
06:知らない面影
結論から言うと、負けたのは空の方だった。
三日もすれば諦めると思っていた天馬たちの勧誘は一週間続いた。それどころか二週目に入ろうとしている。
「えっ!」
「……なにをそんなに驚く。自分から誘っておいて」
丸くした目に空を映した天馬が驚きに声を上げる。空が一瞥すると、ハッとしてから「来てくれるの?」と尋ねた。空が目を眇めながらも頷けば、みるみると口元が緩み破顔していく。
「ほんとにいいんだよね!」
「見学だけだ。入部はしない」
「それは見学してから決めてよ!」
嬉しそうな声色に、空は呆れるが天馬は本当に嬉しそうに笑いながら、「俺、先輩たちにも伝えてくる!」と走り出した。廊下を走るのはやめたほうがいいんじゃないかと思ったが、別に止めることもしなかった。
あまりにも懲りない勧誘に、とうとう空は「見学だけなら」と誘いを受けた。しかし誘いを受けたのは、あくまで天馬たちを諦めさせるためだ。見学してから、やはり入部する気にはなれないと言えば、さすがに諦めるだろう。つまり空は誘いを断るために見学を受け入れたのだ。
ため息に近い息を吐き出してから、教室に戻る。
自分の席に着こうとすると視界の低いところから声を掛けられた。
「舞風さん!」
「西園」
今日もトレードマークの青いバンダナを巻いている信助は、空を見上げてはちきれんばかりの笑顔を見せた。信助は小さな体を大きく動かす。開かれた両腕は万歳のようにも見えた。
「さっきの話、聞こえたんだ!サッカー部に来てくれるの!?」
「見学だけだがな」
答えれば「やったあ!」と飛び跳ねる。天馬のそうだが、そんなに嬉しいものたろうか空は首を傾げた。彼らの喜びは、いまいち空の感覚とズレたところにあるようだった。
「……聞くが」
「うん?」
「何がそんなに嬉しい?」
問えば、信助はきょとんとした顔で首を傾げた後、すぐに笑顔になった。
「だってさ、仲間が増えるって嬉しいよ!」
その言葉に、空は瞬きを忘れる。
空には思いのよらない答えに、返す言葉が見つからず、「そうか」としか言えなかった。
「入部はしないがな」
「ええ〜」
それが精一杯だった。
◇◇◇
秒針の進む音が、鬱陶しいくらいに響いた。
普段なら気にならないその音が頭に響く。その音に合わせて脳が脈を打っている。
体調に変化を感じたのは5限目の授業も半ばに差し掛かった頃だった。
覚えのある感覚に、空は額を指先で押さえる。今日は5限で授業は終わる。そしたら……そうだ、今日はサッカー部に行かなくてはいけない。ちらりと横目で隣に座る天馬を見れば、そわそわと落ち着きなく時計を見ている。授業はちゃんと受けろと思いながら呆れていると、不意に天馬も空の方を見て、目が合った。
ドク、と鈍く心臓が鳴った。天馬は嬉しそうに破顔してにこにこと空を見る。逃げるように視線を黒板に戻した。あの笑顔に、今日は断って帰るという考えが掻き消される。シャープペンを握る手に、力が入った。
「舞風さん!部活行こう!」
帰りのホームルームが終わって早々に、天馬は鞄を掴んで立ち上がった。空はと向けた顔は大きな目をきらきらと輝かせている。空は一度静かにため息を吐いてから返事をして、同じように鞄を持って立ち上がった。
サッカー部は、その実力から専用の練習施設を構えられている。校舎を出て、一本の幅広い橋を渡った先に建つ建物こそサッカー部部室兼専用グラウンド、サッカー棟。雷門中サッカー部の権威である。室内の専用グラウンドを保持しているサッカー部だが、公式の試合は屋外で行われることも多いため、天候などの影響を考慮し、野球部と曜日替わりで屋外にある第二グラウンドも使用している。サッカーで名を挙げた学校なだけあり、サッカー部に対して好環境を整えてある。サッカー棟には校舎と同じく学校のシンボルでもある稲妻マークが掲げられているのを見上げて、空は天馬達に続いて中へと入っていった。
