>『今は晴れ。さっき急にスコールが来て、何枚か便箋をダメにしました。元気でやってると思いますが、元気ですか。オレは、いつも通りです――』

寒い国でした。
ノースブルーと言われる海にある島々の中でも、その島にはいっそう寒い国がありました。そこでは、年から年中雪が積もり、それらが解けるのは短い夏の間だけでした。
雪を踏みしめて、寒さの中に生活を築き、常に温かなものを欲する生活。例えばそれは、「こんな」景色のようでした。
彼女は、景色を懐かしみながら、ウォッカをちびちびと飲みます。
彼女自身の船を泊めている海岸の、その傍。森の木々の間に、小さなテントを張って。テントの傍には、ランプの明かりをひとつ、灯していました。
ふと、さくさく、という足音が聞こえて、彼女は顔を上げます。その影が誰だか分って、自然と顔が緩みます。相手は手を振って、その手には酒瓶を持っていました。

「ああ、いたいた」

鼻の頭が痛い気がしましたが、彼女にとってそれはたいした事はありません。生まれ育った島では、もっともっと、顔中が痛くなるということはよくありました。
「ああ、赤髪さん」
その島に街はありましたが、お金を無駄には使えない生活をしている彼女は、宿をめったにはとりません。寒さの中で過ごす方法は、暑い場所よりもよく分っていました。それならばなお更、特別に休む場所を探さなくてもいいのです。
「この島に来てるって聞いた時は、驚いたぞ」
赤髪さんは、彼女が座っている隣に同じように腰を下ろしました。小さなシート、その上に狭いことも気にせずに。
「偶然っていうのは、怖いですねェ」
彼女と、赤髪さんが島を鉢合わせる事はよくあります。グランドラインの前半、一つ航路しか選べない旅でもあるまいし。新世界で、それぞれ、選ぶ道は違うはずのに、です。
「もう観念して、一緒に行かないか」
それはつまり、赤髪さんの船に乗って、一緒に旅をするということでした。
「たぶんそれは、とても楽しいと思います」
彼女は、そうなったら、の旅を想像して微笑みました。陽気な人たちに囲まれて、美味しいものを食べて、飲んで、どんな海も乗り越えられる気持ちで生きてゆく。そんな毎日は、簡単に思い浮かべる事ができます。
「でも、何度もお断りしているように、今回もわたしは断らなくては」
「そうか……。こんなに熱心に、勧誘しているんだがな」
彼女は、一つ頷いて、ふふふ、と笑います。
「ありがとう。赤髪さん」
彼女には、彼の誘いに乗れない理由がたくさんあります。
一つは、彼らが海賊である事。一つは、彼女に海賊として生きていくだけの力がないこと。一つは、大事な約束が残っている事。
「この海は、もう、次に会う約束が出来ないほど危ない場所だろう。それを、お前だって分っているはずだ」
赤髪さんが言う事は、いつだって、彼女に言い返せる隙がないほどの正論でした。
この海は、一度波に乗れば、次の瞬間の運命が分らなくなるような、そんな海でした。彼女だって、何度も死にそうな思いをしました。死にたい、とも思いました。旅をやめたくなったことも、故郷の寒さが恋しくなったことも、数え切れないほどありました。
「でも、赤髪さん。約束を、守らなくちゃいけないんです」
彼女は、寒さでツンとする鼻をすすりました。
「……そうだったな」
「赤髪さんは、優しい人です。わたしは、あなたとの約束も忘れてはいませんよ」
「わかってるよ」
彼女は小さなホーローのコップを取り出して、そこに並々とウォッカを注ぎました。
「悪いな」
「ひとりより、二人で飲むほうが美味しいです」
彼女が差し出すウォッカは、決して特別に高価なものではありません。常に買って置く銘柄は新世界のどこでも手に入るもので、いつだって、殆どの場合同じものを飲みました。
「いつも飲むのに、こうして場所や人が変わると、味まで変わった気になります。今日は、最近で一番美味しいお酒です」
「それは、光栄だ」
二人は、それからしばらく、他愛のない話をしました。ここまでやってくるのに立ち寄った島、出合った生き物、見てきたもの。
いつもなら簡単に一本を飲み空かしてしまう二人が、揃って、ちびちびと。惜しむように、一つの酒を飲みました。いつまでそうしていたでしょうか。空を上った月が、はっきりと位置を変えたのが分るほどになったとき。
彼女は、そして、突然涙をこぼしました。
赤髪さんは何も言わず、彼女の頭を隻腕の中に抱え込んで、掌で何度もその頭を撫ぜました。
「お前は、不器用なやつだよ」
そう、赤髪さんは苦笑します。
声が震えているように聞こえるのは、彼女の勘違いだったでしょうか。なににせよ、彼女自身の不器用さ、あるいは頑固さを一番に理解しているのは、やはり彼女自身でした。
「約束ですから」
「……ああ」
彼女には、とても愛している人がいました。
それを伝えた事はありませんでしたが、伝えずとも、伝わるほどの愛でした。
いつか、もう一度会う約束を、彼女は確かに「彼」と交わしたのです。そして、それが叶わないと約束された瞬間から、二年が経ちました。
それでも、彼女は、約束を守ろうと頑ななのです。
馬鹿なことだと、分っていました。笑われるほどの、どうしようもない思いだと言う事も、分っていました。
でも、どうして彼女がそれを忘れられたでしょうか。どうやって、その約束は無効になったのだ、と確認できたでしょうか。
「オレは、恨まれることだってなれてる」
赤髪さんは、彼女に、何度もそう言いました。
だから、約束を忘れてしまった事を、「赤髪」という海賊のせいにして、一緒にいてくれて良いのだ、と。それでもその度に、彼女は首を振りました。
「約束の終わりは、自分で確かめたいんです」
彼が眠っている島に、いつたどり着けるかなんて、彼女には分らない事でした。それは、約束の終わりがまだ先にあることでもあり、それまでは確かに、生きなくてはいけないのです。
「なぁ、あの手紙」
「物好きですね、また読みたいんですか?」
「ああ。読んでくれ」
彼女は、腰のポシェットから、もう随分擦り切れた手紙を取り出しました。決して柔そうな紙ではないのに、つまり、何度も開かれては、閉じられている証拠でもありました。そして、その折りたたまれた手紙の間に、もっと小さな紙切れが四つ折になっていました。
「でたな、もどき」
赤髪さんは、それを摘みあげて笑います。
「結構、笑えないほどショックだったんですよ」
「もう、笑えるだろ。お前に持ってもらいたかったビブルカードは、これだったのさ」
彼女は、小さく笑って、また一つ涙を零しました。
そして、ぽつりぽつり、と手紙を読みます。その手紙は、読み辛い癖の文字でこう始まっていました。

