>育った町に帰ってくれば、懐かしい出会いは付きものだろう。それが良いか悪いかは過去の付き合いに寄るかもしれないが、あわよくば、もしもがあれば、と思う相手だっているはずである。
青にも、たった一人だけ、もしもあわよくば機会があれば、と思う相手がいた。それは、高校の頃憧れていた男の子で、今でも結局こうして思い出すくらいには忘れられない存在である。目を引くほどかっこ良かったかと言われれば、それは「わたしにとっては、そうだったけど」と控えめにならざる終えない。なにせ、同じ顔が六つもあったのだ。見分けをつけるなんて、殆ど不可能に近いほどそっくりな6つ子の内の一人が、その彼だった。青は知らないところだが、彼らが更に幼いときは親でさえも当たり前のように間違う鏡のような集まりだったというのだから、その区別が学生のうちにとうとうハッキリしなかったことも頷けるだろう。
とにかく、その青にとっての未練がましい相手というのが、松野家の六つ子の一人、松野おそ松だった。おそ松は、他の六つ子の誰にも似ていたし、そして誰よりも個立していたと彼女は思う。気さくで明るく、馬鹿もよくやっているのを見たが、結局ずっと人気者でもあった。そこら辺の女の子には勿体無いくらいの男の子にすら見えていた。だから、青には間違っても彼に告白する勇気はとうとう沸き上がってはこなかったし、今でもそれは同じだったけれど、やはり強い憧れは思い出と共に美化されるようにこびりつくものだ。
当時はそれでも、どこか期待している気持ちがなかったか、と言われればそれもまた違った。青が学生の頃に少ないお小遣いで気を配ったのは女の子らしさであったし、そのお陰で今でも割りと身だしなみには手を抜かない性格になったと感じている。
たった三年、同じ学校だった。話すことは遂になかったが、青がそれでもなんとなく女の子らしく、可愛くなろうと努力できたことも、勉強を頑張れたことも、彼の存在あっての物種だ。あの三年の時間は短いようで長かったけど、あの頃の彼女はその時間のなかで、たった一度でも「悪くない」女の子として、おそ松の口から名前が出る日がくればいいな。と、健気に思っていたのだ。例え、それがとうとう彼女の耳にはいることはないほどの噂話だったとしても。
それほど、思いの深い相手の顔を、そうそう忘れられるはずがない。
青は、久しぶりに帰郷したその町で、彼を見かけたのだ。一瞬で彼女の心臓は早鐘を打ち出し、顔中を真っ赤にさせたが、何でもないように振る舞った。なぜなら、それが「同じ顔をした別人」であることにもまた、一瞬で気がついたからだ。バス停のベンチに座り、さもバスを待つようにしながら、じっとその人影を観察する女は、性別さえ間違えば一度で捕まるほど危ない人間に違いない。でもやはり、会いたいと思っていた相手の姿から、簡単に目をそらすことなんて出来ないもので。例えそれが、本人に瓜二つの、いや瓜六つの姿であっても、もしかすると本人かもしれない、と考えてしまうのは自然なことだった。
向かいの狭い歩道にしゃがみこみ、足元の猫と遊んでいるのがわかる。猫背で、どこかだるそうな雰囲気。そして、マスクで口を覆ってしまっている。青にはあれが、おそ松くんの何番目の弟君かは分からなかったけど、見れば見るほど、おそ松くんではないな、と思えてくる。とっくに心臓は元のように動いていて、頬のほてりが引き始めたころ、その松野何松はおもむろに立ち上がり、裏の路地へ入るようにしてスッと姿を消してしまった。
同時に青も思わず腰を上げた。
