>ほど数時間前に起こったこと、そのせいで負った怪我を庇うようにソファで横になる青は、ゆっくりと男の方へ顔を向けた。
怖いものなんて、ねぇよ。と、口癖のようにそんな軽口を叩く顔を見る。青には、その言葉を信じている頃があった。
他人より器用に生きる男。ダンテ、というのはそういうひとで、青の住む世界にはそれまでちっとも縁のない種類のひとでもあった。
青が家族と今生の別れをしている側で、ことあろうにデリカシーのないジョークだって言えてしまう。例えば「死んで死体になったら、帰してやるよ」と、笑いながら言えるんだから、ダンテの心臓は鋼鉄か鉛で出来ているんだとすら、彼女は思っていた。

だから。それが勘違いだったのだと知るには、随分時間がかかった。

青は「ここ」へ来て、何度目かの雨季を迎え、年も重ねた。
ダンテにとってどうだったのかは分からないにせよ、青にとっては幸運なことに、まだ死体にもなっていない。
ダンテという男がいれば、それはもっと遠い先のようにも感じていた。
「何か言ったらどうだ?」
青は、ダンテの低い声に耳を傾けながら、言葉を探し続けた。
何か、言うべきなのかもしれなかったが、何も言えそうにはなく。頭で言葉を繋げるが、それがまるで濡れたチリガミのように直ぐに千切れる。
何度かそれを繰り返して、やっと、青自身の言葉には、どんな意味もないのだと気付いた。そしてまた、言葉を待つダンテに、なにも言えなくなった。
(わたしが、わたしを自覚したときっていつだったんだろう?)
両親は実に円満な家庭を築き、そのなかで幸福に育った彼女にとって、「ヒト科のヒト」なのだという自覚は、余りにも自然なことだった。
今までは深く考えもしなかったことを、ダンテの側で暮らすようになって、随分考えさせられる。そう、彼女は目をつむった。
ソファは、ダンテが好んで買ったものだ。沈み具合が、まるで包まれているように、深い。
「お前だって、薄々勘づいてたんだろ?」
ダンテが、なにも言わなくなった彼女に畳み掛ける。
(そんなの、ズルい考え方だよ)
けれど、その通りでもある。
青は、ダンテという男が「いろんな意味」で普通ではないことを思い知ってきた。今さら、その事実が裏付けられたとして、それが一体どうというわけでもない。
「出ていくか?お前がここにいなくちゃいけない理由は、さっき無くなったばかりだしな」
それも、その通りだった。怪我を負ったとはいえ、これからはもうダンテの傍に居なくても「あれら」はやってこない。
「雨降ってる」
青は、精一杯の言い訳をした。
「止んだら、出ていけばいい」
それすら、気のない言葉で一蹴されてしまえば、彼女にはとうとう、声にできる話題がない。
(出て行って、普通に生きていく)
そうすれば、ダンテはここに一人になる。シーリングファンの下で、なかなか鳴らない黒電話のあるデスクで、ストロベリーサンデーを食べる。
(わたしがいても、いなくても、ダンテはきっと変わらないんだろうな……)
それから、青は次に自分のこれからを考えてみた。
そこにはもう、答えがあって。その答えをダンテに突き付けるのは、少なからず身勝手だと思えるような、そんな答えでも。
それでも、青は雨音で消えてしまいそうなかすれた声で「ねぇ」と、勇気を振り絞った。
「わたし、ここにいちゃダメかな?」
青にダンテの方を見たままで言えるほどの、強い精神なんてない。あの、端正な顔立ちに、さも五月蝿がられるような表情でもされたら、続ける言い訳すら消えてしまいそうだった。
だから彼女の目は、閉じたまま。
「ここに?気は確かか?」
ダンテの素っ気ない言葉に、青は「そうよ」とは言い返せない。
彼女だって、あるいはかつての彼女なら、その選択だけはしなかった筈だし、それは間違いなく気を違った答えには違いなかった。
でも、そんなことはもう、今日が来るまでに考えていたことで。「今」の彼女には、決して最悪の選択じゃなく。
「泣くほど会いたがってた親に、会いに行けるんだぞ?」
ダンテは、捲し立てた。語気が強く、怒っているようにも取られるかもしれない。
青は、それがダンテの虚勢を張る時に出る癖だと、もうよく分かっている。
