
07:空色を孕んで
思っていたよりも早く部長会議が終わって、神童は足早に校舎を出た。新年度が始まって早々にフィフスセクターが差し向けた黒の騎士団に惨敗したことは学校中に広まったため、フィフスセクターの真の姿を知らない一般の生徒たちには冷たい目で見られることが未だある。特に今日のような各部の部長が集まるような場では。
仕方のないことだと、神童は割り切っている。校舎を出るとサッカー棟が見えた。
稲妻のシンボルマークを見て、神童は胸が重くなる。あのサッカー棟は、これまでの雷門が培ってきた努力と掴み取った栄光を讃えたものだ。今の雷門にとって勝利なんて当たり前で、突如現れたチームに負けるなどあってはないことなのだ。
けれど今まで自分が雷門の選手として正しく掴んできた勝利はどれほどのものだっただろう。フィフスセクターの勝敗指示に従って、中には実力で掴んだ勝利も当然あったが、それでも勝利の決まっている試合は何度もあった。敗北の決まっていた試合も。それでも先輩たちが紡ぎ、繋いできた伝統のある部をなくしたくはなかった。だから耐えることを選んできた。雷門中サッカー部を次に繋ぐために、誰かの未来を脅かされないために。
砂を噛むような日々だった。ずっと曇天の下にいるような、何かが足に纏わりついて、思うように進めない日々だった。
そんな中で現れた松風天馬という存在は、一筋の光のようだった。
一粒の砂金、雲間の青、吹き抜ける一筋の風。
何も知らないくせに、と確かに思った。どんな思いで俺たちや、今までのサッカー部が今日まで繋がれてきたか、知らないのだから掻き乱さないでくれと強く。
同時に、お前はサッカー部には入らない方がいいとも思った。心からサッカーが好きだというのは見ればわかった。だから管理サッカーには触れずにいた方が幸せだろうと。けれど天馬は雷門でやるサッカーに純粋すぎる夢を見ていて、同時にサッカーをどうしようもないほど愛していた。まるで友達のようにサッカーを語る彼に、自分も、周りもいつしか引っ張られていたのだ。まだ出会って数ヶ月しか経っていないのに、随分と濃い日々だったなと振り返り、自然と口元が緩む。
自分のサッカー、雷門のサッカーはあの日、天馬からのパスを繋いだ日に、確かに蘇ったのだ。
あのシンボルを背負うことを誇りに思う。今はまだ胸を重くする稲妻も、きっと自分を示すものへと変わっていく。変えていける。
そのシンボルに向かって足を進める。校舎とサッカー棟を繋ぐ橋を半分ほど渡ったとき、橋の隅に青が落ちていた。
神童は思わず目を留める。よく見ると青色の髪をした女生徒が蹲っていた。見るからに具合が悪そうで、神童はそっと彼女の方に近寄っていく。
周りには誰もいない。神童は彼女の斜め前に立ち、膝を曲げた。
「━━大丈夫か?」
声をかけると、細い肩がピクリと動いた。それからゆるりと丸い後頭部が動き、ゆっくりと顔が上がる。髪が重力に従って揺れる。近くで見ると、青と呼ぶには些か乱暴だった。今日の空のような髪色だった。伏せられた長い睫毛が、ほんの少し神童の方に向けられる。瞳の色は海のようだった。
顔を見て、あ、と思う。
知っている顔だった。そう言えば今日は彼女が見学に来ると、天馬がはしゃいでいたことを思い出す。名前は確か、そう、舞風空。
元が白いであろう肌が、血の気がないのか青白くなっている。神童は慌ててそばにしゃがみ込み、再度「大丈夫か?」と問いた。
彼女は重たそうにこくりと頷くが、どう見ても大丈夫そうではない。顔は白く、脂汗を浮かべている。よく聞くと呼吸の音がおかしかった。
「保健室に行こう。歩けるか?」
橋に手をついて、力を入れて立ち上がろうとする。ふらふらと立ち上がる姿に、神童は空の肩を掴んで支えた。この様子では保健室まで歩くのも無理だろうと思い「すまない」と一声かけてから、背中から回した左手をそのままに右腕を膝裏に入れて、スカートの裾ごと持ち上げる。
「保健室まで運ぶ。少し揺れると思うから、悪いけど寄り掛かっててくれ」
