>[レ]
俺は、何をやってるんだろうか。
今日はいつも通り忙しない予定ひとつない穏やかな一日だったはずだ。今日という道半ばで出会った女性が顔見知りで、ただ快く俺の優しさを分け与えただけだ。
それなのに、彼女が突然おかしな行動をとり始めた。
大量の水が入ったペットボトルはもうこの際気にはならないが、家まで荷物を届けるという流れでどうしてこうなった?
しかし、俺がこうして正気、もとい冷静さを取り戻すのに時間がかかったのにはわけがある。ほとんど始めてしっかり握られた女性の手。自分の手よりも明らかにやわらかく、細く、一回りは小さいそれ。彼女の為すがままに流されようと思ってこんな状況に陥ったわけではない。強いて言えば、彼女の巧妙な罠によって俺はここまで誘導されたのだ。
そう、だから。ここがどことも知れない山の中でも、俺にばかり非があったわけじゃないのだ。
辺りはまだ暗くはなっていないが、かなり背の高い木の多い森だ。鬱蒼としている、とはまさにこういう森をいうんだろう。右手には重い袋、革靴を履いた俺には、登山用だと思われるブーツを履いた彼女の足に追いつくのは大仕事だった。そうでなくとも、こういう場所には慣れている様子の彼女は、ひょいひょいと先を進んでいく。彼女の両腕に錘のようなペットボトルが抱えられているのが、嘘にしか思えなかった。時折、後ろの俺を気遣うように声をかけてくれるが、当然女性に疲れなど微塵も見せられるわけがない。
息をついて顔を上げた瞬間、彼女の姿が見えなくなって焦りが出る。慌てて追いかけた先は、少し広い敷地になっていた。どうやら、小さな神社に出たらしい。彼女は、手水舎の下で手を清めているようだった。ついでに、喉も潤している。俺もそれに倣って彼女の横に並んだ。
「ああ、そうじゃないですよ」
柄杓で雑に手を流した俺に、彼女は丁寧にやり方を見せてくれた。はじめて、正しい清めの方法を見た。手馴れた風の様子を見よう見真似にして、たどたどしく順を追っていく俺。なんとなく、神社にはよく来るのか、と聞いてみる。
「そうですね。昔ほどじゃないですが」
俺が喉の渇きを潤している間、彼女は重いペットボトルが詰め込まれた袋を手に、境内の石段に腰を下ろした。神主のいない神社なんだろうか、俺たちだけしかいないこの空間が流石に異様に思えてくる。
しかし彼女は、ぼうっと座ってばかりで、何かを考えているようにも見えたし、ただ疲れを癒しているだけにも見えた。
彼女はおかしな人だと思う。だが、おれにとってそれは、別にどうでもいいことだった。この状況で知りたいことといえば、どうしてここまで連れてこられたかということくらいで、それもここに来てしまった以上直ぐにでも聞き出したい事情じゃない。
というか、お腹がすいたからさっさと帰りたい。マミーの晩御飯に間に合わなければ、一晩腹の虫と戦う羽目になる。それは避けたかった。
「おれは、帰ってもいいんだろうか?」
彼女は俺のほうをチラリ、と見た。それから、何もいわずに黙っている。長い間といっても過言ではない間、彼女は目を凝らして俺の顔を見続けるだけだ。たじろぐしかできない俺に、彼女はやっと口を開いた。
「わたしが何も言わずに振り回して、そんな暢気にしていた人はあなたが初めてです」
「そ、そうか……」
そうかもしれない。ということは、おれはもっと早い段階で彼女に抗議してよかったんだろうか。どの道、くどいようだが、ここにいる以上後の祭りだ。
女性をここに一人置いて帰るわけにもいかず、帰り道もわからない以上、彼女がどう動くかだけが頼りなのも間違いない。俺は、彼女と同様、少し距離を開けてその石段に腰を下ろした。
「静かだな……」
「なにも聞かないんですね。それは、助かるんですけど」
それは聞いていいということだろうか。だが、おれは聞きたいことが大して思いつかないのだ。家に帰してくれるかどうか、はさっき無視されてしまったし。
「ふっ。女性と二人で逃避行、というのも悪くない。人生には予期せぬ事態はつきものだからな」
「変な人だな〜」
いや、あんたに言われたくない。
彼女はやはり、おれの顔に何かあるようにジッと見つめてくるが、それはその視線に目を合わせることはできなかった。ただ、居心地の悪さをごまかすように視線を泳がすしかない。それでも、どこかで落としてしまったらしいサングラスがあれば、もっとかっこよくキメられたかもしれない。