彼女の名誉のためにまず言い訳をするのなら、決して追いかけようと思ってそうしたのではなかった。彼が立ち上がったとき、そのラインの入っただぼだぼなジャージのズボンのポケット、そこから何かが落ちて側溝の中に入ったのが見えたのだ。青は慌てて道を渡り、その側溝を覗いてみた。案の定、何か鍵のようなものが落ちている。とっさに自身の髪をセットしていたUピンを取り、鞄に入れていたソーイングセットの中から糸を取り出し、なんとか引っ掛けられそうな仕掛けを作る。それから、釣りをするようにその鍵を取り上げてみた。
「す、ストラップ可愛すぎるでしょ……」
思わずそう零してしまうほど、かわいい小さな黒猫のストラップがついた鍵だった。
しかし、困ってしまうのはそれからだ。今からなら、あの松野何松を追いかけることはできるかもしれないが、彼女の複雑な心中がそれをなかなか許さない。
あの、おそ松ではない松野の顔を見てしまったら、おそ松に会いたくなるような気がした。あの憧れは、もう恋心とは程遠いものだと信じているのだ。いまさら掘り返したくはない。それだけじゃない。その鍵を取り上げた行為すら、下心にまみれたものに思えて胸がズシンと重くなるのが分かったのだ。
十分に考えて、青はその鍵を結局交番に預けることにした。はずだった。
鍵は交番に預けることにした。けれど、一度だけ、もしもチャンスがあるのなら、この可愛いストラップをつけた鍵を持っていた松野が一体誰なのかくらい確かめることは許されるんじゃないか、とそう思ったのだ。確かめて、そして松野おそ松の話などせずに、すぐに引き返せばいいと思った。もしも裏路地に入って、とうとう見つけられなかったら、そのまま素直に交番にこの鍵を預けよう。青は、鍵をしっかりと握った。
けれど、見届けたのはその何松が入った通りの最初だけで、そのあとは全く辿りようがない。だから青は、本当に見つけられると思うほど夢は見ていなかった。しっかりと諦めよう、と思ったのだ。諦めるために、駄目だったのだと思うために、ただ、裏のほの暗い路地を歩いていた。
今日は快晴だった。背の高いビルや、古い民家がひしめき合うような通りの真上で、空が青い。そんなに晴れているのに、どこか路地は湿気ていて、ほのぐらい。ただ、彼女にとって運がよかったのは、その少し薄ら怖い部分を、松野を追いかけることに精一杯ではっきり考えずに済んだ、ということだろうか。
なあ、と猫の声が聞こえた気がした。
青がそちらを向くと、そこは空き地になっていた。なんとなく、そこにいるだろうと足を向ければ、本当に、その松野何松はいた。何より驚いたのは青だった。それから、突然現れた女に驚いたのはその探し人だ。
一瞬、逃げ出しそうになる青だったが、とにかく恐る恐る、まるでその人を猫のように驚かさないように注意深く、近づいていく。もちろん、実際その松野の足元に本物の猫もいたので、気を使っていた。
「あ、あの」
「……はい」
「落としましたよ」
そっと、鍵を持った腕を伸ばせば、松野はそれを見て目を丸くした。そして、その顔を見てとうとう、彼女ははっきりと分かっていた。この人は、松野おそ松ではないな、と。
「……ありがとう、ございます」
松野はそれを受け取って、それから二人はどうしたものか、お互いに動けなくなっていた。彼女はとうとう緊張から顔を真っ赤にしてしまっていたし、目の前の松野はとても口数が多そうにも、おそ松のようにフレンドリーな様子がないのだ。混乱を極めた口が開いて聞いたのは、なんとも脈絡のない事だった。そして、それだけは聞かないようにと決めていたことでもあった。
「おそ松君、元気ですか……?」
「……なに」
聞かれた方は、ただでさえ目つきの悪いその目に更に力をこめて、それでも何を思ったのか力を抜いてため息をついた。
「兄さんなら相変わらずですよ……。知り合いなんですか?」
「いえ。クラスメイト、だったので。……そうですか」
「鍵、ありがとうございました。…それじゃあ」
そう、ぼそぼそ、ともう一度礼をして松野は青の横を通り過ぎる。