軽い足取りで進む天馬と信助の背中を見ながら、空は視線だけを動かして初めて入るサッカー棟の内部を観察した。扉は自動ドアがほとんどで、建物自体の劣化もない。清掃もきちんとされている。入り口から真っ直ぐに進んだ両開きの扉が開いて、そこに躊躇わず天馬が足を踏み入れる。
「お疲れ様です!」
天馬に続いて信助たちも各々のテンションで挨拶をしていく。空は小さく頭だけ下げて中に入った。
「早いわね、みんな」
中に入ると一人の女性が立っていて、天馬たちに声をかけた。
肩につかないくらいの青みがかった灰色の髪には緩いウェーブがかかっていて、赤いフレームの眼鏡を頭に掛けている。若い女性だ。
「あら?貴方は……」
「同じクラスの舞風さんです!今日はサッカー部の見学に来てくれました!」
天馬が簡単に空を紹介すると、今度は空の方を見て、「音無先生だよ!サッカー部の顧問なんだ」と教えてくれた。空たちのクラスの担当は持っていない教師だが、何度か校内で見かけたことがある。空は「よろしくお願いします」と会釈した。
すると音無は合点がいったように「ああ!」と笑顔を見せた
「貴方が噂の舞風さんね。天馬くんたちからよく話は聞いてるわ」
なんの話をしているんだ、という意味を込めてジロリと横目で天馬を見ると何も伝わらなかったようで満面の笑みを返され、空は噛み合わないものだなと諦めた。
空が諦めると同時に、背後で入り口の開く音がした。扉の向こうから男子生徒たちが入ってくる。
「うお、ほんとにいる」
「ほんとに連れてきたんですね、天馬くんたち……」
最初に、肌の焼けた男子生徒が空を見た。ぱちぱちと瞬きを繰り返す。癖のある髪は上を向き、ゴーグルを額でとめている。隣にいた細身で眼鏡を掛けた男子生徒も驚いたような、或いは戸惑ったような声で呟いた。
空が小さくお辞儀をすると、桃色の髪を二つに括った生徒が空の前に立った。整った顔立ちで、エメラルドグリーンの瞳が鮮やかだ。彼は穏やかに微笑む。
「サッカー部の見学に来てくれたんだってな。天馬たちから聞いてるよ」
「今日はお世話になります」
「二年の霧野蘭丸だ。よろしくな」
「舞風空です。よろしくお願いします」
向かい合う霧野と空の傍から、天馬が「霧野先輩はね!DFの要なんだよ!」と注釈を入れてくる。霧野は「恥ずかしいからやめてくれ」と照れ臭そうに笑った。
また扉の開く音がして、そちらに視線をやると男子生徒が二人。一人は天馬たちと同じ制服を着ているとは思えない着崩しをして、もう一方は模範的な着こなしをしている。模範的な方と目が合った。
「あ!」
「君は……」
優しい藤色の髪に、くりくりとした人の良さそうな瞳。その大きく見開かれた丸い目に自分が映っている。彼は空を見て嬉しそうに笑うとパタパタと小走りで駆けてきた。
「天馬くんの言ってた見学の人ってあなただったんですね!」
「ああ……君は、サッカー部に入ったんだな」
「はい!」
勢いに空が気圧されながらも、藤色の少年は目を輝かせて言葉を紡いでいく。周りがキョトリとした表情で二人を見ていた。それに気付いた少年がハッとして、慌てて一本下がって空と距離をあけた。
「輝、舞風さんと知り合いなの?」
「え?あ、う〜ん……知り合いと言うほどでは……」
