
03:風そよぐ
帰りのホームルームが終わると、松風天馬の目が輝く。言わずもがな1日の授業が終わると放課後には部活があるからだ。毎日同じことを繰り返している筈なのに、飽きもせずに同じ顔をしているから空は彼のことが不思議で仕方がない。
同じクラスでサッカー部員の西園信助、狩屋マサキ、空野葵も天馬に引っ張られるようにして慌ただしく教室を出て行った。
そんな彼らと入れ替わるようにして、今度は慌てた様子の担任教師が入ってきた。
「悪い悪い、まだみんないるか?宿題に出してたワーク返すの忘れてたから持って帰ってくれ」
教師は教卓の真ん中に積み重なれた問題集を置く。生徒達からは「忘れてくれればよかったのにー」などという冗談交じりの声が聞こえて、みんな教卓の方に問題集を取りに行く。ある程度人が減ってから取りに行こうと決めた空は、だらだらと帰り支度を進めて行く。教室に残る人が疎らになって、教卓に残る問題集も大分少なくなった。そろそろいいかと問題集を取りに行くと、教師は残った問題集の名前欄を確認する。
「残ってるのは狩屋と、空野…それから西園に松風か。あいつらどうした?」
「ホームルーム終わってすぐに部活に行っちゃいましたよ」
残っていた男子生徒がそう答えて、「さよならー」と続けて教室を出て行った。教師は困ったなと呟きながら汗をハンカチで拭っている。その瞬間に、バチリと空と教師の目が合った。
あ、まずい。
ほとんど反射的にそう思い、サッと目を伏せる。
空は帰り支度を終えた鞄を掴み、さっさと教室を出ようとした。
「舞風」
背中に声を掛けられて、ギクリとしながら、空はゆっくりと振り返り、返事をした。
「……はい」
「悪いけどこれ松風達に届けてくれないか?明日提出になってるからさ。舞風確か帰宅部だろ?」
「……」
「な?」
つまり暇だろうと暗に言われているような気がして、空は不満げに目を細めたが教師にそれは伝わらなかったのか、彼はにこりと笑ったまま有無を言わさず、4冊の問題集を空に手渡した。ここまでくると断るのも手間で、空は渋々と頷いた。
◇◇◇
雷門中サッカー部の練習場所は、基本的には2箇所ある。
1つはサッカー棟内の室内グラウンドだ。サッカー棟とは、サッカー部の活躍で名を馳せた雷門中敷地内にある校舎などとは別にある建物で、サッカー部専用の建物である。所謂、大規模な部室だ。
中は室内グラウンド以外にもロッカールームやシャワールーム。大型モニターの設置されたミーティングルームがある。
もう1箇所は第2グラウンドと呼ばれる場所で、正門から校舎に続く道の横にある。野球部と曜日替わりで使っているグラウンドで、今日の練習はそこで行われていた。
「上がれ天馬!」
サッカー部キャプテン、神童拓人の声が響く。薄いグレーの癖毛を靡かせ、部員達に的確な指示を出す。
ゲームメイカーとして有名な彼は、雷門中2年に在籍する男子生徒だ。神童財閥の御曹司でもある。
神童はフィールド全体を見渡しながら、ゲームの流れを読んで行く。その時視界の隅に、普段ならない色を捉えた。
(あれは……)
ベンチにいた葵に話しかけている女子生徒、それは時折練習を眺めている少女だ。
(確か……舞風、空……)
何かを葵に手渡している。受け取った葵はペコペコと頭を下げて、空は鞄を肩に掛け直すと踵を返し、グラウンドを出て行こうとする。
「あっ!」
「!」
不意に天馬の声が上がった。すぐに視線をフィールドに戻せば、パスミスか、はたまたシュートミスか、勢いのあるサッカーボールが葵の方へと一直線に向かっていた。
「葵!危ない!」
天馬が駆け出すがどう考えても間に合わない。神童も駆け出して、少しでも届けば軌道を変えられないかと頭を回す。葵は驚きと恐怖からか身を硬くしている。ボールの風を切る音、誰かが強く地面を蹴る音が、重なり、響く。
間に合わない、その事実に神童は顔を歪めた。
視界の隅で瀬戸水鳥が葵を庇おうと手を伸ばしているのがわかる。けれどそれも間に合うかわからない。唇を噛む、手を伸ばす、その時、
何か重たいものが地面に落ちる音、その地面を蹴る音、スカートが風を孕む音が幾重にも重なった。
視界に入り込んできたのは、鮮やかな青。
彼女は地面を蹴ると葵の前に飛び込み、空中でボールを蹴り返した。
ボールは一直線にゴール前にいた三国太一の元に飛んでいき、彼はそれを咄嗟に両腕でしっかりと受け止めた。回転の掛かったそれは確かな威力と重みを伴っていて、三国は腕の中に収まるボールを真剣な表情で見つめる。フィールドにいたメンバーは呆然とした表情でただ彼女を見つめていた。
「舞風さん……」
トッ、と静かに着地した彼女の背中に、葵が小さな声で名前を呼ぶ。空は振り返り、「怪我は」と尋ねた。
「あ、ない!ないよ!ありがとう!」
「そうか、ならいい」
ハッとしたように葵が返すと、空は興味を失ったように自分のスカートを叩いて整えた。それから何もなかったように、地面に放った鞄を拾い上げる。
そのままグラウンドを出て行こうとする彼女の腕を掴んだのは天馬だった。後ろから突然腕を掴まれて、空はバランスを崩し、危うく倒れそうになる。
「舞風さん!」
不機嫌そうに振り向いた空の目に映ったのは、先程教室で見た時と同じ、キラキラと目を輝かせる天馬だった。青い瞳が光を含んでいる。
「……なに」
「あっ、と、あの!ありがとう!葵を助けてくれて!」
「そのことなら気にしなくていい。偶々居合わせただけだ」
「うんありがとう!それから!」
まだ何かあるのかと、空は僅かに眉を顰めた。不意に空の碧い瞳と、天馬の青い瞳が交わる。海底のような深い色をした瞳と、光を取り込んだ鮮やかな瞳が。
嫌な予感はしていた。それこそ天馬の輝く目が自分に向けられていると気付いた瞬間から。
「一緒にサッカーしよう!!」
その言葉に一瞬、空は息を呑む。
掴まれた腕から熱が伝わって来る。今までに感じたことのないそれに、空は僅かに戸惑い、それから天馬の手を振り払った。
「断る」
極めて端的に、それでいて的確な言葉で、空は返答した。
空はもう天馬を見ていない。それでも天馬はお構いなしにキラキラとした瞳に空を映したまま、言葉を連ねていく。
「さっきのシュート!すっごかった!あんな体勢で飛び込んだのに空中でのフォームは綺麗で!俺感動したよ!」
空は何も言わない。瞳に天馬を映すことはない。ただ向けられている言葉を浴びて、何も表さない表情でただ立っている。
「感動して、もっと見てみたいと思ったんだ!俺、舞風さんとサッカーやりたいんだ!」
弾んだ声は、空の神経を逆撫でた。目を細めて、天馬を一瞥する。それから極めて冷静な声で「そうか」と頷いてから天馬と向き直った。
「君がそうでも、私は違う。サッカーに興味はないし、したいとも思わない。私はサッカーができない。以上だ。失礼する」
つらつらと抑揚のない声でそう言い切ると、空はくるりと背を向けて歩き出した。天馬に捕まらないように早足でその場をあとにしていく。
天馬達は空の背中が見えなくなるまでずっと立ち尽くしていた。
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