言いながら視線を空に落とすと、その目は何かを訴えるように冷えていた。恐らく抱き上げられたことが不本意なのだろう。その冷え切った視線に神童は思わず何も言われていないのに気がつけば口から「ごめん……」とこぼしていた。
暫くジッと冷えた目で見られ、視線を彷徨わせたが、やがて空も諦めたようで静かに神童の肩口に頭を寄せた。それを見て、神童もホッと息をついて、なるべく振動を与えないようにと注意しながら、保健室へ行くための通って来た道を戻った。
◇◇◇
保健室に辿り着くまでに誰にも会わなかった。磨りガラスの嵌められた白い引き戸式の扉に向かって「すみません」と声をかける。
中で椅子を引くような音、ついで小さな足音が段々と近づいてくるのがわかった。
目の前の扉が開く。保健室の先生は神童と空の姿を見ると目を大きく開いた。そしてすぐに扉を開き切って、「ベッドに」と神童に指示を出した。翻った白衣が窓からの太陽光を受けて眩しかった。
保健室には女性の先生が常駐している。養護教諭だ。若い先生で、音無と仲が良いと聞いたことがある。音無とはタイプが違うように見えるが、何か共通点でもあるのかもしれない。
「えーと、神童くん?」
「あ、はい」
「ありがとうね、舞風さん運んでくれて」
「彼女ちょっと体調崩しやすいから」と言って向けた視線の先には真っ白なベッドの上で眠る空がいる。養護教諭の言葉に、神童は微かな引っ掛かりを覚えた。それを解消したくて、やんわりと言葉を紡ぐ。
「彼女は保健室によく……?」
「ん?ああ……よくってほどじゃないけど、たまにね」
「どこか悪いんですか?」
続けて聞くと、養護教諭の瞳がジッと神童を映した。空掛色の瞳が神童を見定めるようで、神童は深入りしすぎた質問だっただろうかと内心で焦りを感じる。養護教諭は暫く神童を見つめて、神童も目を逸らすことなくそれに耐えた。それから徐に養護教諭が首に手を当てて神童から目を外し、首を横に倒しながら困ったように眉を顰める。
「う〜ん、ちょっとデリケートな話なんだけど、神童くんなら大丈夫か……?」
そんなことを言いながら、養護教諭はもう一度空へと視線を落として、再び神童へとその目を向けた。それから交互に空と神童を指差して「友達?」と尋ねる。その問い掛けに、神童は言葉を詰まらせた。
「とも、だち……では、ないですね……ただちょっと顔見知りというか……」
「あ、そうなの」
神童が正直に答えると、養護教諭は拍子抜けと言うように力を抜いた。それから横目で空の方を見ながら薄い唇を開く。
「舞風さんね、ちょっとストレスとかに弱いの」
声は眠っている空を思ってか、先ほどまでより一段小さくなった。それにつられて神童も声を潜めた。
「ストレス……?」
「うん、体質的なもので……人によって様々だけど舞風さんは対人ストレスが特に弱いみたい。今日みたいに発作が出ることもあるし……まだ転校して間もないから、色々不安なこともあるのかもね」
それを聞いて、ピクリと神童の指が無意識に反応した。鍵盤の上ならばポンと短く切れるような音が鳴っていただろう。神童の反応には気付かず、養護教諭は続ける。
「だからって人と関わらない方がいいわけじゃないんだけどね。心を許せる相手が必要なのよ」
養護教諭の視線につられて、神童も眠る空へと視線を向けた。今は呼吸も落ち着いている。顔色も少しよくなったように見えた。
思ったのは、もしかして自分たちのサッカー部への誘いが彼女にとってのストレスになっているんじゃないかということだ。
ざらりと掠めた不安が靄を生む。視線を下げた神童に気付かない養護教諭は、「お茶でも飲んでく?」と声を掛けた。神童が雷門に入学したときには既に養護教諭として配属されていた彼女は、教師としての線引きはしっかりしているのに、あまり圧を感じさせない。
「いえ、部活があるので……ありがとうございます」
「あ、そうか。サッカー部、今大会中か……」
「はい」
保健室には備え付けの水道と小さな冷蔵庫があって、電気ケトルに水を溜めながら、思い出したように視線を上げる。養護教諭は、「頑張って、怪我しないようにね」と薄く笑った。神童も笑みを返す。
