>父さんが連れてきた家庭教師と、初めて会った日。
わたしはその人の事を、とても奇抜な変わり者だと思った。相手は相手で、学校に行きたくない子供なんて、と思ったに違いない。
今でもそう思ってるのかは、聞きもしないから知らないことだった。そんな人じゃないとは思うけれど、私自身がわたしのことを、そう思ってるんだから仕方がない。

「で、決まったのかよい?」

最後のプリントの採点をしながら、家庭教師のその人は聞いた。マルコ、という名前の彼は、出会った時と変わらず、ちょっとユニークな髪型をしてる。
「うん。博物館に」
「そうか。エースは…まぁ、あいつは好きな場所だろうが、ルフィはなんだって?」
結局、最後の嘆願も空しく、海には行けないことになった。何しろ、その日の天候は雨。エースくんは、ほらみろ、という顔でルフィを丸め込んだ。
「ルフィは図鑑も好きだし……。そんなに嫌そうには見えなかったけど…」
でも、マルコさんですら考えてしまうくらいだから、本当はやっぱり、ルフィには楽しくないのかもしれない。
「そうかい。ま、静かそうな場所は避けて生きてそうだしな…行けばまた、案外気に入るんじゃねぇかい?」
「そうだと、いいな」
わたしの図鑑を楽しそうに眺めては、その眺めているものがある場所に簡単に「行く」と言ってしまうようなルフィのことだから。きっと、博物館を嫌いになんてなるはずがない、とわたしはいつも思っていた。わたしが好きな場所を、ルフィが気に入ってくれると嬉しいと思う。
ルフィに認めて貰うことは、わたしの中で大きな力になることを、もう随分前から知っているから。
「で、エースとルフィと…オレと」
「マルコさんと?」
驚いてその顔をまじまじと見つめれば、眼鏡をかけた瞳の奥がニヤニヤと笑った。
「なんだよい?都合でも悪いか?」
「そ、ういう意味じゃなくって……。聞いてなかったから、驚いただけ」
マルコさんは、ときどきすごく意地が悪い。わたしは、そういう時だけこの人が苦手だった。
それから、もう一人。昔っから、わたしをからかっては面白がる人がいる。
「サボもだったねぃ」
「え…!」
そう、この「サボ」という男の人。というか、ルフィ曰く、ルフィがエースくんとおなじくらい兄弟だと思っている、その人。頭もよくて、器用で、笑顔は素敵で、モテるという噂を街の小さな塾でも耳にするくらいの人。
が。
「お前、ほんとサボの事苦手なんだなぁ…」
わたしは、とっても苦手なのだ。
あの人は、わたしがエースくんを好きなことを知っているし、ルフィと兄妹みたいに仲が良い事も知っている。小さい時、エース君が唯一仲良くしていたのも、サボくんだった。
「そんなに嫌なところがあるヤツじゃねぇと思うが」
「いや、そもそもイイヒトっていうのが…こう、だめで」
そもそも、実際にからかわれたりした記憶があるので、今がどうであれ構えてしまうのは仕方がない。まさしく、防衛本能が俊敏に働いてくれるせいだった。
「ま、あいつはあいつで、おまえが可愛いんだろうよい」
「嫌われてないのは、嬉しいけど……」
そもそも、ご近所さん、というだけで付き合いが深いエースくんやルフィとの関係がおかしいのであって、ただ知り合いというだけでそうそう話なんてするはずがない。
「そういえば、お前」
マルコさんが、採点の終わったプリントをチェックし終えた時。
変えられた話題は、今度のドライブの話とは全く違った。
「だいぶ、普通に生活できるようになったんだってな?」
わたしは本当につい最近まで、人の集まる場所も、ただ外に出ることも、なかなかままならない調子だった。眩暈や立ちくらみに似た症状が出たり、緊張で心拍数が上がったり、過呼吸になったり。
それもこれも、自分自身が抱えていたコンプレックスを、直視できなかったのが大きな理由だったと思う。
マシになった、という自覚が無いわけじゃなかった。
「そう、かな。誰から聞いたの?」
「……お前の父親だよい」
つい先日帰ってきたばかりの父は、もうマルコさんと会っていたらしい。
仕事での面識もあるだろうから、時々顔を合わせれば話をしていたのかもしれなかった。わたしは、父さんがそう感じてくれているのを、素直に嬉しいと思えた。
「心配ばかりさせてるから、わたしは…早く迷惑がかからないようにしたいんだよ」
わたしが、こんなに素直に話をするのは、マルコさんがわたしにとって、本当の兄の様な人だからだ。
いつだったか。ルフィに打ち明けた時は、思いっきり怒られたし、この先もしばらくそういう話をすることは無いだろう。ルフィの言ってることは、きっと正しい。
正しいと分かってることに、わたしが欲しいのは「正しい」という言葉じゃないから。
正しい事が「正しい」だけじゃない。いつかルフィが、そんなことを慮って「間違ってる」と言ってくれる日が来るだろうか?でも、それはきっとルフィじゃない気がした。
だからわたしが、もっと強くなりたい。
「親にとっちゃ、迷惑かかんない子供なんていねぇだろい。んなこと、言ってやるなよ?」
「うん」
ルフィにこんな言葉を使わせるようになるんじゃなくて。わたしが、ルフィのことばを受け入れられるように、なりたい。
「何かあったら、言えばいい。お前には、そうしてくれるやつが近くにいるだろぃ」
「エースくん、とか?」
そうだ、と頷くこの人が、とても頼りがいのある人で嬉しい。
わたしは、甘やかされて育ってきたかもしれないけれど。そんな自分を、何度も嫌になって、切り捨てられない事を恥ずかしくも、悔しくも思って来たけれど。
そういうものがあるのなら、それを頼っていいのだ、と。マルコさんは当たり前のように、いつも笑ってくれるから。わたしは、こんなに幸せなことはないと思う。
「エースくんのこと」
「ん?」
マルコさんの顔が、少しからかうような表情になった。けれど、わたしがしたい話は、少し「そういうこと」とは違った。
「本当のお兄ちゃんみたいに思うこともあるし、す、好きなひとってことを覗いても、頼りがいがあって、すっごく憧れてかっこいいと思うけど」
と、そこまで口にして、自分の耳が真っ赤に熱くなってるのがよく分かった。
どうして急に自分が、こんな恥ずかしい事を言おうと思ったのか分からない。でも、言うなら今しかないと思った。今なら、少し恥ずかしいのを我慢して、言える気がした。
「わたしが、頼りになるお兄ちゃんだって、一番に思うのは……マルコ、さんだから…」
とうとう、そんなマルコさんの顔なんて見れなくなって。
顔を反らしたわたしの、その頭を大きな手が乱暴に撫ぜた。
「ありがとよい」
と、その言葉が少し照れてるように聞こえたけど。わたしには、それを確かめられなくて。ただ、されるがままに、頭をいじられた。

