>あの、凄惨な日々から遠くしばらく。ルフィはとうとう、エースのことを乗り越え、そして未だ残る思いを糧にするように、日々、レイリーと修行に励んでいる。と、彼女は思っていた。そうでなくとも、海軍からの追手もなく、無事に過ごしているだろうことは間違いがないんだから別にいい、と。
当の彼女は、というと。あの瞬間のことから振り返るのなら。
それは、ルフィたちと同様にバラバラの場所へ飛ばされたあの日。強い衝撃で飛ばされた先の船に乗ってからも、彼女はルフィのことばかり考えていた。ただ、一目だけでもよかった。生きていてくれれば、これからどんなことがあったって、きっとその傍にたどり着ける。そう、彼女は思っていた。
けれど。飛ばされついた船が彼女を辿り着かせた光景は、ルフィの兄であるエースが死ぬ、その直前の瞬間だった。ルフィが満身創痍になり、かつて見たこともないほどの姿を晒し、それを目の当たりにして、なお、彼女はルフィのその背中を追わなかった。彼女を拾った海賊、赤髪のシャンクスは、それを決して「よかったのか?」「わるかったのか?」とも聞かない男だったから、その選択の是非を考えたりしないで済んだことは、彼女にとって救いだったかもしれない。正確に言うなら、追わなかったのではなくて、追えなかったのだから。
ただ。ルフィのその姿を見て、彼女の心は妙に落ち着いていたのだ。それまでも、ルフィの戦い方にクルー全員が思うところがあったように、答えは簡単に転がっていた。ルフィは、弱い。海賊王になるには、程遠いくらいには。

彼女は、青は、ほとぼりが冷めてからもルフィの後を追わなかった。追って、ルフィより弱い、ただでさえ他のクルー以上に脆弱な体で、何が出来るわけでもないことを分っていたし。そして、あらゆる物を喪失した彼女にできることは、「その苦しみ」を乗り越える力を得るタイミングに居合わせている彼を煩わせないことだった。結果、その判断は、ルフィに惚れていたボア・ハンコックの癪に触らずにおけたというだけでも、正しい判断だった。けれど、それを彼女が知るよしもなく。
青は、赤髪のシャンクスの船にお世話になることにした。それは、彼女自身が力をつけるため、ということもなく、他に身の置き場がなかったから、というのが大きな理由だったにせよ。赤髪は、それを快く受け入れた。なにせ、その思考から来る行動がどれほど冷静であっても、あの時の彼女は、べちょべちょに顔を涙やら鼻水でぬらし、身を震わせて、立てないほど泣き叫び、エースのむくろの傍からひとつも動けなかったのだから。下手をすると、そのまま海軍に連れて行かれそうになるところを、赤髪が庇いさえしてくれたのだ。
『わたしたちのだれも、あなたのかわりにはなれないのに』
赤髪は、青が呟いたその声を確かに聞いたが、それは何か音の塊だったことにして聞き逃した。どうしてか、そうしなくてはいけない気がして。それが正しかったのだと確信したのは、彼女を船に乗せ一年ほど経った、やっとのころだった。

