>常々、わたしってやつは。と、青は思う。空を仰いだって、どうしようもないわけだけど。
空が、青い。
今日は、雨の降らないよい日だ。それだっていうのに、わたしってやつは。

なぜ、無一文なんだろう?

おかしい。と、青は首を傾げた。昨日まではしっかり稼いだお金を持っていたはずなのだ。それが、一晩で消えるなんてこと、普通ではあり得ないことだった。
けれど、そうやってとぼけては見せるものの、青には嫌と言うほど理由が分かりきっている。からから、軽い音しか出ない笑い声になるのは、そのせいだった。
「バカか、わたしは」
ギャンブル、というのは麻薬なんかと一緒だ。そう、青は常々思っている。やるべきものではなく、やらなくていいなら態々そんなものに快楽を求めるべきじゃない。軽い気持ちで始めようとする友人がいれば、彼女はその全力をもって阻止するつもりでいる。
なぜなら、青自身がまさにその土坪に嵌まった人生から抜け出せないからだ。一時期良くなったと思えた時もあったが、最近また、ぶり返すように路地の裏が恋しくなった。青だって、コインやお札の手垢の匂いが、海の潮風より良いものだなんて思っているわけでもないのに。
トボトボと帰りの道を歩く、その背中には哀愁が漂う。空は快晴で、まだ朝の匂いが立ち込めるような港町で、その姿は同情すら誘った。
唯一の彼女にとっての救いは、例えお金がなくなろうとも、その日の家がちゃんとあること。数年前、それすら困っていた時から比べれば、生活が潤っている。
世間的に無法者と言われようが、人生の大半を海で過ごすことになろうが、屋根のない場所に寝泊まりする虚しさとくらべる事なんて、できなかった。
段々と、青の歩く道は日の光をよく通す大通りへ向かう。もし、青の背中を見ている人間がいたら。彼女に降り注ぐ明かりで、その姿は砂になって流れてしまいそうに見えたに違いない。
「よっ」
「たいちょー……」
そんな青の背中に声がかかり、その声の主は朝っぱらだというのに快活で、清々しかった。
夜通しパチパチとコインを数えていた青とは違い、十分に眠れたことは、その顔を見れば明らか。今朝の目覚めも、よほど良かったのだろう。
青はけれど、そのたいちょうの正面へ体を動かした。横顔だけなら、相変わらずなかながいい男なのに、と笑う。
「派手に叩かれましたねぇ……」
「うるせぇっ」
彼女が覗きこんだ反対の頬は、赤く腫れ上がっていた。
「後腐れのない相手にしとけばいいのに……」
恐らく、昨晩一緒だった女性を軽くあしらってのことだろう。答えが分かりきっている青には、理由を聞く必要がない。
「耳にタコだな。そーゆーとこに口出さないでくれ」
「はいはい」
ぶぅ、と鬱陶しがる顔で青の隣を歩く男は、たいちょう、の名の通り青にとっての「いわゆる」上司。
けれど、青と男の付き合いは、上司と部下になる以前より長く、そしてこうやって陸で顔を合わせることも、今さら一度や二度の話じゃない。
「隊長って呼ばれんのも、嫌だって何度いったらわかんだよ。お前は」
上司と部下になる以前、二人は船長と船員だった。
「別にそんなこと、どうでもいいでしょう」
時々は名前を呼びあうような親しさで、かつての船ではまるで兄弟のようだとからかわれた事も何度だってある。青はそれを思い出しては、懐かしさで更に空しくなりそうだった。
青にとって、今の船が居心地が悪いわけではない。
けれど、今の船の船長は「たいちょう」ではなく、青にとっては所謂社長のような存在。その社長のような船長の事を、決して慕っていないわけではないのだ。
それでも、青の中では今でも、 世界中何処を探し回ったって、船長は「たいちょう」以外にはいない。
その事は決して、本人の前で言える話ではなかったけれど。
「どうでも、ね」
たいちょうのその相槌に、青は「カチン」と頭が鳴った気がした。
それが怒りだったのか、悲しさだったのか、ハッキリはしなかったにせよ。良いものでは、なく。
「今や、三桁を越える部下がいて、四桁を回る船員が乗る船の重要な隊長なんですから」
