残響ユートピア02






 あのヘドロ敵の事件から一週間が経った。敵に翻弄されながらも、その個性とタフさで耐え、ヒーローにすら称賛されたことで、爆豪はちょっとした有名人になった。
 オールマイトが事件を解決したことでニュースにも取り上げられ、学年を問わず学校の生徒、教師陣、他校でも名を知られ、注目を浴びている。
 一方で、爆豪を救けようと飛び出した緑谷の名前はあまり上がらなかった。少なくとも学校内で良い話は上がっていないと奏は思う。
 無個性なのに、目立ちたかっただけ、自殺志願。
 爆豪を持ち上げる声に潜んで、校内にひっそりと湧いた噂レベルの話題は、いつしか忘れ去られていった。
 そしてあれから、幼馴染みに変化が現れた。
 一つは爆豪が緑谷に絡まなくなったこと。元より距離のある二人だったが、爆豪の方から必要以上に近付かなくなった。緑谷を馬鹿にするような態度もなくなり、代わりにいつも気難しそうな顔をしていることが増えた。
 諍いが減った、と考えれば良いことかもしれないが、奏からすれば不穏な違和感しか感じない。
 もう一つの変化は緑谷にあった。緑谷はあの事件から、どうにも様子がおかしい。それこそ爆豪の比にならないほどに。いつも眠そうで顔色が悪い。暇さえあればハンドグリッパーを握るなどして筋トレをするようになった。緑谷のクラスでは早くも受験ノイローゼになったのではないかと噂されているらしい。
 「どうかしたの?」「何かあったの?」と何度か聞いたが、曖昧に笑って誤魔化されてしまうだけだ。思い当たる節が全くないわけでもないが、それを自分に隠す理由がわからす、奏の心中はすっきりしなかった。

 桜ってあっという間に散るんだな、と奏はこの時期になると毎年同じように思う。咲くまでは長いのに、散るのは一瞬だ。昇降口で、舞い散る桜を見ながら緑谷を待っていた奏は、さすがに遅いなと壁に掛けられている時計を見上げた。
 帰りのホームルームはもう終わっているはずだ。昇降口から出てくる生徒も疎らになってきたが、幼馴染の姿は依然見えない。奏は靴を上履きに履き替え、校舎に入る。放課後になると校舎内の雰囲気は昼間のそれとはガラリと変わる。外からは野球部の掛け声が聞こえてくる。別の方向からテニスボールの弾む音がして、音楽室からピアノのと合唱が聞こえ、どこかの教室で交わされている密やかな会話が聞こえてくる。
 白い階段を上がっていく。自分の教室を通り過ぎ、隣の隣へ。教室の後ろ側の扉は開いたままだった。入ると、がらんとした教室の、一つの机に突っ伏すボリュームのある癖毛。
 奏はそろりと足音を消して歩き、突っ伏す緑谷の横に立つ。反応はなく、そっと腰を屈めて様子を窺う、両腕を枕にして、小さな寝息を立てている。
 奏は緑谷の前の席の椅子を引いて、音を立てずに座った。背凭れに肘を置いて、緑谷のつむじを見る。開けたままの窓から入る風に気付いて窓の方へ目を向けた。窓枠に切り取られた青い空が眩しくて目を細める。春の暖かな日差しの中で、緑が透けて風が光る。奏の癖のない髪と、緑谷の癖毛がそよそよと揺れた。
 ふと、視線を動かすと緑谷が枕にしている腕の下に一枚のプリントが敷かれていることに気付いた。進路希望調査票という見出しに、提出するものがしわくちゃになっていたらまずいのではないかと、奏はそっとプリントを抜き取った。思っていたよりも簡単に抜き取れたそれは、もう回答欄が埋められている。
 第一志望の欄に、見慣れた癖のある文字で雄英高校と書かれていた。
 春の日射しにプリントを透かしてみる。書き直した跡はなく、文字は迷いもなくはっきりと書かれていた。視線をプリントから緑谷に移す。まだ起きる気配はない。外はまだ明るく、日は高い。けれど昼の終わり、夕暮れの始まる空気だけは感じ取れる。奏はプリントを机に戻して、眠る緑谷を見ていた。
 奏はまだ、緑谷の口から志望校の話を聞いていない。