言葉を少し交わしただけだった。それでも、彼女の中からいくらか緊張が取れていた。だから、本当に聞きたかったことを聞くことにしたのだ。どうせ、最後だ。と。
「あの!」
「はぁ?」
随分おざなりな態度だったが、青はぐっと詰まっても諦めなかった。
「わたし、青っていいます。あなたのお名前教えてください」
「……聞いてどうするの?」
松野は威圧するように、雰囲気が凍った。ぎゅう、とその眉間にしわがよっている。
「え?」
「僕は松野おそ松じゃないし、名前聞いてどうするのって言ってんの。言っとくけど、わざわざ兄さんと会わせるほど面倒見る気ないから。そういうつもりで聞いてるんだったら、諦めてくれる?……他の同じ顔に頼んでくださいよ。それじゃあ」
青は、ぽかん、としてしまった。それから、少し涙腺が緩くなったかもしれない。なにせ、本当に喧嘩腰の、あるいは厭世的な冷たい姿勢をぶつけられたのだ。けれど、彼女ももう昔のように大人しくしているだけの「女の子」ではないのだ。もちろん、多少カッとなってしまったところもあった。
「待ってよ」
「だから……!」
松野は、振り返ってぎょっとする。まさか、泣きそうな顔をされるとは思ってなかったのだ。
「違うでしょ。わたしは、あなたの名前が知りたいだけ。確かにわたし、おそ松くんが好きだったけど、それとこれとは全然違うの。わたし、ちゃんとおそ松くん以外の松野君たちのことも覚えてるよ。教えてくれないなら、適当に呼ぶから」
「…めんどくさ」
そんな風に言われても、じっ、と。青はその目つきの悪い瞳を見つめなおした。
「一松」
「え」
「松野……一松。これでいいんですよね?」
松野、一松。
青はぽかん、と目の前の男を見た。彼女の知っている同じ名前の松野は、確かに冷静で物静かな人物だったが、それでも随分とイメージが変わっていたのだ。純粋に、驚いていた。
「なにその顔。ムカツク」
「え。どんな顔してた?」
「どうせ、知ってる一松より暗いとか思ったんですよね?そーです、想像のとおりクズでニートになったんです。何?それで迷惑とかかけるわけじゃないし、勝手に変なイメージで妄想して比べたりするのやめてくださいよ。気分悪いんで。それにおれって元々こういうやつだし、そんな顔される筋合いないんですよね。まあ、兄さんだけ見てるような人に何言っても無駄かもしれませんけど。どうせ、能天気に学生生活送ってたんでしょ。そんなあほみたいな女、どのみち兄さんには相手にされないと思いますよ」
一松は、一度開けた口を閉じる方法がわからなかった。同時に、青よりも先に涙が頬を伝っていた。
彼女の表情だけが悪かった訳ではない。それは単なるきっかけで、単純に、一松にとってまだ「まとも」だった学生時代を思い出され、突然襲ってきた焦燥に感情が爆発しそうだったのだ。その引き金を引く前に立ち去ろうとしたのに、青がそれを引き止めて、そしてその引き金を引いたのだ。
お互いに、足が動かなかった。そこから立ち去るにも、目をそらすことができなかった。
青は、ばつが悪い気持ちでいっぱいだった。まさか、いい年をした男を、しかも思い人と同じ顔をした人を泣かせてしまったのだから。たくさんのことを考えて、どうすればいいか考え、ああ、そういえばそろそろお昼でお腹がすいたな。などと、とんでもない結論に至った。
「ねえ、お腹すかない?」
「は?」
ぐずっ、とみっともなく出てしまったとでもいうように、一松は涙をぬぐいながらぶっきらぼうに、力強く聞き返した。けれど、顔を上げたときには、青は彼のずいぶん近くに寄ってきていて、さらに、その必死な顔で言い重ねる。
「お昼一緒に食べよう!」
「何言ってんのあんた」
「ニートなんだっけ?大丈夫大丈夫!わたし稼ぎあるからおごってあげる!ドンとまかせて!何食べたい?!」
