殺し文句は効いている





「エス……エスが欲しくてたまらないの……」

 甘えた声が耳朶を打った瞬間、思わず息を飲んでしまうのも雄なら仕方ない。出来れば聞かなかった事にしたいけど、逃げられもしないからどうしようもない。
 視界には天井と、肌を上気させて瞳を潤ませているショコラの姿が収まっている。何故か人型にしては軽すぎる重みに押し倒されているわけだ。どういう状況なのかは此方が聞きたい。


 静かな個室のソファーの上を陣取り、本を読み耽っていた。扉が開いたと同時に甘い声色で名前を呼ばれた気がした。けれど、ちょうど本の内容に集中していて生返事だった。
 意識が向いていなくても誰が来たかは分かる。気になる部分が終われば相手をしてやるつもりで放置していたら、急に視界が反転した。

 何が起こったのか、本に栞を差し込んで見上げると、ショコラが切羽詰まった顔をして馬乗りになっている。
 元々白い肌はよく熟れた白桃のように赤みが差し、吸い込まれそうに大きな焦げ茶の瞳は熱を含んで濡れていた。
 ……何だこの状態。
 全く状況が理解出来ないけど、嫌な予感はしている。

「起きた瞬間から、エスに会いたくて仕方なくて……」

 そっと胸の上に置かれた手の熱さに驚いた。普段の体温よりも遥かに高い。
 高熱でも出したのか。話し方も若干呂律が回っていないし、時折苦し気に息を吐き出している。
 何故起きて即座に自分なのかはさておき、熱の場合の選択肢としては間違ってはいない。

「冷やしてやるから、こっちに来い」

 淡く冷気を纏って手を伸ばすと、つらそうにしながらも花が咲いたように笑ったショコラは、嬉しそうに俺の手を掴んだ。
 抱え込むように抱き締めてやるとやたらと嬉しそうにする。変な奴。

 それにしても、ショコラの部屋から此処まではそれなりに距離がある。よく途中で倒れずに辿り着いたものだ。普通に大人しく寝ていた方が楽なはずなのに、じっとせずに動き回る癖は熱でも変わらないらしい。
 熱の場合は粥か、残念ながら氷龍の熱は通常の人型と異なる。人型の熱の対処なんてした事がない。頬に触れてやると火傷しそうな程だった。

「ん……気持ちいい……」

 甘えるようにすり寄ってくる。本人にそんなつもりはなくても煽っているように聞こえる。幾らなんでも気を許しすぎだ。

「何だか、廊下を歩いてる時から男の人が魅力的に見えて……でもエスが良くて……やっぱりエスが一番魅力的だった。見つけられて良かった……」
「…………お前」

 不穏な報告をしてくるショコラの瞳には、僅かに不思議な色合いが差し込んでいた。
 彩度の低さが救いか、本能的に危機を感じた俺は視線を逸らす。至近距離で数秒直視していれば、直ぐに噛みついていてもおかしくない。
 何を仕掛けられたのか、何故人型でそれに陥っているのか。

「龍族の雌の発情期になってる」
「発情期?」
「そう。雌の発情期は大した事ない。このまま眠らせてやるから、今日一日大人しくしてろ」

 雌の発情期は、雄のように欲を満たす為のものとは違い、雄を誘き寄せる為のものだ。
 その気にさせるまでが雌の役割で、結果的に上手く雄を籠絡出来ずとも身体に負担が掛かるわけではない。

 治癒魔法に催眠作用を加えて掛けようとすると、不機嫌にも手を振り払われてしまった。

「このままがいいの」
「俺は良くない」

 いつもは何も欲しがらない癖に、稀に我が儘を言われた時は苦心する。どれもこれも碌でもない事だからだ。今回のはまた一段と碌でもない。
 俺を何だと思い込んで美化しているのかは知らないけど、雄である事に変わりはない。約束を交わしたところで保証出来るものじゃない。

「エスになら何されてもいいよ」

 起き上がったかと思えば、胸元のリボンをほどいて首元を露出させる。鎖骨まで紅潮させた肌が甘い香りを放って、目眩を起こしそうになる。
 本人の意思で言っている事じゃなくても、その香りは毒だ。視覚はどうにか出来たとしても嗅覚はどうにもならない。

「あ、そっか……私色気ないし、こんな下手くそな誘惑じゃ全然ダメだよね」

 自虐が始まった。泣き出しそうな声を聞いて慰めに手を伸ばそうとしてしまう辺り、充分その罠に掛かっている。

「でも、エス……エスが欲しくてたまらないの……」

 …………。今一度、自分の吐いた台詞の数々を一から思い出してほしい。雄からすれば全部殺し文句だ。
 ショコラは自己評価が低すぎる。生い立ちを鑑みればそういう性格に落ち着くのも無理はないけど、他者から見ればその評価は相応のものではない。
 確かに色気はない。だからと言って、何を言っても効果がないと思うのは本人の思い込みだ。
 一般的に考えて、人型では圧倒的に見目の良いエルフの少女にのし掛かられ、殺し文句を重ねられて、全く劣情を煽られない雄がいるわけがない。

 俺に会いたいと思い付きもしなくて、俺を見つけられなかったら、適当に他の雄を見繕ってソレにこの台詞を囁くのか。……無性に腹が立つ。

「エス、怒ってる……? やっぱり私じゃダメ? エスに相応しくない?」
「俺に相応しいって何」

 起き上がって、瞳の光彩を目に入れないように向かい合わせに座る。
 発情期で熱を上げた気持ちが報われないのが悲しいのか、何処と無くおどおどしているショコラの額に口付ける。今の分で大方の熱は吸い取ってやった。

「もっとして……」
「無理。噛みつきそうになる」

 嗅覚だけでかなり中てられている。早く寝かせて離さないと保証が出来ない。
 発情期と言っても、本人はそれで何を求めているのかすら分かっていなさそうだ。徐々に精神が成長しているにしてもまだ全体的に幼い。
 そうやって雄をたぶらかす真似をして、何をされるのかも分かっていない。

今度こそ魔法で催眠を促す。最初は眠気を振り払おうとしていたものの、段々とつらくなってきたのか舟を漕ぎ始めた。
 凭れかかってくる体重を受け止めて、頭を撫でていると寝言に近い呟きが鼓膜を掠めてくる。

「エス……大好き……」
「……ああそう」

 返事をしてやるだけでふにゃりと間抜けに笑って寝息を立て始めた。
 そんな純粋な子どもじみた好意を向けられたところで、幼い欲求に付き合って満足させてやれる程、俺は出来てもいなければ大人でもない。
 約束を守ってやれる程、期待される程人でもない。

 こうして一切の傷を付けずに抱いてやることにすら苦痛を伴う。全てに制限を掛けなければ、まともに触れる事すら出来ない。
 気を抜くと噛みついて食い千切るどころか、さっさと殺してしまいそうになる。
 何度も言われるような優しい種族じゃない。人型からは遠すぎる獰猛な動物。
 それでも、触れる事をやめられない。

「……信じられないくらい可愛い」

 人型の気軽な意味とは全く異なる、龍族特有の意味合いを持つ言葉が口を突いて出た。
 例えその意味を理解出来ず、正しく推し量れないにしても、『大好き』という言葉の軽さはゆうに越えている事だけは確信している。


 2016/07/03
 30万打記念SS。
 エストレア視点ショコラ発情期。



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