残響ユートピア21
『声って、その人の本質が出るよな』
なんでか知らないが、ふと昔そんな話をされたことを思い出した。本当にふと、頭の中に降って湧いた声。奏は緑谷と登校中、道端にぽつぽつと咲いている小さな青い花を見ながら歩いていた。コンクリートで固められた道でも、わずかな隙間から芽を出し花を咲かせ次に繋いでいくのだから、植物は逞しい。指の先くらいしかない青い花は、可愛らしく咲いているのに、きっと自分なんかよりも逞しいのだろう。
「かなちゃん、どうかした?」
「いや、なんか昔のこと思い出してた」
「昔?」
緑谷がコテンと首を横に倒す。昨日と変わらず、右腕は首から吊られたままだ。奏は道に咲く花と同じ色をした空を見上げながら言う。
「春になるとやたらつくし摘んでたな……とか」
「ああ〜、あったね、そんなこと」
「公園の花の蜜吸ったりね」
「あはは、やったね」
近所の公園の植え込みにはツツジの花が咲く。赤や白の、パキッとした色合いの花が咲いて、それを摘んで蜜を吸っていたのはもう何年も前の記憶だ。
「あれさ、有毒のやつあるらしいよ」
「えっ、そうなんだ」
「無毒のやつと見分けるの難しいんだって。僕らよく無事だったよね」
「えぇ……」
そんな思い出話をしているうちに、雄英高校の正門が見えた。しかし様子がおかしく、奏は眉を顰める。
「なんだあれ……」
「え?……マスコミ……?」
奏が言うと、緑谷も正門に目を向けた。門の前には人だかりができていて、そこにはマイクを持った女性や、カメラを担ぐ男性が数多くいた。報道陣か?
人の群れから聞こえる言葉には「オールマイト」というものがほとんどだ。ははあ、なるほどなるほど。オールマイトに取材したいわけだ。
マイクを持った女性リポーターの一人が、奏と緑谷の存在に気付いた。パッと明るい、テレビ向けの笑顔を作り、カメラマンを連れてこちらに近づいて来る。うわ、めんどくさ。
「君たち雄英高校の生徒さんだよね?ヒーロー科?ちょっとインタビュー受けてもらっていいですか!?」
「エッ」
「オールマイトの授業はどんな感じです?」
女性リポーターは有無を言わせずマイクを緑谷に向けた。途端にびくりと肩を震わせて、緑谷が眉を八の字にする。緊張してるのか、声を震わせながら答えた。
「え!?あ……すみません、僕、保健室行かなきゃいけなくて……」
「少しだけでいいので!」
リポーターはさらにマイクを近づけてくる。にこやかな笑みとは裏腹に強い意志を感じて、奏は内心で舌を打った。自分の利益を上っ面だけで取り繕った声だ。嫌いだ、この音。
奏は緑谷とリポーターの間にやんわりと入り込み、にっこりと笑って見せる。
「申し訳ないですけど、見ての通り彼は怪我人ですので。僕も付き添わなきゃいけませんし、これで」
貼り付けた笑みを報道陣に向けたまま、緑谷の左手を掴む。別のテレビ局の報道陣たちが寄ってきそうだったので、そのまま緑谷の手を引いて校門を潜った。門を潜ってしまえばこちらのものだ。
報道陣の誰かが自分たちを追いかけて門を潜ろうとしたのだろう、ピー、というセンサーが作動するような音がした直後に、ゴゴゴと地響きのような音がした。振り返ると門の真下、地面から壁が迫り上がって門を塞いでしまう。
「すご……あれが雄英バリアー……!噂には聞いてたけど……!」
「は、ざまみろ」
「かなちゃんってマスコミ嫌いだよね」
