そのうち会えるよ!青って、どこでもふらふらしてるから!」
十四松がそういうのなら、そうなのだろう。チョロ松は軽く笑って、僕もお茶を飲もうかな、と呟く。
「あ!じゃあ、これ飲む?」
「いや、お前それ。緑茶だろ?」
「うん!」
「しかも、どうせ砂糖入れただろ?」
「うん!」
チョロ松は「いらないよ」と呆れて、台所へ立った。どうせ兄弟が起きてくるには時間がかかる。それなら、もう少しすれば起きてくるだろう両親に朝ごはんを用意しておいてもいい。ニートな息子を持つ親に、返せることといったらこういうことしかないけれど、とため息をつく。それから、十四松の分と合わせて朝の小腹を満たすものでも一緒に作るつもりで。
チョロ松は、寒い台所に体を縮こませながら冷蔵庫の戸に手をかけた。
***
十四松は、夢の中にいた。
最も、それは彼にとってそれが夢である意識が強かっただけで、実際はどうなのか確かめようがなかった。とにかく、それが夢だろうが現実だろうが、突然布団から起き上がらなくてはいけないように感じて、まだ他の兄弟が寝静まっている中、布団から這い出たのだ。
冬の朝の独特な静けさはあったが、不思議とその寒さは感じない。目が覚めるのだから朝には違いなかったが、かろうじて物がどこにあるか分かるか程度の明るさしかない。
服を着替えるかどうか、と悩むまでもなく居間に下りていった。
「あ。こんばんは」
青が居間のちゃぶ台を前に座って、テレビを見ていた。部屋は真っ暗なので、テレビが点いていることは確かだったが、十四松にはその内容が全く分からなかった。
十四松は、それに多少疑問を浮かべたが、寝る直前まで彼女が来るのを待っていたことも覚えていたので、「きっと、だからこんな夢を見てるんだろう」と彼女の隣に腰を下ろした。
「青いつ来たの?」
「さっきだよ」
青は十四松のほうを見て微笑む。
「なんで部屋の電気つけないの?」
「だってほら、今見てる映画の雰囲気を楽しみたいでしょ?」
青が「映画」と言ったとたん、そのテレビの画面は何か、見たことがあるような映画を流し始める。
「待ってたのに、なんで昨日来なかったの?」
「ごめんね。色々、忙しかったんだよ」
「ニートじゃん!」
「そうでした!」
あはは。と、二人で笑いあう。
十四松は、そういえば、と青にお守りを返さなくてはいけないことを思い出していた。そこが夢だろうとなんだろうと、とにかくそんなのは置いておいて、できるだけ早く彼女に返さなくては。と、思ったのだ。
「大丈夫だよ」
青は、コトン、と十四松の前に彼専用のコップに注がれた緑茶を出した。どこから出てきたのか、十四松にはさっぱり分からなかった。
「お守り。勝手に返してもらったから。ありがとうね」
その言葉のとおり、その手にはあのお守りが乗っていた。青は、それをいつものようにジャンパーのポケットにしまう。
「ポケットに入れると落とさない?」
十四松は、いつも自分がしてしまう失敗を思い出しながら聞いた。
「ポケットに入れてるほうがいい、ってこともあるんだよ。首から下げるよりね」
それはもしかすると、彼女のポケットに入っていたものがチョロ松の首に下がっていたことと関係するのかもしれなかったが、十四松に予想できるのはこのあたりまでで、それからそんなことを考えることには意味がない、という結論になっていた。
「ここで何してたの?」
「ちょうど、雰囲気よく映画を見れるくらいのテレビだなって思ったから」
十四松は、むっとしてもう一度声を出した。
「何してたの?」
彼女が映画を見るためにここにいたわけじゃないことくらい、ちゃんと察しているのだ。青はきょとん、と目を開いて、それから笑った。「嘘が通じない人だなぁ」と、笑っていた。
「待ってたの」
青は、十四松のほうを見つめて言う。
「おれ?」
「そう、十四松さんのこと。おわかれを言いに来たから」
ここで待ってれば、来ると思ってたよ。と、青はお茶をすする。
「お別れって、なに?」
「おわかれは、お別れでしょ。もう会いませんって事」
「なんで?」
「なんでだろうね?」
十四松は、焦りながら「おれがなんかした?怒ってるの?」とまくし立てた。しかし、青は「そんなことじゃない」と首を振るばかりで、それ以上のことは何も答えてはくれなかった。
「おれが、一昨日の夜寝ちゃってて、それでチョロ松兄さんを迎えに行かなかったから?」
「ああ、寝てたんだ。でも、そうじゃないよ。ぜんぜん違う」
十四松さんは何もしてないし、何も悪くない。これは、わたしの問題だから。と、言う。
「青が変なのと関係ある?」
「それを十四松さんが言っちゃうの?まあ、関係あるんだけどね」
「変でもおれ、気にしないよ!おれもよく変だっていわれるから、おあいこ!」
困ったように青は笑うが、どうしたって「やっぱり嘘」とだけは言わなかった。
「友達って言ってくれて、嬉しかったよ」
青は立ち上がって、居間を後にする。
その場にエスパーニャンコはいなかったが、十四松には青が本心で何を思っているのか、どうしてか手にとるようにわかった。彼女は何かよくわからないものに怯えていて、そしてだから、何か起きる前に巻き込む前に「さようなら」をしようとしているのだ、と。
十四松は、玄関から出て行こうとするその背中に声を張った。
「青がさようならしても、おれ、探すから!」
ぴたり、青の足が止まる。でも、振り返りはしなかった。
「お別れなんてしないよ!だから、またね!」
返事は返ってこなかった。青の背中は玄関を出て行き、すぐに見えなくなる。
途端に朝の明るさがはっきりし始め、居間に戻ると、テレビはいつの間にか天気予報になっていたし、机の上にあったはずの彼女が使っていた湯飲みはなくなっていた。
十四松は、青が頑なに別れたがったのに、遠くに行かれれば追いかけることなんてできないのに、なぜか全く会えなくなるという不安はなくなっていた。それに安心して、居間でお茶を飲む。そんな姿を見ていた、一つの影には気づかなかった。
……20151123