だから。いつもは考えていても、間違ったって口にしない事を、つい口走ってしまったのだ。青がハッと我に帰ったときには、時すでに遅し。
「……んだよ、その言い方」
隊長は、機嫌悪く一人道を進んでいく。
あーあ、やってしまった。と、青は後悔しながら、内心で「やっと言うことができた」と安心もしていたかもしれない。
「エース船長」
随分遠くなった背に、ぼそり、と懐かしさある名前を呼んでみた。
当然返事なんて返って来なかったが、青はそれでよかった。
思い出すのは、叩かれ腫れた右頬。白ひげ海賊団の隊長となったエースは、陸に着く度に女遊びが絶えないと聞く。
そうすると、昔からそうなのだ、と青をはじめとする元「スペード」海賊団の船員は笑ってフォローする。
エースのあれは、ほとんど病気の様なものだ。青には、分かっていた。
「……まだ、人肌が恋しいの。そんなしょうがない人が、今や白ひげの二番隊隊長だなんて、笑っちゃうよ」
性病になったって知らないんだから、と毒を口にためて。けれど、そんな品のない言葉を青は冷たく嚥下する。
エースの背中はもう、随分と小さくなっていた。あの背中に、青は何度救われたか分からない。そんな男が決めた、今の居場所なのだから。そう、彼女だって理解していた。彼女が今でも抱くもどかしさは、彼女自身の女々しい部分が膿んだものなのだということを。
けれど。そう分かっていても、聞きたくて堪らないことが沢山ある。
(今の居場所で、あなたは満たされているの?)
(白ひげの船長さんが、あなたにとって救いになった?)
(私たちと居たときよりも、今はもっと穏やかに生きている?)
(わたしたちはそれでも、あなたと航海して少しも救いにはならなかったの?)
(あなたが欲しいものは、もうわたしたちではないの?)
(それならどうして、まだ陸に着く度にそんなことを続けているの?)
でも、青がそれを聞けるはずもない。
ただ、スペード海賊団であった頃より、エースが塞ぎ混む時が減っている事を願う事しかできず。エースには、青たちに打ち明けない秘密があって。そのせいで酷く苦しそうにしているときがあった事を知っていても、今ではもうその姿を見ないことが「応え」なのだと思うしかなく。
ああ、何て悲しいんだろう。と、青は一人空っぽの胸の中を鳴らす。そこには何も詰まってはいないので、空なのだ、と確認する事しかできないけれど。
「もう、充分かなぁ。わたし、どうしてもダメみたいだから……」
エースはもう、隊長として白ひげの船長を慕っていて。けれど彼女は、今でも、エースを海賊王にしたかった。エースのことを「船長」と呼び、これからのどんな事も仲間と一緒に乗り越えて。そうすればある日、きっとエースの抱える闇を打ち明けてくれる。
それがどんなものであっても、青や仲間たちは、エースを船長と心に決めたその時から、受け入れる覚悟くらいあったのに。
「どうしても、もう、エースを船長と呼べないことが辛くって」
青のかつての仲間の大半は、白ひげの船長の息子として船に乗っていた。
エースをこれからも支えて行こうとするものや、白ひげに惚れ込んでいるもの、海賊を止められないもの、陸に帰る場所がないもの。
けれど、ほんの一握りだけ。陸に帰ったものがいた。心からエースを慕い、彼のために命を賭けると誓っていた、頭の固い数人も、その中に含まれた。青は、自分がその数人に含まれることをよく分かっていた。
けれど、エースの側を離れることも出来なかった。
「船を降りるよ、エース船長」
白ひげの船長に、青は素直に全てを打ち明けている。突然、船から姿を消しても、それを「決断」だと思って欲しい。そんな、勝手で優柔不断な彼女に、白ひげはやはりエースが惚れ込んだその包容力で、笑って理解を示してくれた。
その時にはもう、青にはよく分かっていたのだ。
エースが青たちには打ち明けなかったことも、もしかすると白ひげの船長には打ち明けたのかもしれない。と。それが何より、彼女が船を降りる日までのカウントダウンの始まりだった。
「ありがとう、船長」
エースの背中が消えるまで見送って、青は踵を返した。


もう彼女が、海に出ることはない。

…………20130615
DODO