 どれくらい経っただろうか。緑谷が何度か身動ぎを繰り返して「んん……?」と小さな呻き声を漏らす。それからゆっくりと頭を持ち上げて、寝惚け眼と目が合った。

「……かなちゃん……」
「おはよう出久。よく寝てたね」

 奏が微笑むと、緑谷はぼんやりとした表情のまま首を傾げて、ゆっくりと教室を見渡した。自分たち以外は誰もいない教室を見渡すと、ハッとしたように奏に視線を戻した。

「あれ!?僕寝て……ホームルームは!?」
「とっくに終わってたよ」
「嘘だろ……今!今何時!?」
「4時回るところ」

 壁にかけられた時計を指差すと、緑谷はアワアワと口を動かして血色の良くない顔を更に青くする。やっぱり目の下の隈は段々と濃くなっている。

「ご、ごめんかなちゃん!待っててくれたんだよね!?すぐ帰る準備するから……!」
「いや、いいよ急がなくて」

 勢いよく椅子から立ち上がり、バタバタと机の中の教材や筆箱をいつものリュックに詰めていく。途中、机の上に出したままだった進路希望調査票の存在に気付いたようで、ハタと動きを止めたと思ったらダラダラと汗をかきながら慌てた様子で用紙を回収した。奏が頬杖をつきながら黙ってその様子を見ていると、緑谷は怒られるのを待つ子供のようにチラチラと奏へと視線を送っている。

「……かなちゃん」
「ん?」

 緑谷は気まずさに耐えかねるように渋い顔をして、一度視線をさまよわせた後、再び奏へ目を向け、恐る恐ると口を開いた。

「み、見た……?」
「うん」

 頷いて返せば、緑谷はピシリと雷にでも打たれたかのように体を硬直させた。
 直後、緑谷の心拍数が上がるのがわかる。息遣いも荒い。雲が流れて太陽を覆ったのか、教室の中が薄暗くなる。
 奏は暫く、緑谷が何か言葉を紡ぐのじゃないかと待っていたが、それよりも先にチャイムが冷たく鳴った。その音にすら身体をビクつかせる緑谷を見ながら、奏はゆっくりと立ち上がった。

「――帰ろうか」


△▼△


 階段を降りる足が重かった。こんな時ばかり誰にもすれ違うこともないまま、緑谷は奏の三歩後ろを俯きながらついていく。
 頭の中は、先程の教室での出来事がぐるぐると回っていた。隠してしまった進路調査票に、胸の奥でつかえた言葉、鳴り響くチャイム。
 なんで言えなかったんだろう。雄英のヒーロー科を受験するって。言わなきゃと思ったんだ、"秘密"はあっても、それだけは。
 一週間前の事件の後、緑谷は身の丈にあった将来を考えようと吹っ切れた。無個性の自分では人を救えるヒーローになれないと、長い執着を漸く諦めようとしていた。
 けれど会ってしまった。夕日が照る帰り道に、桜が散る春の中で。