「はい、頑張ります」
「じゃあまた明日」
「はい。ありがとうございました。宝城先生」
養護教諭の宝城に見送られて、神童は静かに保健室を出た。廊下に出ると急に気温が下がった気がした。人気のない廊下はひやりとしていて、神童はサッカー棟へと向けて足を出した。
◇◇◇
「えっ、帰っちゃったの!?」
天馬が聞き返すと、葵は眉を下げて頷いた。
「体調が悪かったみたい。今度埋め合わせはするって言ってくれたけど……」
「ええ〜……そうだったんだ。悪いことしたなあ」
肩から下げたタオルを掴みながら、天馬はしょんぼりと項垂れた。休憩に入り、ベンチの方は視線を向ければ、いたはずのクラスメイトの姿がなく、幼馴染の葵から事情を聞いた。空が帰ってしまったことより、体調不良に気付けなかったことの方がショックだった。「仮病だったりして」と揶揄うように言う狩屋を霧野が咎める。
「残念だね天馬」
「うん……明日学校来てくれるかなあ」
信助もやはり残念そうに眉を下げていて、明日元気になっていればいいけれどと心配する。練習が終わったらお見舞いに行ってもいいかな、でも迷惑かもと考えて、そもそも自分は彼女の家を知らないと気付く。
前よりは話すようになったけど、まだ舞風さんのこと全然知らないんだよなあ。自分の話ばかりしてしまうからだろうか、と反省しながら汗を拭う。
「ちゅーか、神童遅くね?」
「そうですね……いつもならもう会議も終わってる頃ですけど」
浜野が人工芝の上で寝転びながら言うと、隣で座ってた速水も眼鏡を押し上げて壁掛けの時計を見上げた。
そのタイミングを見計らったように、扉が開く気配を感じて、みんなの視線が移る。
「遅れてすまない」
「キャプテン!」
入って来たのは神童で、ユニフォームに身を包んだ彼がフィールドに入り天馬たちの方へ歩いてくる。霧野が「遅かったな」と声をかけると、神童は苦笑いをして「ちょっとな」と返した。
「タクティクスは?」
「駄目だ。ディフェンス突破することばっかりに気を取られてラインは超えるし、突破できてもシュートに力が乗りきらねえ」
神童が聞けば、倉間が肩を竦めた。今回のタクティクスのキーパーソンは剣城と天馬だ。倉間は囮役となって相手のディフェンスを引きつける役を買って出た。憎まれ口も多いが、チームのためを思う気持ちは強い。
神童は「そうか」と思案するように頷いてから天馬の方を見た。
「天馬」
「はいっ」
「あとでちょっといいか」
「……?はい」
神童はそれだけ言うと霧野へと声をかけた。天馬は首を傾げる。今じゃなくてあとでの理由ってなんだろう。そもそもなんの用だろう。
「天馬、なんかしたの?」
「キャプテンに呼び出されるなんて相当やばいことしたんじゃない?」
「ええっ?俺なんにもしてないよ!」
横から信助と狩屋に言われたことに、天馬は目を剥いて仰反る。腕を組み、首を傾げうんうんと唸ってみるものの、何も思い当たる節はない。少なくとも、怒られるようなことはしていない……はずだ、多分。
ちらりと霧野と話す神童の背中を見ると、話終わるのを見計らっていた茜が神童へ声をかけているところだった。カラフルな便箋を、微笑んで神童に渡している。
「これは?」
「エアメール」
受け取った神童が、不思議そうに手を返して便箋の裏を見る。霧野も神童の手元を覗き込み、周りも注意を向けていた。神童がなぞるように差出人の欄に書かれた文字を読み上げる。
「にしき、りょうま……錦か!」
名前を読み上げると、パッと神童の表情が明るくなり、他の二、三年のメンバーも笑顔を見せて手紙を持つ神童の方へ寄っていく。状況を呑み込めない一年メンバーが顔を見合わせて首を傾げた。
「皆の衆、まっことご無沙汰ぜよ。錦龍馬じゃ……だってよ」
三国が慣れない言葉を辿々しく読み上げた。文面から思い起こされる錦龍馬という人間に、二、三年たちが表情を緩める。
「相変わらずぜよぜよ言ってるのかよ、あいつ」
