
05:黄色と青が広がる世界
「舞風さん! おはよう!」
朝、練習を終えた1年C組の面々が揃って空の席の前に立った。
空は並んだメンツの顔を端から見ていき、眉を寄せる。その表情の変化を正しく受け取ったのは狩屋だけで、天馬や信助はきらきらとした目を向けている。教室はいつもと同じ落ち着かない喧騒に包まれている。その中で、チラチラと視線を空と天馬たちに向ける者もいた。クラスに馴染まずにいる空に積極的に声を掛ける者など限られているのだ。今までは隣の席の天馬だけだったのに、今日はクラス内のサッカー部員全員ときた、様子を窺う者がいるのも当然である。
「……おはよう」
空は一言、誰とも目を合わせることなくそれだけ言うと机の上に出していた本に手を伸ばした。会話を続ける気はないという空の意思表示だ。しかしそれが通用する相手ではないということを、昨日の経験から空はなんとなく察していた。
「舞風さんあのさ!今日サッカー部の見学に来ない!?」
「行かない」
天馬の言葉に間髪入れずに返した言葉は、短くとも確かな意思が込められている。狩屋は内心やっぱりな、と苦く笑い、早々にこの話を終わりに持っていこうとしたが、そうはいかなかった。
「一回だけでも!ね!?」
「うんうん!見たら興味が出るかも!」
天馬と信助が引き下がらず、寧ろ押してダメなら更に押せ戦法に出たからだ。これには狩屋も呆れてため息をつき、葵も困ったように笑った。しかしそんな2人の誘いも空には一切響かず、そのまま担任の教師が教室に入ってきたのでなし崩しに話は終わった。空は静かに息を吐いて、担任の入ってきたタイミングに感謝する。
朝のホームルームが始まり、授業が始まっても天馬はチラチラと空に視線を送っていた。それに気付いていたから空は一切天馬の方を向かなかった。
暫くは言われるかもしれないが、そのうち飽きるだろう。
それが空の考えだった。少しの間こちらが我慢すればいい、それだけのこと。
しかし、朝挨拶をする時、休み時間の度に、帰り際に、必ず天馬は声をかけてくるようになった。基本は挨拶とサッカー部の見学の話。そんな中でポツポツと別の話もしてくるようになった。
「おはよう舞風さん!サッカー部こない!?」
「舞風さんお弁当?俺も!狩屋は購買でパン買ってるよ!」
「円堂監督って雷門のOBなんだけど!凄い人でさ!」
聞いていないこともペラペラと楽しそうに話す天馬に、何がそんなに楽しいんだと空は顔を顰めることも何度かあった。すぐに飽きて諦めると思っていたのに、懲りずに今日で三日目だとため息をついた。
なにが楽しいのだろう。何を求めているのだろう。わからなくて、胃の奥がぐつりと熱を持つ。放課後の廊下は静かだ。空いた窓から入る日差しが白い廊下に照り返し、ほんの少し眩しい。風が頬を撫でるのと同時に、遠くから聞き覚えのある声がした。つられるように目を向ける。見えたのは第二グラウンドだ。今日はサッカー棟は使用せずに、青い空の下を駆け回っている。グラウンドの声は微かだがここまで聞こえてくる。
その様子を、無意識にぼんやりと眺めていた。観察をするわけでもなく、ただ目の前にある光景を目に映す。そうして歩いていると、肩にトンと衝撃を感じた。咄嗟にそちらを見れば、顔の半分まで覆う教材を持った男子生徒と目が合う。くりくりとした青紫色の目。
「あっ」
ぶつかった衝撃で教材のバランスが崩れて、男子生徒の手から溢れそうになる。空は慌てて手を伸ばしてそれを支えた。グラグラと揺れていた教材が安定感を取り戻し、ピタリと止まる。その様子を見て、空と男子生徒は2人して止めていた息をほっと吐き出した。それからまた目がかち合って、生徒はパッと空の方に向き直った。
「すっ、すみません!ぶつかっちゃって……!」
「いや、私も前を見ていなかった。すまない」
幼さの滲む声、藤色の髪は柔らかそうで、丸い瞳はお人好しの印象を受ける。
見たことのない顔だ。少なくとも同じクラスではない。上履きの色を見るからに、同学年だろうとあたりをつける。彼はへにゃりと眉を下げた笑顔で、小さく頭を下げた。
