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黒い顔。
私にとってそういう人たちがいることは当たり前で、子供のころは一度も疑問に思ったことはなかった。人を区別する方法は顔だけじゃないから、声がわかれば、仕草をよく見ればなんとかなる。実際、もともと人の顔を上手く覚えられないほうなので、どのみち人の顔なんて区別なんてみんな出来ていないのだと思っていたのだ。
黒い顔の人たちが、よくないものを寄せやすいということ。そして、黒い顔の人たちが短命だと知ったのは、祖母がなくなってからずっと後のことだ。
あの日。その人のことを見て「ああ、もう危ないな」と直感的に感じたのだ。その直感だけの正否を問うなら、わたしは間違いなく見切っていたと思う。でもわたしは、同時に少し慎重さを欠いていたのだ。あれは私の失敗だった。
二度と取り戻せない、誰にも言い訳の出来ない、どうしようもない過失だった。
***
夢を見た。
それは、仕事をやめざる終えなくなったきっかけでもあり、わたしの中に影を落とす最大の理由だった。私のとった行動は結果的に会社に大きな損失を与えただけではない。それだけだったら、責任を負わされることはあっても辞める必要までには迫られなかっただろう。
あのとき、あんなことをしなければ。
と、今になって考えても仕方がないことだ。思い出さないようにしていたのに、昨日、間近であの黒い影を貼り付けた顔に会ったからだろうか、夢にまで見る羽目になるとは思わなかった。
「起きよう……」
机の上に投げている時計を見ると、朝もずいぶん早い時間だった。夢に無理やり起こされて、もう一度寝ようという気にもならない。仕方がないので、とりあえず顔を洗って歯磨きをしよう。それから、お手洗い。お酒を飲みすぎてしまった。1DKの部屋をのっそりと移動する。
シンク下に溜めてある二リットルの水のペットボトル、それを一本取り出して、シンクの脇から倒して水を流す。勿体ない?もう、そんなことちっとも思わない。ある程度は水が出続けるので、それで顔を洗って、今度はコップに水を移して歯磨きをする。しゃこしゃこしゃこ、あたまに響くブラシの音で更に目がさえてきた。ふと、シンク台の横を見ると、空になった二リットルのペットボトルがゴロゴロ転がっている。一日大体、一本から二本、こうやって使い切る。その度に外に買い足し、時々お酒も買って、家に帰る。それが、つい数ヶ月前までの私の日々だったのに、いつの間にか外に出ることを差ほど疎ましく思わなくなっている。それどころか、バイトまで始めてしまった。私が学習しない生き物なのか、学習したからこそ変わったのか、それは分からなかった。とにかく、そのゴロゴロと空になったペットボトルを見て、なんとなく久しぶりに『採りに』行きたくなった。そうと決まれば、と手早く用意を始める。とはいっても、いつもどおりの似通った格好にしかならない。違いといえば、大きくて頑丈なエコバックひとつに空のペットボトルを詰め込んだ荷物があることくらい。靴はいつもの履きつぶし用ではなくて、皮のブーツにした。この二足しかないんだけど。
「あ、そういえばトイレットペーパーも買い足さなきゃなのか…」
トイレの戸をあけて、思い出す。余談だけれど、わたしがこのアパートを選んだきっかけは、お風呂場とトイレがセパレートになっているからだ。
***
意外と知られていないかもしれないが、都内にも水が取れる場所、というものが結構ある。これがなかなかいい湧き水がもらえるのだ。タダで。
というわけで、住んでいる地区から然程遠くない場所を目星にして、水を汲んだ帰り道。ペットボトルも思ったより数があったので、腕がもげそうになりながら家に帰る道を歩く。時々、誰もいないバス停の椅子を借りて休憩して、それからまた歩く。元々水代がかかるところがゼロになるのだと思えば、多少の辛さは我慢できる。昔は、東京ほど都会ではない街に住んでいたこともあって、父親がよく水を取りに連れて行ってくれた。私に影響されてか、家族のほとんどは水に関して結構な通にまでなってしまった。申し訳なさ半分。でも残り半分は、家族がわたしの性質を決して一度も拒絶しなかった嬉しさだった。
ただ、言い方を変えるなら、わたしは社会に出てからしなくていい苦労を人一倍しなければいけなかった。理解されないこと、はっきりと説明できないこと、証明ができないもの、それらをそこではじめて知ったのだ。学校という縮小された社会の中ですら、何度もすれ違いや勘違いを起こし、果ては友人と呼べる人はとうとう一人も出来なかった。