「ああいう迷惑考えずに騒ぐ連中と世間騒がせるために信憑性ないことも大袈裟に報道するやつと人の揚げ足取るのに忙しいやつらとか偉そうにしてるコメンテーターが嫌いなだけだよ」
「嫌いなんじゃん……」
雄英バリアーと呼ばれるそれは、雄英独自のセキュリティシステムだ。校内の至る所にセンサーがあり、学生証や通行許可IDを身につけていない者が門を潜るとセキュリティ作動する。恐らく報道陣の誰かがセンサーに引っ掛かったのだろう。事件性がないと判断されればセキュリティは解除されるはずだ。
「オールマイトが雄英の教師になったから騒いでんだろ。学校に許可取ってんのかね」
「ああ、今朝のニュースでもやってたよ。平和の象徴が雄英教師に就任!って」
校内に入って、昇降口で上履きに履き替える。緑谷はそのまま保健室へ行くというので、一旦別れて教室へ向かう。報道陣には付き添うなどと適当なことを言ったがあんなのはその場をやり過ごすための方便だ。
オールマイトの雄英就任に世間は連日大騒ぎとなっている。事務所を一時休業までしてオールマイトがヒーロー教育機関に在籍したということは、後進育成に乗り出したということだ。オールマイトは今までのヒーロー活動においてそういった行動はしてこなかったし、謎多き面もある中で、今回の件は格好の的なのだろう。
「あ、音波くん!おはよう!」
「おはよう麗日さん。マスコミ大丈夫だった?」
後ろから声をかけられて、振り返った先には笑顔の麗日がいた。振られた手の指先には、桃色の肉球がついている。
麗日は頭を掻きながら、困ったように笑い奏の隣に並んだ。
「いや〜それがオールマイトの様子を聞かれて筋骨隆々って答えてしまった……」
「……間違ってはないんじゃない?」
奏は教壇に立つオールマイトを思い浮かべる。その姿は麗日の言うように筋骨隆々だ。
この様子だと登校する生徒片っ端から声かけてるな、あの報道陣……まさか放課後まではいないだろうけど。雄英バリアーも動いたし、学校側も対処するか。
教室に入るとクラスメイトの半数は登校していて、奏は挨拶をしながら席に着く。昨日の反省会のおかげでクラスメイトたちの顔と名前も大分一致するようになった。まだ知り合って間もないが、問題児と呼ばれそうなのはどうも自分の幼馴染みたちだけだなとわかると少しばかり頭が痛くなる。まあ、その都度フォローに回ればいいか。
教室の雰囲気は悪くない。少しずつ仲の良いグループができあがっていくのがわかる。ヒーロー科とは言えども、自分もクラスメイトたちも高校生で、ヒーローになるための勉強以外にも、色々と忙しいのだ。
「学級委員長を決めてもらう」
「学校っぽいの来たーーー!!」
朝のHR。相澤の言葉に教室が沸き立った。直前まで昨日の戦闘訓練について、相澤から幼馴染み二人にお小言があったので気まずい空気が流れていたが一瞬で吹っ飛んだ。
「委員長!やりたいですソレ俺!」
「僕のためにあるヤツ⭐︎」
「リーダー!やるやるー!」
ハイハイハイ!とクラスメイトたちが次々に手を挙げていく。教室内の熱気は上昇していく一方だ。ちらりと視線を左斜め後ろに向ければ、幼馴染み二人も立候補している。みんな凄いな。僕こういうの無理なんだよな。
奏は頬杖をつきながら、教室の様子を眺める。普通科なら学級委員はクラスを取り仕切ったり雑務というイメージが強くてこんなことにはならないと思うけど、ヒーロー科だと集団を導くっていう、トップヒーローの素地を鍛えられる役だ。しかしこれどうやって委員長決めるのかね。じゃんけんか?くじ引きか?