天馬が尋ねると、輝と呼ばれた少年は頬を赤らめたまま苦笑して頭を掻く。空は天馬たちの様子を見て、彼がこの部に馴染んでいるとわかり、顔には出さずに安堵した。理科室での会話をしてから、彼がこのサッカー部でどう過ごしているのか、焚きつけた身としては密かに気にしていたのだ。
輝の後ろで、、狩屋が小声で葵に「どういう関係?」と手元を口で隠しながらと聞いているが、葵は静かに首を横に振っている。それに気付いていなのか、輝は空を見て「そう言えばまだお名前も聞いてませんでしたよね」と言った。空も確かにそうだったと頷く。狩屋が顔を顰めて自己紹介を始める空と輝を見た。
「舞風空だ。今日は見学に」
簡素な挨拶にも、輝は目をきらきらと輝かせて口角を上げた。そしてにこにこと笑ったまま、自身の名前を口にする。
「影山輝です!よろしくお願いしますね、舞風さん!」
一瞬、なにを言われたのか理解できなくて、一拍遅れて警鐘を鳴らす心臓に忘れかけていた頭痛がぶり返す。
空の碧い瞳が微かに揺れた。理科室で交わした言葉が蘇る。曖昧だった話の輪郭が浮かび上がっていく。
「舞風さん?」
天馬に名前を呼ばれて我に帰る。「どうかしましたか?」と首を傾げる輝の奥に記憶の中の人物を重ねる。しかし、ぴたりと重なり合う部分はないようで、それだけが救いのような気もした。
空は細く息を吐く。
「いや……なんでもない。よろしく影山」
「はい!」
改めて言えば、輝は大きく頷いて、何故だか天馬も嬉しそうに笑っている。そのあとも次々と部員が揃い始めて、その度に刺さる視線に居心地の悪さを感じていた。
「そう言えば、神童キャプテン遅いですね」
「ああ、神童なら今日は部長会議があるから遅れて来るよ」
「監督たちも吹雪さんと試合に向けて打ち合わせしてるわ」
信助が言うと霧野が答えて、それに音無も続いた。そう言えば、サッカー部のキャプテンは二年が務めているんだったなと思い出す。まだ三年も引退する時期ではないのに、あまり例を見ないことだ。
ほとんどの部員が集まった室内を見て、強豪と呼ばれるには人数が少ないなと改めて思う。まあそれも仕方がないのかと一人納得したところで葵に呼ばれ、空はそちらに足を向けた。
◇◇◇
室内グラウンドに案内され、ベンチで見学を促された。空が大人しくそれに従うと、葵と一緒にいた女子生徒二人が声を掛けた。オレンジ色のロングヘアーに、緑色のヘアーバンド。つり目ガチの瞳に、足首までのスカートはいわゆるスケバンを連想させた。
「アタシ瀬戸水鳥、よろしくな。で、こっちが」
「山菜茜。よろしくね」
スケバンは瀬戸と名乗り、隣に立っていた水色のジャージを着た生徒は山菜と名乗った。薄茶色の髪を三つ編みにして、手にはピンク色の可愛らしいカメラが握られている。
「茜と葵はマネージャーだけど、アタシはただの私設応援団だからさ!」
「応援団……?」
「そ、天馬の生き様が気に入ってな」
空はよくわからずに首を傾げたが、道理で一人だけ制服なわけだと納得もした。しかしそうは言いつつも、水鳥は葵や茜に混じってタオルを用意したりドリンクを運んだりと動き回っていた。面倒見がいいのだろう。
そうしている間に、フィールドでは天馬たちが揃いのユニフォームを纏ってストレッチを始めている。ストレッチから、軽く走り込み、それからパス練習が始まった。白と黒のボールがペアによっては緩やかな放物線を描き、また別のペアでは真っ直ぐに相手に飛んでいる。
輝は入部して間もなく、ボールを蹴り始めたのもつい数週間前だと言う。確かに動きはぎこちないところもあるが、数週間前にサッカーを始めたとは思えないほどに上達している。
選手たちの足音が頭に響く。掛け合う声が、何重にも重なっているように聞こえた。
