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夕方よりも早く日が落ちる。そろそろバイトも上がりの時間だ、と青は店のテーブルを拭いた。布巾を冷たい水で軽く洗い、要消毒の籠へ入れる。カウンターの隅で仕事をしていた店長が口を開いたのは、そのときだった。
「あの子、来なくなったね」
激戦区と呼ばれる繁華街や都心からは外れた、通好みの店が立ち並ぶ。そんな場所で儲けも赤字がやっとでないような飲食店をするのだから、店長は物好きに違いない。青は、相変わらずそんな店でバイトをしていた。
あの子、と呼ばれる相手の心当たりは一人しかいない。子、なんていわれるほど若くはないはずだが、まあでも、店長の年齢からみれば二十代前半の若者なんて「子」で間違いないだろう。
「忙しいんですよ、きっと」
笑ってそう返す。
「そうか。今度来たら、中に入ってもらっていいからね。コーヒー一杯分くらい、消えたって気づかないから」
「ありがとうございます」
青は、店長の気遣いに深く頭を下げた。心の中で。
トド松は、寒い中でも店の中に入ってくることはあまりなかった。それは、余分なお金を使わないようにしていたんだと分かっていた。そういう日は決まって、飲みに誘われたからだ。
あの日、青とトド松が分かれてから、本当にめっきり姿を見なくなっていた。確かに別れ際、いつものようにおまじない程度の縁切りをした。それがあの6つ子に通用するかどうかは、もうすっかり自信を無くしていたが、それでもこうして結果が出ている。安心もしたし、ほんの少しだけ残念にも思った。
ぼーん、ぼーん。と、年季の入った壁掛け時計の音が響いた。店長に挨拶をし、手早く着替えて店を出る。
青にはトド松があの後、何かに付きまとわれていないかだけは気がかりだった。過保護すぎるかもしれない。それでも、また同じようなタイミングに出くわせば、何度でも払いのけるために出て行くつもりだった。縁を切りたい、縁を切らなきゃ、と思っている自分の心とは裏腹だ。それでも、曲げるつもりはなかった。
十四松にとって大事な人に、悪いようにするつもりはない。見て見ぬ振りなんて、とっくにできなくなっている。
そんな風にぼんやり考えながら歩けば、家はすぐそこまでになっていた。バイト先から寝床になっている部屋まで、実はそんなに距離はない。ふと、青は自分の部屋の前に、なにか影のようなものを見た。サッと血の気が下がる。それでも、戻る場所はそこにしかない。相変わらずポケットに入っているお守りを握り締めながら、アパートの階段をのぼっていく。
「お。帰ってきた」
「姉ちゃん、おせーわ」
部屋の前に座り込んだ二人を見て、どっ、と疲れがでる。これなら、まだ厄介な変なもののほうがマシだと思った。
「なにしてんの、あんたら」
ポケットから鍵を出しながら、声を抑えて近づく。住んでいるアパートは築年数のわりに多少の防音があるが、騒がしくする必要もない。しっしっ、とドアの前から二人を追い払い、鍵を開けた。
「母さんに頼まれたから来た」
「暇だからついてきた」
青には、兄弟がいる。下に四人だ。しかも全員男。
次男は優秀で、大学を出てすぐにそれなりの会社に就職して、会うたびに成長している。コンプレックスを刺激されるわ、正論理詰めの男なので青は必要以上に連絡を取らない。三男は創造性の塊のような男だ。次から次にやりたいことを思いついては、その心のままに行動する。青の最後の記憶では、今はアジア圏を中心にアパレルの卸売りをしているはずだ。
そして、手土産片手に家に上がりこんできたのは、長男と四男。二人とも実家暮らし、長男は実家の仕事を手伝う半パラサイト人間。四男は、父方の祖父母の農業を継ぐつもりで弟子入りしている。ほんの少し前まで、青にとってはこの二人は対等か少し下の人間だったというのに、今や輝いた存在だというのだから笑い話だ。
久しぶりに顔を見た気がする。ああ、この兄弟は立派な人間なのだなぁ、なんてしみじみ考えていた。
二人は部屋にあるひとつの円卓に、コンビニやらスーパーで買ってきただろう荷物を広げる。勝手も知らないくせに、許可も取らずにあれやこれやらを使って食事やつまみを並べていった。
「うわ、酒しかないじゃん。なに食ってんの?」
もともと備え付けてある冷蔵庫を開けて、長男が聞く。
「親の金」
青は袋からひとつビールを出すと、許可も取らずにプシュっとプルトップを上げた。
「姉ちゃん、めんどくせーからそういうのやめて」