「静粛にしたまえ!」
熱の収まらない教室に、ひとつの声が響く。奏を含め、クラス中の意識がその声に向いた。
「"多"を牽引する責任重大な仕事だぞ……!"やりたい者"がやれるモノではないだろう!周囲からの信頼あってこそ務まる聖務……!民主主義に則り、真のリーダーをみんなで決めると言うのなら……!」
静かになりつつある教室で、響く声は真に迫っていた。この声は飯田くんか、と奏は右斜め後ろを振り返る。
「これは投票で決めるべき議案!」
「聳え立ってんじゃねーか!なぜ発案した!」
振り返った先には誰よりもまっすぐ、高く挙手しつつ震える飯田がいた。
「わは、さすが飯田くん……」
奏は飯田を見て、にやける口元を手で覆い隠す。でもまあじゃんけんやくじ引きみたいな運で決めるよりかはずっと真っ当な選出方法だ。自分だってやりたいだろうに、飯田くんってほんと真面目というか、馬鹿正直というか……見てて気持ちいいね。
「日も浅いのに信頼もクソもないわ、飯田ちゃん」
「そんなんみんな自分に入れらぁ!」
「だからこそここで複数票を獲った者こそが、真に相応しい人間ということにならないか!?」
クラスメイトからの意見にも、飯田は声を荒らげることなく正面から意見を述べる。飯田が意見を求めると、相澤は時間内に決まればなんでもいい、と選出方法はこちらに委ねた。その間にこの人寝る気だな。寝袋に入り始めたぞ。
奏が相澤をジトリとした目で見ていると、寝袋にすっぽりと包まれて三角座りをした相澤と目があった。数秒互いに無言で見つめ合ったが、相澤はそのまま何事もなかったかのように目を閉じて寝始める。図太過ぎません?色々。
「投票つってもなあ……それ決まるか?」
「みんな自分に入れるだろうから……」
クラスメイト数名はまだ投票に納得がいかないようで、奏はまあそれはそうかと、そちら側の気持ちもわかった。立候補する者がほとんどの中で、自分もやりたいけどこの人の方が相応しいだろうと身を引く者などいないとわかっているからだ。間違いなく学級委員長というのはプラスの要素になるとわかっていて、糧になるから面倒だと知りつつも立候補しているのだから。早い話、投票したところで決まる可能性の方が低い。
けどまあ、僕は立候補しないし。わずかでも投票数に差は出るはずだ。一票でも差があれば決まるのだから。
「まあ、他に決める手段もないし……取り敢えず投票でいいんじゃないかな。決まらなかったらじゃんけんかくじ引きでもしようよ」
奏がやんわりと進言すると、飯田に「音波くん……!」と感極まった声で嬉しそうに名前を呼ばれた。クラスメイトたちも選出方法が他にない、というところで納得できたのかまあ仕方ないかと席に着く。奏はルーズリーフを一枚出して、折り目をつけて二十一枚になるように破っていく。各列一番前の席の人に、列の人数分の切れ端を渡して後ろに回してもらう。投票用紙が全員に行き渡ったことを確認してから、奏も自分の席に戻って、薄いブルーの罫線が引かれたルーズリーフの成れの果てを見つめた。
さてさて誰に投票するか……日も浅くて信頼もクソもないってのはまったくその通りだし、みんな当たり前に自分に入れるだろうから……あれ、僕のこの一票ってもしかして結構重要?責任重大?
この紙切れにクラスメイトの名前を書くという行為が急に重たくなって、思わずため息が出そうになる。
僕は立候補しないし、自分以外の誰かを、委員長に相応しいと思う人を一人選ばなきゃいけないわけだ……委員長、クラスを導く立場……まだちゃんと話したこともない人だっているし、そうなるとこの数日である程度人間性が見えてきた相手か、授業の様子とかで判断するしかないよな……よし、取り敢えず出久と勝己はない。
まず真っ先に幼馴染み二人の可能性を排除して、奏はシャーペンを握る。
学級委員長ってことはクラスをまとめて、導く立場だ。ときにはクラス内で意見が割れたりすることもあるだろうし、それを公平に判断しなきゃいけない。勝己は出久と同じクラスになった時点でもう駄目だろ。公平も公正もあったもんじゃない。協調性もないし。いや……逆に委員長という立場を背負わせることによって協調性、集団行動の大切さを学ばせるのも……いややっぱり駄目だ。クラスのみんなに申し訳ない。
出久はなあ……できなくはないだろうけど、まずは自分のことなんとかしろよってことで……ないな。
奏はカチカチとシャーペンの芯を出しながら考える。委員長に求められるものはやはり、クラスをまとめて導くこと。そこに私情を挟まず、公平且つ公正に判断をくだせること。改めて考えると難しい立場だ。