「じゃあ僕行きますね、ほんとにすみません」
「いや」
もう一度ぺこりと頭を下げて、歩き出す。空も彼とは反対方向に足を踏み出した。そのまま、三歩ほど進んだところで、後ろから「うわあっ!?」と声がした。そのすぐあとに、ベシッ、バサバサバサと音が響く。進めていた足を止め、振り返れば先ほどの男子生徒が廊下に膝をついていた。周りには彼が運んでいた教材がばら撒かれている。
空は少し考えて、来た道を戻った。男子生徒の隣にしゃがみ、散らばった教材やらノートを拾っていく。
「す……っ、すみません何度も!」
「いや、いい」
男子生徒が申し訳なさと恥ずかしさで頭を下げる隣で、空は静かに教材を拾っていく。その様子を見て、男子生徒はもう一度小さい声で謝ってから、近くに落ちていた青いノートを拾い上げた。
すべて拾い集めると、空は自分が集めた分を持って立ち上がる。
「これはどこに運べばいい?」
「え……理科室ですけど……えっ!?いや、いいですよ!そこまでしてもらわなくて!」
空が言わんとすることを理解したのか、ぽかんと薄くあけていた口で、慌てて断ろうとするが、空は「理科室か」と言って歩き出した。男子生徒は慌てて立ち上がり、また落とすことのないように教材を持ち直して空を追う。
「あの……本当にこれ以上は……」
「いい、どうせこっちに行くつもりだった」
「いや逆方向に進んでましたよね!?」
食い下がる男子生徒に、空は一瞥をくれる。そうすると男子生徒は黙り込み、眉を下げて空の隣を歩いた。
理科室には誰もいなかった。日当たりの悪いこの部屋は薄暗くて、心許ない。緑色をした4人席の机に荷物を置くと、男子生徒が空の方を向いて丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。結局、ここまで運んで貰っちゃって……」
「いや、そこまでのことでは……」
あまりにも丁寧な謝意に、空は居心地が悪くなる。頭を上げた男子生徒は空を見ると眉を下げて笑った。微笑まれたとき、どんな表情で返せばいいのかわからなくて、空は視線を窓の外へと逃した。それにつられるように、男子生徒も窓の外へ目をやる。
あ、と短く声を漏らしたのは空ではない、男子生徒の方だ。理科室の窓からは、第二グラウンドがよく見えた。空はなんとなく、一度窓の外へ逃した目を、男子生徒の方へ戻す。彼は羨望と、諦観を混ぜたような目でサッカー部を見ていた。
「……サッカーに興味が?」
尋ねたことに、特に意味はなかった。
なんとなく、丸い目には似合わない色を滲ませているのが気になった、それだけのこと。
男子生徒は空の言葉にハッとしたように一度強く瞬きをして、それから空の方を向いた。気まずそうにあちこちに視線を彷徨わせながら、「えっと」「その」と意味を持たない言葉を繰り返す。空が黙って待っていると、最後には横目でサッカー部の練習風景を見て、唇を結んでから、小さくコクンと頷いた。
その意思表示に、空が何かを言うよりも先に、男子生徒は赤らめた顔で笑顔を作り、バッと空の方に手のひらを突き出して横に振る。
「あ、あははっ、おかしいですよね!でもあの、別に入部しようとか……多分、許されないですし……」
「許されない?」
男子生徒の言い方に引っ掛かりを覚えた空は首を傾げた。確かに入部しようと言うなら中途半端な時期だが、許されないということはないだろう。入学式の直前にあった事件のせいで、大所帯だったはずの雷門中サッカー部は一時期、試合出場人数ギリギリまで追い詰められていたと聞いている。今は補欠部員まで揃えられているらしいが、新入部員を拒むことなどないだろう。
熱のない、けど深く澄んだ目が男子生徒を射抜くと、彼は無理に作っていた笑顔を消して、しゅんと項垂れた。それからそっと、またグラウンドの方へ視線を移した。
「……僕の身内が、昔、サッカー部に酷いことをしたらしくて……」
声は沈んでいた。そっと窓ガラスに触れて、掴めない夢を見ているような彼は一度唇をきつく結んで、開いた。