『十四松と友達になってくれたんなら、ありがとうね』
結局、最後に分かれるあの日まで一度も、わたしは十四松さんに『友達だよね』なんてことを確認しなかった。十四松さんもそうだ。説明するのは難しいが、確認する必要はない、とお互いに思っていたと思う。同時に、確認するようなことじゃない、と言い聞かせてもいた。
あの人は、真っ直ぐな人だけれど、言葉足らずな人だ。真っ直ぐ伝えているように見えて、本当はなにも伝わっていないような人。でも、他に伝える言葉を知らないのだ。他の伝え方では、気持ちが伝わらないような気がするんじゃないだろうか。わたしは、そこだけはずっと最初から、よく理解できていた。
わたしは、今更すぎるとりとめもないことを考えながら歩いた。流石に手荷物の重さもあってフラフラとしながらだったが、何度も言うように、今更周りの目なんて気にもならない。注意力散漫だった、と思う。
目の前に突然現れた人と、強かにぶつかってしまったのだ。わたしは水のペットボトルと一緒に地面に倒されるのを感じながら「ああ、またか」と目を閉じた。
嫌な予感はしてた。
でも、名前なんていくらでも被ることはあるし、それがたとえ珍しいものでも運が重なればありえることだろう。そう思うことで、エンカウントした、なんて数えなかった。それでも、念には念を入れて、ちゃんと「握手」をする「縁切り」はしたのに。
『カラ松』さんにはそんなおまじない程度では効き目がないだろうな、ということは分かっていた。
「すまない!大丈夫か?……って、あれ?」
「…大丈夫です。私も少し、上の空でしたし」
わたしの手をとって立ち上がるのを手伝ってくれる、ぶつかった相手。革ジャンの背中に髑髏のマークを背負っているのが、わたしには笑えないジョークに思える。
それにしても、陽の下で見ると、なんてそっくりな雰囲気を持ってる兄弟なんだろうか。
(髪型が分かりやすい、ってのもあるけど)
疑いようもなく、あの6つ子だと聞いている最後の一人だった。わたしはとうとう、コンプリートしてしまったらしい。
「カラ松さん」
「えっ?あっ、どこかでお会いしましたっけ?なんか、見覚えあるなとは思ってるんですが」
「……いや」
昨日の夜のことなのに、忘れられてる。ということは、私が出来る範囲の縁切り自体はまあまあいつもどおり、おおむね成功していたんだろう。自分で言うのもなんだが、全く頭のおかしい話だ。
「あ!昨日の!」
(わー。思い出しちゃった)
「ッフ。ここで会ったということは、運命のいたずら……ディスティニートリック」
「そうですね」
全く、運命に神様がついていたら、こんなことで遊んでないでもっと別の仕事をしろ、と言いたい所だけども。
「ところで、カラ松ガールズは何をしてたんだ?そのか弱い細腕に似合わない実にヘビーな荷物を持っていたようだが」
「いえ。水を運んでいただけです。ぶつかってしまって本当にすみません」
わたしは頭を下げて、落としてしまった袋を拾い、袋からこぼれたペットボトルを入れた。
「それならどうだろう、俺はたった今自分の虚しくも宛のない体を持て余していたところさ。なに、カラ松ガールズの為なら、いくらでも差し出す覚悟は出来てる」
「ああでも、家もすぐそこですし。お気遣いありがとうございます」
「そっ、そうか…」
「……じゃあ、ほんとうにすぐそこなんですけど、お願いしてもいいですか?」
「ああ!心配には及ばないぜ!」
カラ松さんがあまりにもあからさまにションボリされるので、つい、とっさにお願いしてしまった。顔も見えないのに、どうしてそんなに分かりやすいのこの人。
わたしは相変わらず黒く靄のかかった顔を見ることが出来ないので、目を合わせようがなく、始終挙動不審だったはずだ。そんな奴に手を貸そう、だなんて良心をそうそう無碍に出来るほど意志の強い人間じゃない。
「あーあ。おそ松さん、ごめんなさい……」
この期に及んで弁解するなら、わたしは本当に、あなたたちとはちゃんと縁を切ろうと決心しかけてたんですよ。と、自分でも嘘か本当か分からない言い訳をしつつ。
「ん?いま、小鳥のようなさえずりが聞こえたが?」
「いえ、ちょっと疲れたなって思っていたので。とても助かります」
颯爽と荷物を持ってくれるカラ松さん。顔を見れなくても喜んでいるのが分かる。だからわたしは、その時だけは、これから起こるだろう事になんの憂慮もしていなかった。
……20160120