***

「それじゃあ、オレはそろそろ戻る」
「はい。どうか、お元気で」
彼女は、笑って赤髪さんと手を結びました。そして、赤髪さんはその腕を引いて、彼女を抱きしめて、あー、とか、うー、とか言いながら片腕に力を込めます。
「約束だぞ!」
「はい」
「お前は生きて、オレの船に乗せる。はやく、あいつとの約束を終わらせてくれ」
会うたびに待てなくなって、困る。と、赤髪さんは笑いました。
「そうですね」
彼女は頷きました。
「二年は、わたしにとっても短くはありませんでしたよ」
きっと、もう、彼と再会を果たしても、泣き崩れる事はないだろうと、彼女はどこか確信していました。
「あなたにも、たくさん、甘やかされました」
「俺のところにきたら、もっと甘やかしてやる」
「どうしようもない人です、あなたは」
情に厚くて優しい人だから、と彼女は彼を抱きしめ返しました。
「わたしなんて、放っておけばよかったのに」

彼女はその日、遠くの海岸線に赤髪さんの船を見送りながら、島を出発しました。
帆を張って、腕につけた三つの指針を見るよりも先に、腰のポシェットから擦り切れた手紙を取り出しました。三つに折られたその中から、四つに折られた小さな紙切れを取り出します。それを丁寧に開いて、その手に、まるで方向を尋ねるように乗せてみました。
紙切れは、風に少し飛ばされそうになるばかりで、とうとう少しも動きませんでした。
「まったく、相変わらず……」
それは、ただの紙切れでした。
ビブルカードではなく、だからこそ、彼が死んでしまってからも燃えて尽きることなく残っていました。
彼女が、それがビブルカードというものだと知ったときも、ビブルカードが何なのかを知ってからも、彼のほうを示してくれることはありませんでした。
そんなものを送られた、その意味が分らず、虚しさに泣いた事もありました。そんな彼女に、赤髪さんは言ったのです。
「許してやれよ」もしもの事が起こることも、あるいは起こったとしても、心配をかけまいとしたのだ。と、そう教えてくれました。
彼女が彼を探さなくとも、彼が迎えに行くつもりだったからこそ、そのいる場所をしらせなかったのだ、と。
彼女がそれを理解できるようになるまで、赤髪さんは根気強く、何度も、何度も。
お陰でその紙切れは、今となっては、彼女の持つものの中でとても素晴らしいものでした。それはいつまでも消える事がなく、いつも彼女の傍から動く事がなく。あの時、彼が届けてくれた本当の手紙は、その小さな四つ折のビブルカード「もどき」だったのだ、と思えるようになりました。
その手紙の端には、やはり癖のある雑な文字で名前が書いてありました。

「さあ、これで最後の二人旅にしましょうか」

彼女は、今度こそ、その腕にある三つの指針を見ます。行くべき方向は、既に決まっていました。

………20131109
「ハートはわたあめ」様へ提出。
「二人きりの夜/ランプにかざす手紙」
DODO