「ああ、シャンクスさん」

またあなたは、こんなところに寝て。と、呆れた声が聞こえる。青が赤髪の船、レッド・フォース号を旅立つ日も半年後になった。年相応以上に落ち着いた青を、今では変わり者の様に扱うクルーは、その船にはいない。
彼女の事情も、おそらく、赤髪やその古参のクルーの方が麦藁の一味以上に理解しているだろう。もとより、どこから知れず飛んできた彼女を、赤髪は迷うことなくその船において置いたのだ。つまり、それだけのものが彼女にあったということで、簡潔に言葉にするのなら、赤髪はこの青という若い娘に惚れてしまったのだった。
「なんだ、青。なんなら、一緒に寝るか?」
片目を開けて、シャンクスは覗き込む彼女の顔に笑いかけた。けれど、彼女は首を振る。その手には次に下りる島で必要な物の走り書きがあり、それを丁寧に写し書きをして担当する人たちへ配ること。それが、彼女がこの船で与えられている仕事の、一つだった。
「ベックマンさんが探してました」
「……酷いやつだ、お前は相変わらず」
渋い顔をして、赤髪は体を起こした。無骨な手で、その頭をかいてあくびをする。
どんなことをして気を引こうと、どんな風にしてその心を掴んでやろうと画策しても、葉の上を滑り落ちる朝露の様に、青は揺ぎなく笑ってかわして見せた。
そう、だから。赤髪が、彼女の気を引くことに遠回りな態度を取らなくなったのは、そう最近の話ではなく。初めは、触れるだけの距離から、今では随分と親しい、ともすれば過剰なスキンシップすらとるようになった。
あっという間に腕を掴まれた青は、赤髪の胸の中に納まりよく捕まってしまう。
「あと、半年か」
「正確には、四ヶ月です」
集合場所まで、ここから二ヶ月はかかりますから。
ぎゅうぎゅう、と青は抱きしめられることに抵抗もみせないで、笑って答えた。最初の頃こそ、その突然の行動は彼女を驚かせるだけの力があったが、その順応性のなせる賜物なのか、はたまた赤髪という男への諦めなのか、彼女は大人しくされるがままになる事を受け入れていた。
「なあ、ここのクルーになればいいだろう」
こうして簡単に言ってみせる赤髪だって、常からそんな男であるわけがない。ルフィが目標としている男であることに曇りも見せないほど、分別のある、懐の広い男だった。青はそれを、一年半の間傍で見てきた。だから、そんな風に軽率に、自身の大切なものを預けるほどの友人の仲間を、誘ったりする筈がない。それを理解しているからこそ、その言葉の真意とは。
「心配してくれてるのは、分ってますよ」
青は、本当ならば、海賊家業なんてすべきではない自分自身のことをよく理解していた。体の脆さに加えて、鍛えたところで高が知れている戦闘スキル。悪魔の実すら、口にしても何の変化も起きなかった。
青は、赤髪の腕の中で、ほんの少しだけ泣きそうになる胸の内を叱咤した。彼女が赤髪に明かした「自分自身のこと」は、本当なら一番にルフィに知らせたかったことだった。けれど、状況が状況を呼び、そうもいかなくなってしまった今、せめて涙だけは「あの日」以来、誰一人にも見せないと誓っていた。
「それでも、わたしは行かなくちゃ。あの人たちが、わたしを拾ってくれたんです」
青空に映えるどこにいても見失わないほどの、鮮烈なオレンジ色の声が聞きたい。
色々な遊びを生み出す手を持った、黄色の夢物語の続きも知りたい。
静かに波を打つような言葉を紡ぐ、やさしい紫色と紅茶を飲む約束がある。
力強くて威圧的で、とうとう苦手なままだった緑色は、また無理をしてないだろうか。
決して苦なくいつだって、お腹を満たしてくれた味を、青色の味を懐かしむだけじゃもう足りなくて。
誰よりもあの船を思っている水色のためにも、はやくサニーの無事が知りたい。
小さな体の真面目な獣は、きっとこうしている間にもピンク色の薬の為に勉強してるはず。
同じ暗闇を持っていいと握ってくれた美しい手を、あの温かな黒い色と音楽を奏でなくなってもう一年以上になるなんて。
青はあえて、その顔を思い出すことなんてしないまま、あの船に戻らなくてはいけない理由を考えた。今までもずっと、考えていた。
「死ぬと、分っててもか」
赤髪は、低く、重くそう聞いた。
「分っているから、帰るんですよ。いつか死ぬなら、あの場所がいい」
いつか死ぬなら。
進む方にいつだって揺るがない、くらめくような赤色の為に。その傍に。
彼女が一年半でしたことなんて、ルフィの傍にいるには不十分なことばかりで。おそらく、二年で想像もつかないほど強くなった仲間に、青は今まで以上に苛烈に、歯がゆい思いを持つことははっきりしていた。
赤髪は、青がそれほどまでにルフィのことを、仲間のことを考えているなんて知るはずもない。彼女は、「自分のこと」を赤髪に包み隠さない変わりに、今までのことは全て大事に隠しておいたのだから。
「おれが、お前を好きだと言ってもか」
青はほんの僅かだけ、身じろぎした。けれどそれは、赤髪が期待をもてるほどの大きな変化にはならなかった。
「ありがとう、シャンクスさん」
青の、心からのお礼だった。その胸が震えるほど、彼女は間違いなく嬉しかった。
愛されることは受け入れられることだと、彼女は思っている。受け入れられてはいけないはずの彼女に、その思いを向けてくれる相手がいることも、そしてそれが赤髪だったことも、身に余るほどの喜びだった。
「あなたの思いに、できるなら答えたい。でも、もう、わたしは決めているから」
青は、ルフィの傍に居続けると決めていた。
それは、出会ってから船で過ごした時間の間に決まったことではなくて、一年と半年前の「あの日」に決まってしまったことだった。
「ルフィには、必ずわたしが必要だっていうことはないんです」
それは、青が一番わかっていた。ルフィは彼女がいなくとも、この先の海に進んでいくことを、彼女は既に紙の中の物語として知っている。
「でもわたしは、あの人がいいの」
青が、小さく笑った振動が、赤髪の腕の中に響いた。赤髪は一言、そうか、と。それでも、彼女を腕の中にしたままだった。
「そりゃあお前、苦労するな」
ルフィを好きだ、というのならこれからただ苦労し続けるだろう。話に聞く限りでは、随分無鉄砲に育ったようだし。他人を惹きつけるだけの力はあるくせに、その思いには鈍感な男だから。赤髪は、これみよがしにそういった。そんなこと言っても、青の考えが変わるはずもなかったが、どうしてもそう言って尾を引きたくてたまらなかった。それほど青を好きになってしまっていたのだ、と今更になって確認させられたとしても。
「苦労なんて。何も望まなければ、きっというほど辛いものでもないですよ」
「そりゃ、難しいことを簡単に言う」
難しい、なんて。と、青は笑った。その姿が、赤髪にはこともなげに見える。
「あの人が好きだから、きっとどうなったって平気です」
赤髪は、その言葉にはもう、なにも返さなかった。
反論できるだけの感情が、青のその一言で消え失せてしまったのだ。赤髪にも、その根拠のない気持ちなら、頷くことが出来る。
それでも、まだ。彼女の腕を放すには十分に時間があることも、ちゃんと忘れてはいなかったけれど。

