路地裏で








聞き覚えのある声が、微かに聞こえた。雑踏に入り混じって、気のせいだろうと思えるような小さくて細やかな、そんなものだ。

けれど何故だかそれがどうしても気になって、雨季は今通ってきた道をゆっくりと戻ってみる。何もなくて気のせいならばそれでいい。なんだ気のせいだったのかと肩を撫で下してすぐにまたいつもの道を歩いていける。

そろそろと注意深く、細い糸を手繰り寄せるように、今来た道を戻っていく。耳を澄ませるとやはり声が聞こえてくる。耳を頼りに息を潜めながら足を動かしていると、店と店の間、完全な日陰の路地裏から話し声が聞こえてきた。

あまり近づき過ぎないように、大通りの補正された歩道からそっと覗き込む。映り込んだ光景に、雨季は目を見開き静かに息を呑んだ。

男が2人立っている。その男達の向かい、店の壁を背に座り込んでいる長髪の男。灰色の長い髪に、褐色の肌、紺色のブレザーは星章学園の制服だ。彼を雨季は知っている。

灰崎凌兵。星章学園のサッカー部のエースストライカーのような立ち位置にいる彼と、雨季は友人とも知り合いとも呼べない、名前のわからない関係を築いている。

そんな彼に、暴力を振るう男が2人。無意識に鞄を掴む手に力が入る。
ジリ、とやはりこれも無意識に一歩後ずさった。すれ違う人の声も足音も全てが遠のいて、思考が掻き乱される。

(止め、ないと……こういう時ってどうするんだっけ、鬼道に連絡する?今どこにいるかわからないのに?警察、に──)

鞄の中から携帯を取り出そうとして、ハタと気付く。
それはまずいのではないかと。灰崎はサッカープレイヤーで、いくら試合に敗れたからと言って彼のサッカーが終わったわけではない。下手に大事にしてしまえば彼の今後に影響が出るかもしれない。

雨季は逡巡して、それから1つの答えを導き出し、グッと唇を噛む。それから真っ直ぐに日陰の中を見据え、カツリとローファーの靴音を慣らしてから一歩影の中へと踏み出した。





カツリと、硬い音が聞こえた。そのすぐ後に、僅かに震えた高い声が狭い路地裏に反響した。

「何してるの」

声は震えていて、けれど強い意志を感じられるような気高さを持っていた。

声の方に顔だけ動かして向ける。その姿を霞む視界に捉えた瞬間に、灰崎は大きく目を見開いた。

「お前……!」

口の中が切れていて、言葉を紡ぐ度に口の中に鉄の味が広がる。
2人組の片方が、雨季の方へと体を向けた。

「はあ?なんだお前」
「……それ以上続けるなら、警察呼びますよ」

目を細めて、見せつけるように携帯を掴む雨季は灰崎の方を見る余裕などないのか、無理やり喉の奥から引っ張り出したような声で2人組の男と向き合う。足はよく見れば微かに震えているし、固く引き結ばれた唇に、どれだけの決意を持ってここに踏み入ってきたのかを考えさせられた。

「何、あんたも遊んで欲しいわけ?」
「はっ、そりゃいいな。よく見りゃ結構可愛いし──」

男の1人が、雨季へと距離を詰めて手を伸ばす。雨季の淡い紫色の瞳に僅かな恐怖の色が灯ったのを灰崎は見逃さなかった。体の痛みなど忘れて、瞬時に立ち上がり、男の肩を強く掴む。

「そいつに触るんじゃねえ……!」

灰崎の動きに、男達だけでなく雨季も驚いたように目を丸めた。
肩を掴まれた男は、不愉快そうに眉を寄せる。

「はあ?なんだよお前──」

ギリ、と肩を掴む手に更に力が入る。赤い目は手負いの獣そのもので、その気迫に男は唾を飲んだ。それから灰崎の手を振り払うと肩を強く押しのけ、その衝撃によろけて灰崎は壁に体を打ち付けられる。

「灰崎!」

雨季は男の横を抜けて灰崎の元へ駆け寄り体を支える。2人組の男は雨季と灰崎を見下ろすと鋭い舌打ちを落として路地裏を抜けて行った。2人の姿が見えなくなって、雨季は漸くホッと息を吐く。

「灰崎、大丈夫──」
「っ……にして……」
「え?」

灰崎の掠れた声が上手く聞き取れずに眉を下げながら聞き返すと、灰崎は目に怒りを灯して雨季を映す。振り乱された髪から普段は隠れている右目が露わになって、両の瞳で雨季を見据える。

「何してんだてめえは!」

その声と気迫に、雨季は肩に触れていた手を離す。びくりと肩が跳ねた。

「何考えてやがる!てめえには関係ねえだろ、首突っ込んでんじゃねえよ!」

怒りに吠える灰崎に、雨季は一瞬驚いたものの、すぐにきつく目を細めた。それから灰崎の襟を掴む。予想外のその行動に、灰崎は目を丸めた。

「何してるのはこっちの台詞。馬鹿なの、そんな怪我までして……!」

きつく結ばれた唇の隙間から、震えた吐息が漏れている。目にはうっすらと涙が滲んでいるようにも見えた。

雨季の声を荒げる姿も、泣くところも、灰崎は一度も見たことがない。
いつも淡々と、少し自信のなさそうに佇む彼女が灰崎の知る雨季だ。
いつも自分の居場所がないように視線を泳がせる彼女は、こんなことはきっと酷く苦手なのだ。荒事に首を突っ込むなんてことを、できればしたくないのだろう。
その雨季が、こんな日陰など似合わないような彼女が、自分の弱さを無視して足を踏み出したのだとしたら。

「……この、状況で」

俯く雨季の表情を、細く柔らかい彼女の髪が隠す。声は弱々しい。けれどそれは凛とした響きを持っていて、灰崎は息の仕方を忘れた。

「通り過ぎるとか、出来ない……!」

その声があまりにも切実で割れ物のように澄んでいたから、睫毛の向こうに見えた瞳が淡くとも確かな輝きを宿していたから、灰崎は初めて彼女の心に触れた気がした。