消えない苦しみ





 エストレアは逃げた。一刻も早くこの場から、少女から離れなければと。

 暗い山の中に飛び込み、奥へ奥へと木々を掻き分けて何処までも進んだ。息が上がってきたところで、近くにあった一本の木に背を預けて凭れ掛かる。
 この山の気温は、夜になると氷龍族からしても低く感じる程に冷えているはずだ。その中に身を投じているというのに、エストレアの身体を巣食う熱は逃げるどころか未だ轟轟と炎を燃やしていた。

 この日も、弟と少女が問題なく無事であることを確認できれば良かった。少女と鉢合わせるつもりなどなかった。ましてや、この瞳で惑わせるつもりもなかった。事が起こってしまった後で自分に弁解したところでただの言い訳に過ぎない。

 行かないで、と懇願してきた声が頭の中で響いている。何も想像するな、と本能をなけなしの理性で押さえつけても、龍族はやはり人ではない。習性という厄介な呪いは、人型の理性で何とか出来る程聞き分けが良くできていない。これだけ離れたというのに、本能は何故獲物を狩らなかったのかと問いかけてくる。
 少女が自分の姿を見つければ、何も考えずに近づいてくることは予想出来ていた。だから後ろ向きを貫こうとしていた。だが、少女は思っていた以上に頑固で子どもだった。行かないでと、他の女の子のところに行くのは嫌だと。振り払うように冷たく突き飛ばしても何度も縋り、エストレアを逃がそうとはしなかった。

 瞳を見ても尚、少女は『正気』であろうとした。固い壁に強く押し付け、恐怖を植え付けようとしても跳ね返され、あろうことか執拗に情欲を煽ってきた。返事をしなければ全く効いていないとでも思っているのか、殺し文句に殺し文句を重ね、誘惑を成功させようとする。
 声を震わせながら紡がれる言葉の数々は、どれもこれも雄には厳しいものばかりだった。通常期であればまた変なことを覚えたのかと軽く流せていたが、問題は今自分が発情期であることだ。しかも、今回は一度も欲を満たしておらず、本能から飢えに飢え、渇きに侵食されている。直ぐに喰らいついていてもおかしくはなかった。
 全ては少女に再会してから。龍族だからと、動物だからと、習性は受け入れるしかないのだと諦めていたのに、抗いたくて仕方なくなってしまった。
 龍族という、自分でも嫌になる枠組みから逃げ出し、出来るだけ人型に近い存在でありたいと願うようになってしまった。

 まだ手に感触が残っている。柔らかな白い肌は牙を立てれば簡単に破れてしまいそうに薄く、小さな肩は力を入れれば握りつぶしてしまえそうだったとこの手が覚えている。
 震えながらも、確かにすべてを差し出す決意を固めた瞳は、むしろこちらが惑わされてしまうような光を孕んでいた。
 想像するな。何も考えようとするな。一度でもそういう目で少女を見れば後戻り出来なくなる。少女が本当に獲物にしか見えなくなる。
 だからあの時、約束した。少女のことを、獲物だと思いたくなかった。

 いくら制止を掛けても脳はそれを鮮明に思い出そうしている。内面はかなり幼いというのに、身体は本人が言う通りある程度出来上がっているから困った。
 それでいてあの声はまずい。元々の声質のせいか、悲鳴が悲鳴に聞こえない。甘えているようにしか聞こえないのは良くない。聞く度に耳に焼き付いて離れなくなる。
 これ以上想像して勝手な妄想を作り上げないように、無理矢理に溢れ出ている魔力を制御する。全身を鋭い痛みが走り抜ける代わりに興奮が和らいで、ほんの少しの安心感を得た。

 逃げられて本当に良かった。あのまま誘惑に負けていたら、少女が泣き叫んでも瞳を使って黙らせて、痛みが快感に変わるまで食らい尽くしていた。
 悲鳴が本当の意味で甘さを携え、蕩けて強請るようになるまで離せなくなるところだった。
 そうは考えても、少女の泣き顔を想像すると煮え立つように興奮していた気持ちが急速に萎えてくる。さすがに涙に喜ぶような、最低な雄には当てはまらなくて良かったと安堵する。

 あれだけひどい対応をしたのだから、今、少女は泣いているだろうか。また、泣かせてしまっているだろうか。ならば、どうすれば笑顔が守れたというのか。
 無理矢理に封じ込めた魔力が宿主の言うことを聞かず、体内で好き勝手に暴れ回る。その苦しみで思わず息が止まる。お陰で滾っていた熱は排出された。

 冷静を取り戻していく頭、それでも嗅覚は求めている甘い匂いを見つけてしまって、自分が動物であることをむざむざと見せつけられた。
 どれだけ離れても、もう、一度触れてしまった。この身に纏ってしまった少女の匂いが消えない。
 少女を食べたいと思う気持ちだけが、いつまで経っても消えない。


  2016/08/11
 第四章5節『蠱惑的な瞳』。その後のエストレアの様子。


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