暫くするとフォーメーションの確認に入り、選手たちが陣を組む。六人編成のようで、三人ずつに分かれ二列になっている。各列最後尾にいる天馬と剣城がパスを繰り返しながらゴールへと向かう。
変わった陣形だなと空は痛む頭で考えた。
「あれは次の試合の切り札なの」
そう言ったのは、いつの間にかベンチに座る空の脇に立っていた葵だ。「切り札?」と聞くと、葵はこくりと頷いた。
「次の相手、白恋中の絶対障壁を破るにはあのタクティクスの完成が不可欠なんだけど……」
「見ての通り、全然上手くいかないんだよな」
話に加わった水鳥の視線の先では、天馬と剣城のパスが乱れて陣形が崩れていく。
パスが途切れてしまえば意味をなさないタクティクスなのだろう。けれど剣城のパスに天馬がついていけていないようだ。
「もう一回!」
天馬の声がフィールドに響く。なんとしてでも形にしようという強い意志を、その声から、目から、関係者ではない空にもわかる。
周りも諦めずにタクティクスの習得に励んでいる。きちんとしたチームだと、素直に思った。
試合は目前のはずだ。けれど一切諦める空気を感じない。何度もみんなで走り続けて、疲労だって溜まっていくはずなのに、その目は死なない。それどころか
(ボールを蹴ることが嬉しいみたいな顔をする)
目を細める。眩しいのだ。ユニフォームの黄色が目に痛い。痛む頭が思考を鈍らせる。フィールドを駆ける彼らを、ボールを繋ぐ彼らを、羨ましいなと思った。思って、自分がそんな感情を抱いたことが信じられなかった。
自覚して、心臓が跳ね上がる。ドクドクと血の流れる音が頭に響いてしかたがない。自分の呼吸が、心臓の音が、天馬たちの声が、全部頭の中で響いている。
「舞風さん?」
隣から声を掛けられてハッとした。葵が心配そうに眉を下げて空を見ている。水鳥と茜も空を見ていた。
「大丈夫?なんだか顔色が悪いけど……」
「体調でも悪いのか?横になるか?」
「無理は禁物」
それぞれ色が違う瞳に自分が映っている。グラグラと揺れる思考と鈍る判断力。
ああ、駄目だと思う。空は額を押さえるが熱はない。その仕草を見て、葵が気遣わしげに声を掛けた。
「保健室行く?」
「いや……問題ないが、すまない、今日はここで失礼する。松風たちには埋め合わせはすると伝えて欲しい」
「それは全然大丈夫だけど……」
葵が言うよりも早く、空は立ち上がり鞄を掴んだ。水鳥と茜に頭を下げてベンチを離れて音無の方へ向かう。事情を話して今日は帰ることを伝えると一人で大丈夫かと聞かれたが問題ないと返して、背中に葵の視線を感じながらサッカー棟を出た。
まるで何かに追われるように足を早める。外に出た。室内よりも冷たい空気に、酸素を取り込む量が増えた気がした。
少しでも早く、ここから離れたい。そう思うのに思うように進めない。酸素が足りない。酸素を吸おうとして呼吸が細くなるのがわかる。
サッカー棟と校舎を繋ぐ橋の中腹で、視界が歪み始めたことに気付いた。端に避けて、手摺りに体重を預けながらゆっくりとその場に蹲る。ぐるぐると目が回って、体が揺れている気がした。そんなはずはないとわかっているのに。
ドクドクと、鼓動が直接耳に響く。落ち着け、と目をきつく瞑って自分に言い聞かせる。呼吸をしなければ、ちゃんと。わかっているのに喉の奥が細い音を立てている。自分の心臓の音と、喉の音しか聞こえない。
「━━大丈夫か?」
聞こえた自分以外の唯一の音に、空はようやく閉じていた目を薄く開いた。
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