「スラムは汚いって言ってたのは、どこのお嬢様だ?借金をするのは年を重ねた子供なんだろ?それともなにか、お前はガキのお守りがしたいのか?それなら、その辺の教会にでも行けばいい」
次いでに、「神さま」とやらに今度こそ見捨てないようお祈りしとくんだな。なんて。
おしゃべりが好きではないダンテが、こうもベラベラと。
青はそんなダンテが、いつから可愛く思えるようになったのか、もう覚えてはいなかった。
言われた通り、彼女は始めのころ敬虔なクリスチャンだったし、スラムのような場所でまともに呼吸すら出来ないと思っていた。
「もう、神に祈るのは止めたの」
すっかり、その考え方を変えたのはダンテだったはずなのに。彼女は、少し可笑しかった。
「それから、スラムの生活も悪くないと思ってるよ」
清潔であることが、必ずしも生きるに必要な訳ではなく。そうでなければ、そこには悪いものしかないというのは、間違いだった。
青は、それが知れて良かったと思っている。世界は広くなり、自身の狭い視野は幸運にも、まだ広がってくれそうで。
「ダンテのことは、確かに子供みたいだと思う」
間髪入れずに「あ?」と、不機嫌な声が聞こえた。
「でも、あなたはわたしなんかよりずっと、大人だった。色んな事を一つ一つ教えてくれたし、わたしのことをちゃんと守ってくれた」
「なんだ、やっと分かったか」
ダンテは、青の言葉に気を良くした。でも、それが目に見えて喜んでいるわけじゃなくて。雰囲気が柔らかくなった、とでも言えば伝わるだろうか。 
「ダンテはわたしがいなくなっても、きっと変わらないけど……」
青はその、一瞬の隙を見逃さなかった。
「わたし、ダンテが好きだから!」
だからもう、ダンテのいない場所で生きていくことなんて。と、青は一気に捲し立てた。
(だって、きっとわたしはこれからストロベリーを見れば、サンデーの作り方が頭のなかに浮かんでくる。「ここ」から別れたって、赤いものを見れば、趣味のよくない真っ赤なコートが視界を過って、ダンテに似た誰かを探すような日々を送るに決まってる)
青が口にできない思いを頭のなかで繰り返していると、突然、その顔を覆った腕を剥がされた。
「な、に」
ダンテの白銀の髪が揺れて、彼女の顔と付き合わせるようにそのグレイブルーの瞳が見下ろしていた。
「気は確かか?」
ダンテはまた、同じことを聞く。
それが、ぶれるように震える睫毛から、動揺でもしているのだと気付いて、青は。なんて、愛しいひとなんだろう、と。
「おれは……」
ダンテがもう一度、告げようとする言葉を彼女が遮った。
「なにものでも」
ダンテが一体どんな「もの」だろうと。
青は見つめられることに照れて、顔が熱くなる。長い付き合いでも、こうして長い間顔を向き合わせる事は多くなかった。
「ねえ、でも。返事がなければ、わたし本当に出ていかなきゃ行けないんだけど?」
その火照った顔を誤魔化すように、くすくす、と笑ったが。
かちん、と。
歯がぶつかる程に急な口付けに、それは止められてしまった。代わりに、青は自分の顔が耳まで熱くて堪らなく、その上、心臓は痛いくらいに脈をうつ。
彼女がダンテと深いキスをしたのは、はじめてだった。それが、ダンテにとって精一杯の答えなのだと、今の青には確かめるまでもないこと。
慣れないキスに息苦しくなって、やっと解放されたときには、ダンテの息も上がっていた。なのに流石とでもいうのか、ダンテはほど数回の呼吸で直ぐに話せるようになる。
そして、その目はもう、いつも通りの自信と、力強さに満ちていた。
「あーあ」
と、さも演技がかった口調で、ダンテが呆れる。
「お前は差し詰め、悪魔の誘惑にほだされた訳だ」
青の髪をその手で掬い取りながら、言葉通り誘惑的な声で囁く。
「そう?わたしって誘惑するほど美味しそうに見えた?」
青はイタズラっぽく聞いた。ダンテはとうとう、彼女の横たわるソファの傍に膝をつく。
「それどころか、お前なしじゃ生きれなくされちまった」
もう、どこにも逃がしてやれないぞ、と。
ダンテは、その言葉が彼女をどれほど堕とし込むか、知っていたんだろうか?

………20130703
DODO