「それからね、マルコさん」

わたしは、そのまま言葉を続けた。少し前にマルコさんに聞かれた質問の、その回答を言うつもりだった。
「…どうした?」
その質問は、わたしにはとても難しくて、答えが出せても意味があるのかさえ分からないことだった。けれど。
「少し前に、わたしにアドバイスしてくれたよね?覚えてる?」
「ああ、あれか。あれは……オレも少し言い過ぎたよい。もっと他に方法もあるだろい。別に、無理しなくても―――」
でも、わたしは、そのアドバイスを受け入れることが出来たから、こうして少しだけ前に進める様になった。だから、もう、マルコさんのくれる言葉を都合の良い様に忘れないことにした。
「わたし、決めたから」
馬鹿みたいなこと、ともしかすると誰かに笑われるんだろう。
でも、わたしには、少なくとも小さなことじゃない。いつか、今までの「これ」が、小さなことだと思える日が来るのかも分からない。だけど。

「わたし、エースくんのこと、頑張って諦めてみることにするよ」

少し挫けそうになるだけで、心の中でエースくんのことを思っていた。今もまだ、全然変わってない。
わたしはこの恋を、本人に告げる勇気もなければ、誰か周りの他人に話して、意味のない守備をするような小さな人間で。何年も、何年も続いた思いは、きっと簡単には無くならない、と自分がよく分かってる。
「……そうか」
と、申し訳なさそうにするマルコさんに、私は明るく言えたと思う。
「やってみたいんだ、わたしが。もう一度、少しでも……わたしが、父さんに学校に通ってるのを見せたいの」
わたしの、根深いコンプレックスに、この恋が絡んでいるというのなら。それを、使ってでも。
「とんだファザコンだな」
と、喉を鳴らして笑うマルコさんに、わたしも少し恥ずかしくて笑った。

きっとこの恋は、エースくんに届くこともなくて、そのまま枯らすことになる。だって、よくいうじゃないか。初恋は、実らないって。



……………20130324

DODO