>平凡に生きてきたと思う。両親は相変わらず円満な様子で生活しているし、兄妹も今、私以外は皆家庭を持っている。故郷で何かあったとは聞かないし、やっぱり、相変わらず皆元気に過ごしているはずだった。
対して私は、というと。
故郷の長閑な空気に別れを告げて、この土地にやってきたのはもう、随分と昔の話になる。あの場所での生活に大きな不満があったわけではなかったけれど、いわゆる反抗期みたいなものも手伝って、気がついたら家を飛び出していた。両親や兄妹にとっては、今思えば、相当に手のかかる、聞き分けのない子供だっただろう。
私自身が、そのときの自分の勝手さを思い知るのに、特別に彼らからの忠告を受ける必要が無かったのは言うまでもない。家を飛び出して直ぐに、他に身を寄せる当ての無い私では、余りに生きるに耐えない暮らしが待っていたのだから。それからの私の人生なんて、語るに足らない酷いものだった。
そんな生活の中で、僅かに見えた光を今でも確かに覚えている。
それは、何とか屋根のある部屋に住む事が出来るようになって、暫くしてからの事。偶然にも身に覚えのあった数少ない特技でやりくりできるような仕事を見つけ、さてこれから、やっと安定した生活へ身を乗り出したのだと思っていた頃の話。決して珍しくも無い、この国ではよくある事だったが、つまり。わたしは、やっと手に入れた安定へ向けた道を、一気に失ってしまったのだ。
砂上の楼閣とはよく言ったもので、それは本当にあっけない、安定への終止符だった。夢をかなえられる国、という言葉は必ずしも全ての人間へ向けたものではない。
わたしは、追い出された家の前で暫く途方にくれながら、それでも、まだその両足で立つことが出来ていた。数年前の私だったら、きっとその場で崩れ落ちていただろうことを思えば、まだまだ最悪ではないと思えた。行く当ても無く彷徨っていた私には、その日の宿の選択肢はそう多くなかった。まず、タダでなければならなかった。それから、出来れば屋根がある必要があった。そのときの私の正常な思考回路では、そこまでわかっているのなら、選択は一つだけだった。迷いなく進む足は、夜のネオンのまぶしい街へ。それから、小洒落たいくつもの店を通り過ぎ、薄暗い路地の、その奥。一晩だけでも寄り添おうと、男も女もゲイも集まるその場所に足を踏み入れた。
パブと言うにはいささか雰囲気が違ったが、表面上はそう名乗っているその場所は、かつて私が何度もお世話になった事のある場所だった。やっとサヨナラできたと思ったのに、世の中そう上手くは出来てないってことだ。
大きな荷物を抱えた私が入ってきても、自分のことで精一杯な人間があふれたその場所では、誰一人気にしていない様子だった。わたしは、慣れ親しんだカウンターの隅にバッグを置くと、顔見知りのバーテンに声をかける。するとそのバーテンは、目の前の客をそっちのけで、おや、という顔をして見せた。
「お前、もうここには来なかったんじゃないか?」
からかうようにかけられた言葉でも、付き合いの長さから心配の色も読み取れた。私はしかし、それにあからさまな優しさを返せるほどに真っ直ぐではなかったから、大きくため息をついて手をひらひらと振った。
「逃した獲物は大きかったけど、わざとつかみ損ねたの。刺激があるほうが面白いでしょ」
そんな私の様子を大声で笑って、彼は私のお気に入りのお酒を出してくれた。それは私の故郷のお酒で、ブランド物といえばそうだったけれど、その戦のお酒とは少しだけ癖の違うやっぱりただのお酒だった。ここのマスターが(マスターはゲイだけれど、私とは付き合いをよくしてくれている。いい友人だ)、わざわざ仕入れてくれているものだ。
「で、宿無しか」
見透かしたような言葉は癪に障ったが、その言葉に嘘はない。私は素直にうなずいておいた。
「あいにくと、マスターは新しい恋人に夢中でお前の相手は出来ないと思うぞ」
頼りにしてきた友人もだめだとなると、とうとう私は本当に途方にくれてしまう。体を売って、最低一晩でも宿を取る事は無理ではなかったかもしれないが、私はあいにくとそういう経験も無ければ、度胸も無かった。いや、それよりも。わたしのこの体にある「問題」によっては、寧ろ自分からお金を払っても足りないかもしれない。
「また、バーテンとして雇ってくんないかなぁ?」
無理だと思いつつそうぼやく私を、彼は「わかってるだろ」とでも言いたげな顔であしらった。私も苦笑を返す事しかできなかった。
「でも今日はあいつが店に出て無くてよかった。合わせる顔が無いからさ」
あいつ、とはマスターの事だ。
「まあ、心配はするだろうな。恩を感じてるなら、身が落ち着くまでマスターには黙っておくことだ」
「そーする」
真剣にこれからを悩み始めた私を横目に、バーテンの彼はさっきの客に呼ばれて行ってしまう。わたしは、ここでただ酒ばかりを飲んでるわけにもいかなくて、いかないけれどどうしようもなくて、思考回路はショート寸前、だった。
ぐいっと煽り飲んだ酒が、のどを焼く。故郷を思い出すこのお酒を、本当なら18を過ぎて父と飲み会う約束をしていた事を思い出させて辛かった。辛かったが、何かあればこれを飲みたくて堪らなくなる。故郷できっと家族が元気にしている事が、思い出されて嬉しかった。
空になったグラスを置いて、私が席を立とうとしたとき。
「これ、なんていう酒だ?」
いつの間に現れたのか分らない。空席だったはずの私の隣に、赤いコートを着た派手めの男が座っていた。男の隣にも、その前にも他に人は無く。私に話しかけていることは、よくわかった。
私が飲んでいたグラスをさしているんだから、そんな回りくどい考えをする必要も無かったけれど。とにかく、その男はここら辺では見ない男だった。
年の頃は30から40だろうか。けれど、その声にはまだまだ若さがあり、瞳だって決して年相応には見えない。むしろ、その手入れをしていない無精ひげや白髪が、本当の年齢をごまかしているようにも見えた。
「これは…」
さて、なんと言って誤魔化すか。人は見た目に寄らないから、特別に出されている酒だと知って店に迷惑をかけられても困る。
「まあ、いいか。あそこのバーテンに聞けばいい話だよな」
じゃあなんでわざわざ話しかけたのか、と出かけた言葉を飲み込んだ私は、長居は無用だとその席から腰を浮かせた。とにかく、関わらないに限る。
しかし、とうとう私がその席から立ち上がる事は出来なかった。
「なあ、これと同じのを一杯、俺と付き合ってくれないか」
けっして、腕を捕まれ強引に引き止られた訳じゃなかった。そのうえ、立ち上がるのをわざとらしく引き止められたわけでもない。
たかだか、お伺い、を立てられただけの話だ。それなのに、見詰められただけで動けなくなるとはなんという体たらく。
「いえ、もう…帰るので」
男は、その返事に目を丸くして、それから口端をあげた。
「無い家に帰るのは、あとでもいいだろ」
どうしてそれを、と言うよりも早く、男は新しい酒を二つ注文する。その強引さに押し負けて、腰を再び下ろしてしまった私も私だ。

20121114/4D:無題
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