***

長男も四男も、明日もあるから、と終電に間に合うようにアパートを出た。青もそれに付き合って、三人で駅まで歩く。
「アルバイトしてるんだって?」
四男が言い出す。聞かれた青はそれに頷いて、声は出さなかった。
さっきまでそれなりに美味しい物を飲み食いしていた口から、全て戻しそうな内容だったからだ。おおかた、何を話しにきたのかなんて最初から分かっていた。だから、「厄介な変なものの方がマシ」だったのだ。
「姉ちゃんが持ってたもん全部処分して、箱一個実家に送ってきたから母さん顔真っ青にしてたんだよ。すぐにもとのマンション行ってもいないし、こんなとこ引っ越してるし」
「会社もクビになったって手紙ひとつだったし。つーか、手紙って…時代遅れすぎだろ」
四男に被せるように長男がそういった。
「もういい歳なんだし、ああいうのやめろよ。かまってちゃんかよ」
吐き捨てるように言う長男に、申し訳なさ以外の感情は沸かなかった。こんなのが姉なら嫌だろう。青自身もうんざりだった。自分のことが、だ。
「ああ、そうね。ごめん」
「携帯は?」
「ないよ。払えないし」
まじかよ、呆れるわ。四男がどんな顔をしているか、見ないでも分かる。なんだかんだ、十代の中ごろまでは同じ家で生活していたのだ。何より、他人じゃない。兄弟だからこそ。
「帰ってこいって、父さんからの伝言」
四男が言うということは、それはある意味最後通達だ。青は一人女だったこともあって、家族のうちではそれなりに肩身の狭い思いもしている。加えて、言動のおかしなところのある女が身内ということで、思春期から、おそらく今でも、あまり良く受け入れられないのは四男だろう。学校でも嫌な思いをしたはずだ。青はそれを良く知っている。
家に戻ってこられたくないのは、この二人だろう。
二人は、特に長男は。もしも姉がお見合いでもさせられて、婿養子をもらうことにでもなるかもしれない未来を想像もしたくなかった。姉にとって、その可能性は一番ありえない未来だと分かっていても、だ。どうなるか、なんて分からないもんだ。
「帰らないって伝言しといて」
「自分で言えよ」
内心胸をなでおろしながら、長男は呆れている風を見せた。
「それ、そっくりそのまま親父に返すわ」
青は、駅構内で二人を見送ることにした。
姉のことは昔から、理解できないと諦めていることもある。今では、幼少の出来事で傷ついた人間なのだ、と割り切って姉を見てはいる。それでももう、お互いに成人はとっくに過ぎた。過干渉しあう年齢でもなければ、そういう仲良しこよしな兄弟をしてこなかった。
長男が切手を買いに行っている間、四男がぼそり、青に聞く。

「病院、行ってんの?」

なんの病院か、聞き返す必要はなかった。
「ん?いや。……大丈夫、家には帰らないって」
「…いや、そうじゃないんだけど」
そのまま、長男が戻ってくるまで会話が進むことはなく。最後まで何か言いたげだった二人は、結局何も言わずに帰っていった。
改札の向こうで電車が何本か行き過ぎるのを見て、吐き出しそうにひっくり返った胃も、硬くて重かった口も元に戻る。嵐は去った、まさにそうだった。
「いかねーよ、病院なんて」
というのが、青がさっき心の中で返した返事だった。
「家にも、死ぬ以外で帰る選択肢ねぇから」
話が続けば、口が鉛のように重くなければ、昔一緒に喧嘩していた年頃なら、そう返していた。青はきびすを返して、マフラーに深く首をうずめた。部屋に帰れば、散らかったままの食べ残しを片付けなくてはいけない。
「四人も男がいるんだから、さっさと結婚して子供つくっちまえばいいのに」
ずいぶん酔いが回っていたし、何より、四男の最後っ屁のような一言が脳みそから離れなかった。口汚く罵らなければ、みっともなく泣き出しそうだった。
「孫でもできれば、親父も母さんも少しはできの悪い娘のこと忘れられんだろ。不能かよ、くそ兄弟」
自分に跳ね返ってくる言葉を並べ立てながら、街頭の明かりしか見当たらない通りを進んでいく。今ならいつでも、死んでいい気分だった。
踏切があれば、飛び込んでいた。ビルの高層一番上から飛び降りれた。先のことを考えるくらいなら、葬式のことを考えるほうがマシだった。
青が悪態をつきながら、酔いに任せてぼんやりしてたからだろう。後ろから足音がついてきているのに気がついたのは家まであと少し、というタイミングだった。
「結構口がわるいところあるんだ」
それでも突然後ろからかけられた声には、驚かなかった。本当に驚いたのは、振り返って睨み返した相手が、まさかこんなところで会うとは思ってない人だったからだ。
目を凝らしても、幻覚には見えない。ただ、よくよく眺めても分からないことがあった。

「何松さんですか?」
「だから、おそ松だよ!!」

あ、おそ松ね。
……20150110

DODO