水鳥が呆れたような笑みを浮かべるが、そこには懐かしむような優しさもあった。霧野が「錦を知ってるのか?」と問う。水鳥が自称私設応援団としてサッカー部の手伝いをしてくれるようになったのは今年からだ。部内で生まれた接点ではないのだろう。
「龍馬とは一年の時同じクラスだったんだ」
「龍馬だってぇ〜、随分親しげ〜」
浜野のが揶揄うようににやにやと笑う。それを見た水鳥が顔をほんのりと赤くして眉を釣り上げた。「浜野、そこ動くなよ!」「えっ!?」というやりとりを余所に、天馬が「あのっ」と声を上げる。
「誰からの手紙なんですか?」
天馬、信助が並んで正座をして、興味津々といった様子で目を輝かせている。神童はその様子が少しおかしくて、ふっと柔らかく笑ってから「少し待ってろ」と立ち上がった。
すぐに神童は戻ってきて、一枚の写真を天馬たちに見せた。写真を見た霧野が「懐かしいな」と笑う。
写真には、セカンドチームのユニフォームを着た神童たち、今の二年部員が写っていた。
「俺たちが新入部員だった頃の写真だ」
白に黄色のラインのユニフォーム姿は新鮮で、天馬は先輩たちが自分と同じ学年のときの写真だ!と密かに心を弾ませる。写真には黒の騎士に負けて退部した部員たちも写っていて、どことなく胸の奥が苦しくなる。
「そして、こいつが錦龍馬」
神童の長い指が、一人の部員を指差した。写真の真ん中で凛々しく笑う、褐色肌の男だ。
「去年まで、うちの部にいたストライカーだ」
「才能を認められて、イタリアにサッカー留学したんだよ」
「サッカー留学!?」
天馬と信助の声が揃う。サッカーの才能で、海外に留学できるだなんて、酷く遠い世界の話のように思える。けれどたった一年、天馬たちが入学するたった一年前には、その凄い人は自分と同じこの学校の、このサッカー棟で練習していたのだと思うと、ぶるりと震えがくる。
「凄いキック力の持ち主でな。あいつのシュートにはどれだけ痛めつけられたことか」
三国が痛みを思い出すように冗談交じりに手をプラプラと振りながら言うと、それに浜野も視線を上へ向けて言う。視線の先で、ここにはいない錦の姿を思い浮かべているのだろう。
「自分のこと雷門の点取屋って言ってたっけ」
「そういえば、足も速かったよな」
「ついていくのに苦労したド」
「ボールキープも凄かったですよ〜!」
浜野に倉間が続いて、横から天城と速水も得意げに割り込んでくる。同じ場所にいなくても、錦は彼らにとって今も仲間の一人なのだろう。得意気に話す上級生を見て、天馬はそういうのっていいなと心から思った。
「ほんとに凄い人だったんですね。錦さんって」
いつか会えるかな。雷門でサッカーを続けていたら。いつか。
そんな風に思いながら、まだ会ったこともない錦という人間に想いを馳せる。どんな風にボールを蹴る人なんだろう。どんなプレーをする人なんだろう。考えるだけでワクワクする。
「あいつがいたらこのタクティクスも完成したのかな」
フィールドに目を向けて、ぽつりと浜野が溢した。速水が「ああ」と納得したように手を打つ。自然とこぼれ落ちた言葉は不意に出たもので、だからこそきっと心からその可能性を感じたのだろう。
今ここに錦龍馬がいたら、自分たちはもう一歩向こうに進めるかもしれないと。
「いない奴のことを言っても始まらない」
そう言ったのは神童で、その目は遠く先を見据えるようだった。言葉には芯があった。一歩先の足掛かりを探るための導のように。
「休憩は終わりだ。やるぞみんな!」
神童のキャプテンとしての言葉に、それぞれが強く頷いた。天馬も剣城を振り返る。
「必ず完成させよう!必殺タクティクス!」
「言われなくても」
剣城もまた力強く応えて、天馬と共にフィールドへ向かう。錦龍馬という一人のプレイヤーが、今の雷門サッカー部に足りないものを持っているのかなんて誰にもわからない。けれどここにいるみんなでなら、もう一歩、さらに先へと歩めるはずだと、天馬は心から信じている。
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