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既視感。
圧倒的、デジャビュ。
青は眉間に指をあてる、というありきたりなポーズに逃げたくなるほど目の前の光景を受け入れられない。さっきまで嘔吐したくなるほどの兄弟二人がいたその場所に、今度は平然と座っている他人がいる。
松野おそ松。この男の恐ろしさを、正しく初めて理解した記念すべき瞬間だった。
銭湯帰りだったおそ松は、あれよあれよと青の家の場所を聞き出し、更にはたった今まで飲み相手がいたことも、部屋には酒が残っていることまで嗅ぎ当てると、あとはもう、ごらんのとおりという結果だ。
「怖すぎる…ホラーだ……」
「え?なんかいった?」
さすが十四松の分身といったところか。いや、おそ松の分身が十四松なのか。だとすれば、ここまで濃度が高いというのも頷ける。クズの濃度が、だ。
とはいえ、甘い酒やら一人で処理するには残りすぎた食べ残しを片付けてくれる、というのなら甘んじてもいいのかもしれない。どうせ、親に引越し先の話をした時には、兄弟がやってくることも、いつかは誰かにバレるだろうことも視野に入れていた。視野に入っていた結果だとしても、それがあまりにも昨日の今日過ぎて、青はやっぱり頭が痛い。
テレビもラジオすらない、面白みもない部屋だというのに、おそ松は酒一本で楽しそうな顔をする。それがただ唯一、しかたがないか、と甘んじられるところだった。
ビールは買いだめも合わせれば、まだまだ残りがある。部屋は久しぶりにつけたエアコンが、部屋の寒さをマシにしていた。カビがきていないのは運がよかった。
おそ松と青がつまみや食事をとる音と、エアコンのそれ以外は時々交わす会話が聞こえる程度の広くない部屋。もしも、他に見ている誰かがいれば、その異様さに少しも座り続けられないような場所でも、二人は全くそんなことは気にしていなかった。ここひと月ほどのお互いの周りで起こった話を出し合う。ほとんどはおそ松のギャンブルトークばかりだったが、青にとってさっきまで同じように話をしていた兄弟の近況より、ずっと楽しい内容だった。
山のように残っていると感じたつまみも、残りが少なくなってくる。青の持っているデジタルの腕時計が、二人の気づかないうちに次の日へと踏み込んだ。そのとき、おそ松は何の前触れもなく、その話題を出してきた。
「最近、トド松と会ってたこと知ってるよ」
おそ松がそう言い出したので、青は少し驚いた。仰いでいたビールの缶が、少し動く程度。
「ふーん」
それは、他意のない言葉だ。トド松と会っていたことをおそ松が知っている、という事実は青にはその程度の驚きしかない。悪いことでも、良いことでもないかもしれないが、少なくともそれを指摘されて後ろめたいことひとつない。
「トド松がバイト代引っさげて、お兄ちゃんより先に!青と飲むのに使ってんだぜ〜?ふーん、はなくね?!」
「いや、奢ってもらってたならともかく……」
青はトド松に一度も奢って貰ったことはなし、しっかりワリカンしている。おそ松が悔しがる要素がない。
「え?奢ってもらってんじゃないの?」
「貰ってない」
「一回も?」
「一回も」
「あ、そうなんだ。じゃあ、なんかどうでもいいかも」
ほらね。
青は呆れて、もう何本目かの缶を空にした。安いアルコールを流している毎日だったので、それなりに財布が厚い兄弟が買ってきたお酒は美味しいものばかりだった。ただのビールじゃない、プレミアムという冠詞がついたもの。
「飲みにいってたのは、どうでもいいや」
かこん、と。おそ松は同じように空にしたビールを机の上に置いた。そしてすぐに、次の缶を手に取る。
例えば。部屋の中に圧倒的にものが少なすぎることも、チラリと見えた開けられた冷蔵庫の中身がほとんど空だったこと、電波を発する機械がひとつもないこと、布団もない。床にそのまま寝ているのがわかるような少し厚手の毛布。
おそ松は色々なものを目にしたが、気づいたことはたった一つに止めた。
「引っ越してきたばっかりなんだっけ?」
うん、と青は頷いた。
少し酔っているようにも見えたが、これだけ空けられた酒があって、さらにその少しも落ちないピッチから考えれば、酒には相当強いらしい。おそ松は、ほろ酔いになりながら、そんなことをぼんやり考えた。
「話しましたっけ…?」
「この前、少しね。兄弟がいることと、でも、そういえば青って他にはなんも話してないかも」
あの日、十四松に引きずられて初めて訪れた松野家。そこでおそ松と再開して、少しの間色々な話をした。と、おそ松は思っていた。でもそれは、よくよく思い出すと、ほとんどがおそ松自身の話ばかりで、彼女の身の上の話で細かいところは何一つ聞いていなかった。