「きっと、僕が入部することで嫌な思いをする人がいます」
丸い瞳には諦めきれない羨望が滲んでいるのだろう。遠くから眺めるだけで、それだけで満足できるならきっと彼はこんな表情をしていない。
嫌なこと、サッカー部に対して。空は彼の横顔を見る。昔、という言葉から察するに、その身内がいた頃のサッカー部員はもういないのではないのだろうか。それともOBで今も繋がりがあるとか、そういう心配はあるかもしれないが、でもそれは、この少年が背負うようなことなのだろうか。
空も彼と同じように窓の外の彼らへ目を向ける。笑っているのがわかる。松風天馬だ。彼を中心に風が吹き始め、笑顔が広がっている。自分なんかをサッカーに誘うくらいだから、きっと。
「……私は、君のことも、君のその身内のことも、サッカー部のこともよく知らないが」
男子生徒がゆっくりと、空の声に惹かれるように、顔を向ける。薄暗い理科室に、窓からささやかな光が差し込む。照らすというには大袈裟な、けれど確かな光がそこにはあった。
「もしかしたら、君の知らないところで、君の身内が犯した罪が赦されていることだってあるかもしれない。関係ないと、笑ってくれる人がいるかもしれない。まあ……どれも楽観的な考え方だが」
淡々とした物言いは、自分には関係のないことだとわかっているからか、松風天馬の人間性を信じているからか、空自身でもわかっていなかった。けれど松風なら、という気持ちがあったのは確かだ。
空は目を伏せて、それから男子生徒と目を合わせた。それはほんの僅かな、一瞬にも満たない時間だったかもしれない。けれどその澄んだ青は他の誰でもない彼だけを映していた。
「君の選択に、後悔がないことを願うよ」
丸い目が、より丸くなる。ぎゅっと眉間にしわが寄って、空はしまった、と思った。ついさっき出会って、互いの名前もクラスも知らないのに、何を言っているんだ自分はと数秒前の自分を叱責する。背中を丸めて俯く男子生徒を前に、空は表情は変えずとも内心ではオロオロと焦っていた。
「すま、すまない。余計なことを言った」
「いえ、いえ……違うんです……」
男子生徒は制服の袖で目元を拭うと、背筋を伸ばし、顔を上げて笑った。眉を下げた、頼りなく、とびきり優しい笑みだった。
「ありがとうございます。僕……少し怖いですけど、頑張ってみます」
何を、とは聞かなかった。代わりに「武運を」と声を掛ける。
「じゃあ私はこれで」と理科室を出ようとする。男子生徒は一瞬躊躇って、扉に手を掛ける空に声を張る。
「あのっ!」
声に、空は足を止めた。彼の丸い瞳が強く自分を映している。窓から差し込む光を背に受ける彼が言う。
「あの……っ!貴方もっ」
「え?」
キンっ、と高い音がした。野球の硬球が、金属バットに当たる音がここまで聞こえてきた。
「貴方も……好きですよね、サッカー」
息を呑んだ。空は目を見開いて、男子生徒を凝視する。その言葉はあまりにも予想外なもので、空の思考を弾けさせた。目の前では男子生徒が視線をあちこちに飛ばしながら、言葉を選んでいる。
「あの、僕ずっとサッカー部を見てて……いつも、貴方を見つけてて……」
続く言葉が、予測できてしまう。空は唇を強く閉じた。
「貴方も見てましたよね?いつも――」
「なにを言っているのかわからないな」
続く言葉が予想できてしまうから、それを遮る。変わらぬ態度で淡々と。空は「勘違いだろう」と続けると、男子生徒が何か言いたげな表情をしているのがわかったが、それには気付かぬふりをして、止めていた足を踏み出す。
理科室を出て、廊下を進む。サッカーグラウンドが見えた。開いた窓から吹き込む風に乗って緑の匂いがした。黄色と青のコントラストが、照り返しよりもずっと眩しく思えて、空は静かに目を閉じる。
数日後、グラウンドを駆け回る黄色と青のコントラストがひとつ増えていた。
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