そういえば、俺は彼女の名前を知らないな、と思い当たる。それくらいは聞いてもいいだろうか。しかし俺が口を開く前に、彼女が話を振ってきた。
「さっき、カラ松さん演劇部だって言ってましたよね?」
「え?あ、ああ。なにせおれはかつて演劇におけるチャイルドオブゴッド、神の申し子と言われた男……」
どこからその話題になったんだ。だが、肌寒いこの場から時間を動かすのに、その話題に乗らないという選択肢は存在しなかった。
彼女は、俺の返事に満足したようにうなずいて、それから神妙な顔で口を開いた。というか、少しいたずらっぽい顔だったと思う。おれはそういう顔を、よく見てきたから知っている。
「そうですか。……実は、わたしもそうなんです」
「なに?!」
「そしてこれは、わたしの一世一代の役者としての人生がかかっています。騙されたと思って、わたしの演技練習に付き合ってくれませんか」
まさか、そんな大事だったとは。ここまで振り回された気になっていたが、彼女にとっては大事な練習だったのだろう。あの会話の後にここに連れてこられたことを考えると、なるほど、少々強引だったが理由になっている気がする。
それなら、選ばれた俺としては、喜ぶところだろう。
「ああ!もちろんだ。俺にできることなら、どんな役でもこなしてみせる」
「それじゃあ、わたしは、いま少し厄介な敵に追われています。そして今日は、家に帰らなくちゃいけない」
なるほど。シチュエーションも申し分ない。ホラー、いやこれはどちらかと言うなら。
「サスペンスか」
彼女は、一つ頷いた。
「あなたは、わたしのことを誰にも話してはいけないし、聞かれても答えてはいけない。私が今から渡すものを、肌身離さず、十四松さんにも気づかれずに、持っていてください。寝ているときも、ずっとです」
ん?
「十四松にも…いや、十四松のことを知ってるのか?あんたは、一体…」
「いい演技です。私のパートナーに相応しいですよ。確かにまだ、配役とその役名を教えていないのはまずいですね」
大事なことをごまかされたような気がしたが、大仰なその身振りから何も伺うことはできなかった。彼女は本当に役者なんだろう。でも、俺の知っている「演者」とは少し様子が違う気もした。
ただ、それ以上考える暇も与えないように、俺の役が振り当てられる。
「松野カラ松。あなたは一般人で、でも少しおかしなものを寄せてしまう人間です」
「おかしなもの?」
「それは、勝手に想像してください。でも、そうですね。それは、あなたにとって致命的で、そして捕まればあなたの兄弟も危ない。というものにしておきましょう。緊迫感、大事ですから」
「……」
ここまでの説明を頭の中で整理しようとしたが、混乱しているのか、何が本当でどこまでが彼女のシナリオなのかわからなくなってきた。おれが口を挟む間もなく、続けざまに嘘とも本当ともわからない話が続く。
「そして私は青。一般人で、精神を病んでいて、あなたを振り回しています。あなたはそのおかしなものから逃げないといけないが、目の前の頭のおかしい人間の言うことを鵜呑みにしてもいけない」
「は……」
それはまるで、今までの彼女の様子そのものだ。
だが、彼女が本当におれを突然巻き込んだとして、その役は一体いつから始まっていたんだろうか。それだけじゃない。俺は、彼女の名前に聞き覚えがあった。
「演技は始まってますよ、カラ松さん。―――あなたはさっきから、私があの『おかしなもの』から守ってやるというのに、どうして着いてこようとしないんですか」
「いや、そんな……えっと、……」
「台詞!」
「あ、はい!……お、おれは、一度家に帰りたいんだ…?」
「あなたの命がかかっているこの状況で?!あの化け物が見えないから、あなたはあんなに暢気にしていられるんです!あなたはただでさえ取り付かれやすい人間だ。あれそのものがあなたを殺すことはないが、あれに取り付かれたら、あなたのもともとある生きるための幸運は全てなくなります。そして、死ぬ」
「死……」
迫真、それに尽きる。そして、彼女の演技の賜物だろうか、その言葉に嘘一つ見当たらない。死、という言葉がシナリオにしては重く聞こえた。