青に泣かせた男の慰め方、なんてわかるはずもない。それどころか、そういう行為が彼のプライドを傷つけるかもしれない、ということも想像できないわけではない。それでも、彼女自身ももう頭の中が混乱していて、気遣うとか、好意を寄せいていた相手と同じ顔だったから、ということはすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。
見知らぬ他人に手を触れられるのは嫌だろう、と青は一松の袖をつかみ小道から大通りへ歩く。
「ちょっと、なんなのあんた」
「なにか食べられないものとかある?どこでもいい?男の人ってたくさん食べるんだっけ?」
「ちょっと!」
ぐいっ、と逆の手首を引かれてはじめて、青はまくし立てるような口数と男一人の力でもやっと止められるような早足を止めていた。けれど、手を引かれても、彼女は一向に袖を離さないし、後ろについている一松を見ようともしない。埒が明かない、そう考えた一松はその袖を逆に引き返し、覗き込むように青の顔を見た。
そして今度は、一松が動けなくなってしまう。
青は顔を真っ赤にして、ギュッと口を結んで、いかにも混乱していますというような顔をしているのだ。たっぷり、二人は大通りを手前にしたその場所でお互いに向き合って立っていた。何をするでもなく、数十秒のたっぷりとした時間が流れてやっと、口を開いたのは一松だった。
「……えっと、大丈夫?」
気の利いたことなんて言えるはずもない。それでも、見られた泣き顔の気恥ずかしさからか、どうにか場を誤魔化そうとする気持ちが働いていた。
「うん、ごめんね。急に」
青はさっきまでの勢いが嘘のようにしおらしく、それでもなぜだか、ちっとも一松の袖を離そうとはしなかった。混乱していることもあったが、彼女にはどうしても、そのつかんだ袖を離すことが惜しいことのように思えていたのだ。
「あのさ、さっきはおれも言いすぎたっていうか……ちょっと、かっとなってたかなって、思うんで…その、気にしなくていいですよ」
けれど、青は真っ赤にした顔をうつむかせたまま、ぶんぶん、と首を振った。
「松野くんの気に触ること言っちゃったんだと思う。ごめんね。……許してくれて、ありがとう」
一松は、彼女のそんな様子を見て、だんだんと元の調子を取り戻していた。そして、今更になって、青が自分よりも小柄で女の子なんだということをまじまじと見つめていた。その顔の作りこそ当然一松の中での最高の女の子である幼馴染には敵わないが、それとはまったく別の部分、手入れされた控えめな香りのする髪だとか、袖をつかんでいる指先だとか、あるいはなんとなく柔らかそうに見える背格好すら目に毒だった。
早く離れなければ、こんな女の子とは一緒にいられない。と、思う一方で、一松の足はその場に縫い付けられたように動けなくなっている。青には聞こえないほどの低くて小さな声で「女って……ほんと、こわ」ぼそっと、呟いてしまうほどに。
「あの、それで、改めてなんだけど……せっかくだからお昼どうかな?」
一松はため息をついて、彼女に掴まれていない手で頭を乱暴にかきむしった。青は少し驚いた顔をしたが、どうしてかちっとも気を悪くすることもなく一松の返事を待った。
「……あんまりおしゃれな店じゃなければ」
一松は、やっとそう返事をして「これを断れるなら、きっと俺は童貞やってないな」と考える。それから青の方へ視線を向けて、縫い付けられた足が膝から崩れ落ちそうなものを見てしまう。
「ほんとに?ありがとう、松野くん」
彼女は、はにかむように笑って、嬉しそうに言った。
……20160106
愛でたい女の子。
企画「Brutus」様に提出
お題「今から愛しますのでどうぞよろしく」