妄想、葛藤。





 ドラゴンの爪に触覚などないと思っていた。
 金属の如く硬質な輝きを持つ皮膚から生える鋭利な爪は、加減を一つ違えば触れたものを切り刻んでしまう残酷な武器だ。
 この国の頂点に立つ男の側に控える者として、害を排除する為にドラゴンに戻ったこともなければ、実際にこの爪で命を奪ったことはないが、普段腰に差している片刃の剣よりも遥かに切れ味が良いのではないかと想定している。
 その爪を少女の小さな頭に置いた。それも、ただの少女ではない。どうでもいい、興味がない少女などではない。そんな大事な者の頭の上に置く、思い出すだに恐ろしい話だ。
 少女と同じ人型の掌を開いて見つめる。あんな武器を通しても、少女の髪の柔らかさや体温を感じた。あんな姿では笑っても伝わらないと思っていたのに、少女は寂しげに眉を下げながらも大きく目を開いて、確かにこちらの表情に反応していた。

「フルミネ、ご苦労だったね」

 掌をぐっと握り締めた時、前からユビテルが歩いてきた。そう言えば、城の前でずっと立ち尽くしていたのかと思い出す。中に入ってしまえば終わってしまうような気がしたからだ。

「別に、大した労でもねーよ」
「それにしても寂しそうだね」
「……お前は能天気なことに、通常運転だな」
「まあ、また会えるから。ちゃんと、逃がさないように繋いでおいたからね」

 この男のこういう部分に背筋の冷える思いをするのだとフルミネは頭を抱える。これにもあの無表情な男も僅かに動揺し、困惑していたのだから。一体いつから可愛いげが無くなったのかと、穏やかに笑みを浮かべているユビテルを見下ろした。

「フルミネ、寂しげにしている場合ではないよ。現在のエストレアの状態を思えばね」
「は?」

 ユビテルはその人形のような美麗な顔に一層意地の悪い笑みを乗せた。
 聞けば、氷龍族は圧倒的な強さを持ちうる代わりに、何処か不安定な作りにもなっているのだと。結果、急激な気温の変化に体調を合わせることが出来ず、魔力を体内で軽く暴発させてしまい、強制的な発情期に持ち込まれる仕組みだと。
 全てを飲み込んだフルミネは、掌に爪が刺さる勢いで拳を握り締めていた。

「アイツが、食われるってことか」
「それはエストレア次第だね。ショコラとしては何の問題もないだろうけど」

 とんでもない爆撃を落としてユビテルは去っていった。
 それから自分がどうやって自室に戻ったのかは記憶にない。龍族にはあまりにも難易度の高い感情の数々に頭を痛めながら、ただ呆然とベッドに腰掛けていることしか出来なかった。

 あの男の発情期、それは想像を絶する美しさだろう。単に美しいだけであればいいのだが、そこに人の域を超えた情欲が追加される。そんな時に側にあの少女がいる。少女が逃げられるはずもない。
 腹立たしいことに、あの男は存在しているだけでも充分な美貌と魅力を兼ね備えている。発情期に陥った雄龍が如何に蠱惑的であっても、あの男のそれに敵う者はいないだろう。見てしまえばきっと雄でも危うい。
 それだけでも選びたい放題だ。吐いて捨てる程の女が群がる。なのに、それなのにあの男は少女しか見ていない。
 その事実をあの男自身が『心』で
理解していなくとも他者から見れば判る。
 脳が焦がされる程に雌を欲している状態でも、食べたいと思うのはあの少女一人だ。

 この焦燥感をぶつける場所がない。既に身を抉り、血を流し続けている掌の傷程度で収まるものではない。

 少女は、……少女はどうするのだろう。不思議なことにまだどんな雄にも手を付けられていない無垢な少女は、発情期の雄龍に魅了されていたとしても向けられる欲に抗いたくなるはずだ。
 例え人型で言うところの好いた男であっても、剥き出しの欲を見せ付けられればおののく。
 それでも何も抵抗せずに受け入れてしまいそうな少女を思うと、同時にあの男が何処までも憎らしく感じるのは何故なのか。羨ましい、と、本気でその立ち位置が欲しいと思うのはどうしてなのか。

 重い溜め息を吐いた後、フルミネはその先の想像をしてしまった。しなければ良かったと後悔してからでは遅かった。
 あの少女は、どんな表情であの男を見つめて受け入れ、どんな声であの男の名前を呼ぶのだろうか、と。絶望的に後悔した。
 止めようとしても、あの白い肌に牙を潜り込ませればどれほど柔らかいのか、その汗のどれほどの甘い香りに包まれるのか、――は、どれほど温かいのだろうか、と良からぬ邪な妄想ばかりが拡がって、とりあえず近くの壁に額を何度かぶつけておいた。
 発情期では一度で終わることは少ないが、朝が来ても昼を回っても終われる気がしなかった。自分ならの話だ。いや、あの男も終われないと思うが。絶対に終われないと思うのだが。
 生きてきた中でこんなに胸が苦しく、息すらままならないものを抱いたのは初めてだ。これは一体何なのか。胸元を引き裂いて破って、根源を千切って投げ捨てれば収まるか。実際にそうすれば死ぬこと必至だが。

 手からも額からも血を流し、壁やシーツを汚しながらもふと冷静が戻ってきた。気付きたくなかった。一生分からないままでいた方が楽だった。

「……これが、『好き』ってことかよ」

 感情なんて碌なものではない。いっそ泣き出したい気分に駆られた。



 2017/2/26
 人気投票5位。サブ3位。
 フルミネが四章のあの時悶々としていたお話。




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