「それでも帰りたいんですか?おめでたい頭ですね。あのおかしいものだけじゃない、あなたとお友達になりたいやつなら、そこにも、あそこにも、こっちをみてる。こういう山はね、そういうのに事かかないんですよ。でもね、お陰でお互いがお互いをけん制しあっていて均衡が取れている。だから、そういうところに外部から急にきた『おかしのもの』はすぐには追ってこれない。けれど、それもほんの少しの間だけ。ここを出れば、すぐに追いかけられる。それでも帰りたい?」
「……ああ」
この役、『松野カラ松』ならそう答えるだろう。そして、シナリオはこれであってるはずだ。
彼女には本当に何も見えてないんだろうか。それにしては、いやに的確に場所を指し示す。いや、それだけやはり、演技にのめりこんでいるということなんだろう。俺をこんな風に混乱させるほどに。
「――それなら、仕方がないですね。わたしは十四松さんに大事な約束を作っていますし、それを破りたくない。なので、これをもって帰ってください」
また、十四松。
しかしそれよりも。広げるように促された手のひら、そこに乗せられたものに意識を奪われる。
その感触には覚えがあった。
ついさっきまで、手を繋いでいたそのときに、俺と彼女の手のひらの間にあったものはこれだったのだ。
お守りのようだった。ずいぶんとくたびれた着物の切れ端のような布と、皮ひもがついている。微かに匂いがあるかもしれない。
「これは?」
問うように搾り出した俺の声は、震えていた。
シナリオの流れか、彼女の迫真の演技か、そのお守りはこの雰囲気を一層真実味のあるものにした。
「誰にも話してはいけないもの、です。見られてもいけない。大事に肌身離さず、持っておいてください。無事に家に帰る。そして、家族の誰にも、私の話はしてはいけません」
彼女は、上手いのだ。自分の土俵に相手を引き込んで、そのまま乗せることが。
「ちょっとまってくれ、意味がよくわからないんだが……」
「わかる必要なんてない。あなたは、今からまっすぐに家に帰って、そのままいつもどおりにする。ただし、このお守りを肌身離さず、持っておく。それだけです」
「ちょっと待ってくれないか。俺にも聞きたいことがあるんだ」
そうは言ったが、何を聞けばいいのかは分からなかった。
どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだろうか。ただ、彼女が十四松と知り合いであることだけははっきりした。そして、彼女の名前青に聞き覚えがある理由にも、思い当たった。
それなのに、彼女は相変わらず俺に余計なせりふを言わせちゃくれなかった。
「言ったはずです。わたしは頭のおかしい精神病患者です。まともなことを聞きだせると思ってるんですか?あるいは、この手の人間が逆上してシナリオをめちゃくちゃにしたいならそれでもいいですが」
役者としては、どうですかね。そう、笑って。
彼女が本当に役者だとしたら、素晴らしいドラマを演じるだろう。たった今、おそらく台詞ではないその言葉を、まるで台詞だと錯覚させるように喋るのだ。泣きそうな顔をして、辛そうな様子で。
俺に、そこまでして完成されたシナリオをめちゃくちゃにする勇気なんてない。そして、しては駄目だということだって、よく分かっていた。
だから、俺は彼女のシナリオに乗るように「ありがとう」と、そのお守りを預かってポケットに詰め込んだ。
「この道を行けば帰れるのか?」
手招きをする彼女に従って鳥居の近くまで行くと、そこには麓まで続くような道が見えた。整備されているようなものではないが、少なくとも登ってきたときよりはずっと楽に帰れそうだった。
「帰ったらちゃんとお風呂入ってくださいね。できれば、帰る前がいいんですけど」
「それも、シナリオなのか?」
彼女は何も言わなかったが、その目が「そうだ」と言っていた。
「わかった。それじゃあ、また」
「はい。帰り道は、気をつけて」
彼女が手を差し出すので、おれはそこに手を合わせて、握手をして離した。やっぱり、女性の手、だった。
道を行く俺の背中を見送るように、彼女はずっと鳥居のそばに立っていた。俺は、それを二度三度振り返って確かめては進んだが、とうとう鳥居の上ほどしか見えない場所まで来て、走るように森を抜けた。
『松野カラ松』ならそう演じるだろう、そう思ったのだ。
……20160205