「青って変だよね」
おそ松は、しみじみ、肩をなでおろして呟いた。
わざとらしい程に優しい言い方で、青はすぐに、その口が本当に話したいことはもっと別にあるのだと確信する。それは、トド松と飲みに行っていたことだとか、この部屋の異様さだとか、そういうことじゃないだろう。同じ、一番上の「子供」だからだろうか、考え方が似通っているのはお互いに自覚があった。
「そうかもね。よく言われます」
青もおそ松の調子に合わせて、わざとらしいほど大人しく返事をした。
「まじで?なんか、ごめんね?」
「いや、思ってないでしょ」
おそ松は「うん」と言って笑う。ひとしきり笑って、つまみを口に入れて、租借して、さらにそれを新しいビールで流し込んで「だって」と言った。
「だって、なんかそれわざとでしょ」
わざと、変な風にしてるんでしょ。と、悪びれなく言われたのだ。
青は、それでも何も感じなかった。散々言われなれてきたことだからだ。それに近しいことは、ついさっき、駅で兄弟にまで言われている。
こういう話題に「そんなことないよ」とか「あなたには分からないくせに」と返すのは、頭がオカシイと自負する自分にとって全く意味のないことだ。と、青はよく知っている。伝わらないことに労力を費やすることは、やめたのだ。ずいぶんと昔に。
「わざとといえば、わざとなのかも。昔からそういう子供だったので」
「いや、そうじゃねぇし」
ばっさり、切り取られる。
青は少し驚いて、くちゃくちゃ、とイカの足を租借する、目の前の男に目をやった。
「そうじゃねぇし!全然ちがいますー。馬鹿?話聞いてた?」
「え?……んん?」
おそ松の言いたいことが汲み取れなかった。「そんなに飲んだっけ?」と、首を傾げてすっとぼけるほどに。
「違うから。そりゃ、変だなって青の言いたい意味で思うときあるよ?でも、違うんだよ。そうじゃなくてさ、だって、お前……」
じとっ。と、日陰から獲物を逃がさんと見つめる蛇のような、そんな目をしたおそ松。
責められるにもみえる目は、青から何かを聞き出すまでそこから微動だにしない姿勢すら感じる。そのうえその口は、彼女の両耳がふさがれないのをいいことに、聞きたくもないことを流し込んだ。
「十四松とあんな別れかたしておいて」
トド松と、平気で会ったりできるんだもんナ。と。
「それは……」
「いや、まあ、何かあったんだとは思うけど。中途半端でしょ、お前」
「…そう、なんだけど」
「お前がわけ分かんない一方的なサヨナラしちゃって、十四松ずっとおまえ探してんのよ?まあ、最近は落ち着いたけど。だから、もう関わんないならそれでいいかなーって思ってたら、今度はトド松?なんなの?暇なの?」
「暇では、あるけども……」
「だよね、ニートだもんね。仲間。で?それで?」
それで、って。
青は立て続けに聞かされた言葉に衝撃を受けて、勝手に傷つくのが精一杯で、おそ松が最初から欲しがっている「答え」を考えることができなかった。
「それで、青ちゃん。もうおれ達と係わり合いになりたくないなら、ちゃんとそうしろよ」
係わり合いになりたくない。
それは、青の一本芯に通ったものだ。そして、おそ松の言うことは正しい。なのに、どうして「わかった」の一言が出せないのか、分からなかった。
分かっている、と分かりたくなかった。
しばらく、さっきまでの沈黙とは違う、どうしようもない時間が流れる。その間もお互いに、飲む手が止まらなかった。おそ松は青の返事を待っていたし、青は必死で返せる言葉を捜していた。
とうとう、どんな答えも見当たらない。それでも何か話さないと、と青が口を開いたのと同時に、おそ松が茶化すような空気を取り戻すように言った。
「おれ、それが言いたくて結構青のこと探してたんだけど。会えてラッキーだったわ」
***
結局、青は何も答えなかった。
俺が朝早くに玄関を出るときも、何か思いつめたようにしていたが「他人」にかけられる言葉なんてこれ以上ない。何を深く考えるようなことなのか、おれにはサッパリわからなかった。
だから、そうして思いつめた表情をさせたことが、むしろ少し、申し訳なかったと思う。だっておれ、男の兄弟しかしねーし。幼馴染の女の子は、こんな青みたいなのとは随分かけ離れた女の子だし、なんて言えばいいかわかんねーもん、おれ。
「あのさ」
玄関先でいい、と見送ろうとする青を押さえるように、俺はその難しいことばっかり考えてそうな頭をぐりぐりと引っ掻き回した。
「いつでも、またウチに遊びにこいよ」
なんせ、全員ニートだから。
と、そういえば、やっと少し青が笑ったのが見えた。おれも、さっきよりはずっといい言葉を言えた気がして、朝の道を気持ちよく帰宅したのだ。
……20160112