>ぐったりと横たわる体は、ここ連日続いた雨をひたすらに吸い込んだように冷たく、重かった。暗く、まともな暖房機能一つ備わっていない様な部屋で、ソファに寝ていたら誰だってそうなっただろう。腕を上げるのも億劫な様子で、彼女は僅かに身じろぎして再び動かなくなる。
ここ最近は、ずっとこの調子だった。
季節は冬へと移り変わり、寒さは日に日に鋭くなる。前線が来ているだとか、そうでないとかで、外は一昨日からの悪天候だった。気が滅入ってしまっても仕方がない。
けれど、彼女のその様子には、そんな明日にはどうなるか分らないような天候など関係なかった。それどころか、凍てつきを研ぎ澄ます季節でも、ましてや備え付けの心もとない暖房器具でもない。しかし、彼女は寒かった。凍えるように寒くて、深い水のそこのように暗い、そんな場所で寝そべっていた。時折身じろぎはしたが、決して動こうとはしなかった。
それは単純に、彼女の怠惰な性格にある。
どれだけ効きが悪くとも、つけないよりは幾分もマシな暖房器具の電源を動かさないのも、深い川底のように暗い部屋の電気をつけないのも、ましてや冷え込みが一層染み渡るであろう一回のソファから動こうとしないのも、全部。彼女は億劫だったのだ。
どれだけ時間が過ぎただろう。
段々と体の感覚は曖昧になり、酷く痛んでいた胸の辺りには随分となれてくる。視界の悪い部屋を目が捕らえ始め、なにより、その場所に自分以外の人間の気配が浮き出た。
「なにしてるんだ?」と、それは呆れたように聞く。
普段、彼女が見知る赤いコートが、声をかけた人影にはない。上下いつも以上に楽な格好で、彼は彼女の横たわるソファに近づいてきた。仕事着、というよりはトレードマークといって良いほどの赤を、身に纏わない瞬間があることを、きっと彼女以外は知るはずもない。彼にとって彼女が特別だという自惚れが無いとは言えなかったが、決してそれだけではない事を彼女はよく分っていた。でもそれは、特別気にする必要が無い。ここには、彼と自分だけがいる。それが、彼女にとってどれほどにも暖かいのだ。
「寒いなって思ってたんです」と、彼女は声にした。
それから、自らを覗き込む彼に向かって、その両腕を伸ばす。すると、彼はその意味するところがよく分って、その腕を引いて自身の胸に抱き寄せた。彼もまたソファに腰を下ろす。
「これで満足か?」と、彼は喉を鳴らして笑った。
彼女はその広い胸板に頬を寄せて、何度も、何度も確かめるようにこすり付ける。それでもやはり心細くなって、その広い背中に腕をきつくまわした。彼のにおいがして、彼の温度が伝わってきて、そうしてやっと彼女は小さく頷いた。
その、振るえて泣きそうな彼女の背中を、彼の腕は大きく抱え込み閉じ込めて。それから、彼女と同じようにして、その肩口に頬を寄せては擦り寄った。すると、彼女がくすくすと笑う。
「くすぐったい」小さく縮こまって、喉を震わした。
「我慢してくれ」と、彼は髭のある顔を、一層その場所へ押し込めてしまう。
彼女は堪らなくなって身を離そうとしたが、彼はそれを許さないで、やはりきつく腕の中に拘束するばかりだった。
「部屋の電気つけないと」彼女が、今更のように言うものだから、今度は彼が喉を鳴らして笑う番だった。
「いいんだよ、このままで。どうせ今から寝るだけなんだろ」
何を今更、と彼は決して口にはしなかった。彼女が部屋の明かりをつけない本当の理由も、部屋を暖めようとしない本当の理由も、そしてきっと泣いてしまいそうなほど心細く思っている事を隠そうとしていることも、口にはしなかった。それでいい、と知っていた。
「人が眠くなる温度って、四十度位らしいですよ」彼女は、その胸に唇を寄せて囁いた。
彼女にとって彼はどれ程にも代え難い存在で、それを伝えるすべをしかし、よく知らなかった。
「なるほど。それで?そうなるまで、俺はずっとこうしてやってれば良いのか?」彼は、決して咎めるような声色にならないようにしながら、彼女の頬に唇を寄せた。
彼は、その頬に小さな囁きのようなリップ音をたてて、それからその耳を食むようにして咥えては、舌で時折くすぐってみせる。彼女はそれに、今度こそ大きく身を震わせたが、その腕を硬い胸板を押しやるのに使ったりはしなかった。
「ずっとじゃなくていいんです」そう、彼女は呟いた。
ずっとだなんて、欲張らないから。と、熱のこもった息を彼の胸に吐きながら言う。
「時々こうして、傍にいて。それから、時々今みたいに優しく抱きしめてほしいんです。ずっとだなんて、欲張らないから」
「そんなこと言うなよ」彼は、彼女の頬にその手を滑らせ、そして目をむき合わせるように顔を上げさせた。彼女の頬を包むその手は、とても暖かかった。
「そんなこと言うな」彼は、怒りを表したように揺れる瞳で彼女のそれを見つめ返した。「お前が欲しい時に俺だってお前を欲しい」
彼のその言葉を聴いて、彼女は小さく笑う。急に笑い出す彼女に眉根を寄せて、彼はその息を零す唇に噛み付いた。舌先で唇を舐め、その下で唇の奥にある粘液を絡め取る。彼女の舌に自身のそれを這わせては、息が詰まるような、わざとらしい口付けを何度も。
そのうえ彼女の顔を支えていない片方の手で、そのシャツの隙間から柔らかな背中を撫ぜた。背筋を沿うように、指先で、てのひらで、何度も。
「お前だけが愛してるだなんてそんなこと、嘘でも思うな」
彼女は彼の口付けに朦朧としながら、考えていた。それから、背中のホックが外れる小さな鈍い音を聞いて、更に途方にくれた。
彼の言葉を笑ったのは、決して思いを疑ったからではないんだ、と。その瞳に映してくれる愛が、少しだけくすぐったからなのだ、と。どの息継ぎの間に言えば良いのか分らなくて。
20121110/D4:川底でその鱗を愛撫する
DODO