――君はヒーローになれる。

 その言葉は、幼い頃からずっと誰かに言って欲しかった言葉だ。それを憧れの人に言ってもらえた。あの言葉が胸の奥で響いている。
 憧れの人、オールマイトは言った。僕はヒーローになれると。そうして自身の個性の秘密を明かしてくれた。
 ワン・フォー・オール。世間に公表されていない、オールマイトの個性。それは聖火の如く受け継がれてきた力の結晶。そしてそれの後継として、無個性でなお、人を救けるために駆け出した緑谷に見出した。
 断る理由なんてどこにもなかった。憧れの人が秘密を明かし、ヒーローになれると言ってくれて、断る理由なんてどこにも。
 現No.1ヒーローの個性を受け継ぐ。急激に未来が開けていく気がした。諦めかけていた道がはっきりと示されるような、聞こえもしない福音が鳴り響くような気がした。
 しかし、世界はそんなに易しくできていない。生半可な覚悟では到底成し遂げられないのだと突きつけられていた。
 何代にも渡り受け継がれてきた力、今の緑谷には、それを受け入れるだけの肉体が出来上がっていない。
 オールマイト曰く、身体の出来上がっていない状態で力を受け取れば、身体が耐え切れずに四肢が爆散するだろうとのこと。ゆえに、まず緑谷に必要なのは個性を受け入れるだけの器――身体作りであった。しかし緑谷は中学三年生、受験生だ。志望校はオールマイトの出身校である難関の雄英高校。ヒーロー科の入試試験に合わせて、十ヶ月で身体作りを完成させなければいけない。のんびりとしていられない。受験勉強だってしなくてはいけない。やることは山のようにあった。
 すでにオールマイト考案の「目指せ合格!アメリカンドリームプラン」は始まっている。体力作りのトレーニングに食事のメニュー、睡眠時間までが分刻みで組まれている。
 日々追われるようにそれをクリアしていく。スケジュールに身体が馴染むまでは当分かかりそうだった。そのせいか眠気は取れないし身体が重いということがよくある。
 それでも諦める気は毛頭なくて、緑谷は今もハンドグリッパーを片手に持っていた。
 奏が緑谷の異変に気付いていることはわかっている。今日までに何度か心配されているのを笑って誤魔化してきた。
 秘密は明かせない。けれど進む道は示したい。
 進路の話が出る度に、雄英のヒーロー科を受けると言わなければと思った。思ったけど、いつも喉の奥に言葉が痞えて出てこない。もう進路票も見られてしまったのだから隠していたって意味がないとわかっている。わかっている。
 ギュウ、とハンドグリッパーを強く握る。階段を降りる足が酷く重たく感じて、何も言わずに前にいる奏がどんな気持ちでいるのか、緑谷にはわからなかった。
 わからないから、知りたいと思った。

「かなちゃ――」

 顔を上げて名前を口にした。瞬間、次の段に降ろしたはずの足が、上手く段差を踏めなかったと気付く。ずるりと足の裏が段の角を滑っていく。
 上半身から前に落ちていく。ハンドグリッパーとリュックの肩紐を掴んでいた両手が咄嗟に放せなかった。こういう時、意外と視界は開けている。奏が振り返る。紺青の瞳が大きく見開かられるのがスローモーションで見えた。
 奏が右腕を大きく開く。その腕が緑谷の腹の辺りを支えた。腹を抱えられた軽い衝撃に、思わず目を閉じる。下に落ちていくような感覚は残ったままに、落下の衝撃はいつまでもこない。ゆっくり、そろそろと目を開けていく。
 最初に見えたのは自分の足先と白い階段。それからがっしりと腹を抱えてくれている奏の腕。

「あっ……ぶな……」

 すぐ近く、頭上から聞こえた奏の声に、緑谷は漸く自分がどういう状況にあるのか理解した。奏は右腕で緑谷を抱え、左手で階段の手すりを掴んでいる。左手だけで、自身と緑谷の体重を支えている。

「か、かなちゃん!ごめーー」
「出久、足着く?」

 奏に言われ、緑谷はハッとして大きく頭を縦に振った。急いで曲げていた膝を伸ばして足を降ろす。緑谷がちゃんと立てているとわかると、奏は腕を外した。

「あ〜、びっくりした」

 奏は左腕を肩からぐるぐると回しながらいつもと変わらない調子で言った。緑谷は顔を青くして「ごめんなさい」と口にした。奏は俯く緑谷を見て腕を回すのをやめる。

「いいよ。怪我がないならよかった」
「……かなちゃんは?」
「大丈夫だよ。ほら元気」

 奏はわざとらしく両肘を曲げてグッと拳を握りポーズを見せる。奏としては緑谷に気にしなくていいという思いでポーズを取ってくれたのが伝わってきたが、頬の筋肉が上手く動かなかった。
 奏はポンと緑谷の腕の辺りを軽く叩いて「帰ろう」と微笑みかけた。緑谷は俯いたまま小さく頷いた。