***

「お久しぶりです、レイリーさん」

あれから、さらに半年。わたしは、シャンクスさんの泣き落としを振りほどいて、とあるルートで約束の島に戻ってきた。
「ああ。もうみんな、島には着いているよ。いいタイミングで戻ってきたな」
「それは、よかった」
ホッとするわたしを余所に、レイリーさんは、少しだけ冷たく言う。
「君はもう、戻ってこないと思っていたよ」
それは、彼の勘だったのかもしれない。あながち間違いではなかったし、わたしも、本当ならそうすべきだと分っていた。
「そうですね。ほんとうなら、そうしていたかも」
けれど、きっと。わたしがあの瞬間に居合わせたことと、この場所へ帰ってきたことは何か意味があるのだと思いたくて。
「あの日」。キャプテンのあんな姿を見たのは、初めてだったと思う。どんな強い敵に出会っても、もう立ち上がらない、と思えるほどの絶望をその姿から感じたことはそれまで一度だってなかったから。でも、そんなことはやっぱり、それまでなかっただけのお話だった。わたしは、すぐそこにいるあの後ろ姿を追うことすら出来ないほどに弱いことを、まざまざと思い知らされてしまった。
キャプテンのことが、ルフィのことがそんなに好きだったと気付かされる、ただ、それだけの瞬間だった。それどそのことが、彼がわたしに乗船を望んでいることと、わたしが彼の傍に戻りたいと思う気持ちに、埋まらない溝を作ってしまっていて。
「顔つきが、変わったな」
「え?」
考え込んだわたしに、レイリーさんが笑ってそういった。さっきまでの冷たい空気とは打って変わって、シャクヤクさんまで微笑んでいる。
「モンキーちゃんが好きで好きでしょうがないって顔、してるわよ?」
どうしてなのか、分らないけれど。いや、本当はちゃんと分ってるけど。シャンクスさんに、好きだと言われたとき以上に、耳が熱くて、心臓が煩くなった。きっと、顔なんて目も当てられないくらい、真っ赤だと思う。
「苦労するな、君も」
レイリーさんは、いつか聞いたような言葉をかけてくれる。でもそれはやっぱり、わたしにはきっと大したことにはならない確信があった。
キャプテンは、あの人は、これからもずっとあのままでい続けるから。わたしは、あの人の中で揺るがない気持ちの傍に、いられればいい。だから、この少しだけ浮かれた気持ちには蓋をしておこうと思う。いつか、開けるときが来なくても、待ち続ける思いが零れ落ちてしまわないように。

ルフィの夢の果ての、邪魔になってしまわないように。

………20140706
「スタージュエリーに墜落」さまへ提出
Title「べちょべちょ/きみの冷蔵庫で待ってる」擬音使用色「勿忘草色わすれなぐさいろ(#89c3eb)」
DODO