 音波奏は、緑谷出久の唯一だった。
 緑谷と奏が出会ったのは小学生になったばかりの頃だ。そのときにはもう緑谷は無個性だと診断され、個性が発現する可能性は極めて低いと言い渡されていた。個性ありきの超人社会、幼い子どもたちは無垢ゆえに残酷で、個性を持たない緑谷を輪から外し、軽視した。
 幼稚園のときにはもう幼馴染みの爆豪から「木偶の坊」と呼ばれ、無個性だということが同級生に知れ渡り、小学校に上がってもすぐに好奇の目を向けられることもあった。ヒーローになりたいと言えば必ず嗤われるか慰められた。母は緑谷が無個性だとわかったとき、泣いて謝った。
 誰も緑谷にヒーローになれるとは言わなかった。
 奏は小学生なる少し前に緑谷の近所に引っ越してきた。緑谷家のマンションと、爆豪邸のちょうど中間地点辺りだ。
 引っ越してきたばかりの奏は緑谷から見ると少し変わった少年だった。
 例えば、子どもたちの間で人気があったヒーローごっこ。奏はそういった遊びに参加しなかった。どこか白けた目で、ごっこ遊びをするクラスメイトたちを見ているときすらあった。
 クラスの中では、ヒーローに関するものがいつだって流行していた。
 ブロマイドカードのついたヒーローチップスに、人気ヒーローがデザインされた鉛筆や筆箱。それらにも奏は興味を示さず、お菓子のおまけのヒーローグッズなどは緑谷にくれたりもした。対して緑谷はと言うと、ヒーロー好きが今や立派なヒーローオタクへとまで成長した。今もブロマイドは大事に保管しているし、新シリーズが出たら全種類集めるまで買っている。
 個性ありきの超人社会。だからか、個性の強さが無意識に人の優劣を決めるような部分もあった。無個性はいつだって最下層に位置付けられる。それが当たり前だと疑いもしなかった。
 爆豪の個性を知った人は、大抵の人がヒーロー向きのいい個性だと持て囃す。緑谷もあんな個性があったらなと何度も思った。けれど奏は。
 いつもと同じ温度の低い紺青の瞳で、いつもと同じ涼しげな声で、淡々と、「へえ、そうなんだ」の一言で、爆豪の個性に対する感想を済ませた。幼い爆豪はその態度に不満があったのか何度も掌で爆破を起こしたが、ついぞ奏の態度は変わらなかった。当時すでにカースト最上位に君臨していた爆豪を相手に臆せずそう言えてしまうことが凄いと思ったし、かっこいいとも思った。奏は誰に対しても態度を変えなかった。それは緑谷に対しても。
 無個性だと告げたとき、奏の瞳も声も温度は変わらず、爆豪のときと同じく「そうなんだ」の一言で済ませた。
 馬鹿にもせず、哀れみもしない。それがどれだけ嬉しかったか。
 誰も緑谷にヒーローになれると言わなかった。けれど奏だけが緑谷の夢を嗤わなかった。
 奏にもなれるよと言われたことはない。ただヒーローになりたいと言う緑谷を唯一、否定も、諭しも、慰めもしなかった。当たり前のように、無言で緑谷の夢を肯定してくれた。
 風変わりなご近所さんは、気付けば大事な友人となり、時を重ねて幼馴染みとなった。
 校舎の外に出ると淡い夕焼けが広がっていた。風が吹く度に桜が散っていく。
 昇降口から正門までの間に生徒は誰もいなくて、遠くに野球部の掛け声が聞こえた。
 帰り道に会話はなかった。奏の二歩後ろを歩いていく。奏も何も言わなかった。緑谷も何も言えないまま、気付けば奏と別れる道が迫っていた。
 住宅街の丁字路が、奏と緑谷が別れる場所だった。
 カーブミラーを挟んで、奏と向かい合う。奏は薄く笑って、「また明日」と言う。緑谷も「うん」と返す。上手く笑えている自信はなかった。
 奏が背中を向けて歩き出す。その後ろ姿を見て、言わなければと焦燥感に駆られた。あの背中に追いつけなくなる前に。春の風が背を押した。

「っ……かなちゃん!」

 コンクリート塀に声が響いた。奏は足を止めて振り返る。緑谷は指先の色が変わるほどにきつく拳を握り締める。
 言え、頭の中で自分が叫ぶ。言え、言え、今。
 喉の奥に痞えている言葉を引っ張り出すように、息を短く吐いて吸う。
 今、言わなきゃ駄目だ。

「僕、雄英受けるんだ!」

 言った瞬間に、身体が軽くなるのを感じた。感じてすぐに、今度は息が詰まるような重さに襲われた。
 奏は僅かに目を見開いて、ゆっくりと振り返って緑谷と向かい合った。夕陽を背負う奏の表情に影がかかる。
 上手く表情を作れない。自分は今、どれだけみっともない顔を晒しているだろう。
 燃えるような夕焼けの中で、奏の宵色の瞳だけがはっきりと見えた。


02:桜に告白

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