いや……でも……一人、いるよな。そういう人。
シンプルに考えていくことで、ぼやけた視界にピントが合うようにはっきりとしていく。学級委員長に相応しいと思う人。その人の名前を書くために、奏はシャーペンを握り直した。
「僕三票ーー!?」
投票結果が出ると、緑谷の声が教室に響いた。ほとんどの者がやはり自分に入れたのだろう。軒並み一票が続く中で、緑谷に三票、八百万に二票入っている。出久に二人も……!自分では緑谷には向いていないと判断したが、クラスメイトたちには緑谷が相応しいと思い投票してくれた人がいることに、奏は密かに口元を緩める。
「なんでデクに……!誰が……!!」
「まーおめぇに入るよかわかるけどな!」
「奏……てめェか……!?」
「違うよ。あとそういうの詮索するなよ」
爆豪に鬼の形相で凄まれたが、奏は手先でシッシ、と席に戻るように促す。「クソが……!」と低い声で捨て台詞を吐きながら席に戻った。緑谷はずっと小刻みに震えている。
「一票……!さすかは聖職といったところか……!しかし学級委員には届かずともこの票に恥じぬ行いを心掛けねば!」
「ってことは他に入れたのね……」
「お前もやりたがってたのに……なにがしたいんだ飯田……」
飯田も悔しさに震えながらも最後にはグッと拳を握って胸を叩いた。なんかもう最高だな飯田くん。
緑谷の獲得した三票が最も投票数が多かったので、学級委員長は緑谷、副委員長が八百万に決まった。緑谷は昨日の戦闘訓練での立ち回りが評価され、八百万も講評の姿が印象強かったため、クラスメイトたちも素直に二人の就任を受け止めて朝のHRは終わりとなった。
△▼△
昼休み、奏は緑谷、飯田、麗日の三人とともに食堂で昼食を取っていた。食堂のメニューは種類が豊富で目移りしてしまいそうになる中で、自分の食欲を探ってみればパンの気分だなと案外早く答えは出たのでサンドイッチとサラダ、スープのセットメニューを頼んだ。
食堂は全学年のすべての学科が揃うので随分賑わっているが、幸い空いている席はすぐに見つかった。四人で対面になるように座って昼食を食べながら会話をする。
「いざ委員長をやるとなると務まるか不安だよ……」
「ツトマル」
「大丈夫さ」
「なにかあればフォローするし」
委員長にめでたく就任した緑谷は、いざ当選すると不安な様子で気持ちを吐露した。麗日、飯田、奏はそれぞれに声をかける。白米を幸せそうに食べる麗日の隣で、飯田が生真面目な顔でビーフシチューを食べながら言った。
「緑谷くんのここぞというときの胆力や判断力は"多"を牽引するに値する。だから君に投票したのだ」
「あ、出久に入れたの飯田くんだったんだ」
自分で投票したのバラしたことに気付いてないな。これ。
奏が苦く笑うと、隣で緑谷はその事実に小さく震えている。奏はパクリとサンドイッチに齧り付いた。
タマゴサンドは柔らかで真っ白なパンとタマゴサラダの黄色のコントラストが眩しい。ゴロゴロとしたゆで卵の食感を残しつつもなめらかな口当たりで、パンの甘さとマヨネーズの塩気がちょうどいい。胡椒が味を引き締めるアクセントになっている。
「そういえば音波くんは立候補しなかったな」
「う〜ん、ほら、ヒーロー科って色々忙しいからさ……睡眠時間が削られそうなことはちょっと」
タマゴサンドを飲み込んでから答える。僕のモットーは安眠、快眠、惰眠。ただでさえ出久の個性のことで胃の痛む内容が増えたのにこれ以上はちょっと。あと多分向いてないよ。
「でも、飯田くんも委員長やりたかったんじゃないの?眼鏡だし!」
麗日が米粒を口元につけたまま尋ねた。麗日さんって何気にざっくりいくよね。色々。
飯田は眉間に皺を寄せながら、オレンジジュースの入ったコップを手に取った。悔やむようにも見える表情で言う。
「"やりたい"と相応しいか否かは別の話……僕は僕の正しいと思う判断をしたまでだ」
その発言に、奏たちはパチリと揃って大きく瞬きをして飯田を凝視する。そして声を揃えた。
「"僕"……!」
三人の声が揃うと、飯田はハッとしたように表情を変えた。飯田の一人称はこれまでずっと"俺"だったはずだ。
隣でいまだ米粒をつけたままの麗日が、どこか楽しそうに飯田に問う。
「ちょっと思ってたけど飯田くんて、坊ちゃん!?」
「坊!」
「ふはっ!」
麗日のあまりにもどストレートな物言いに、奏は笑いを堪えきれなかった。
でも確かに、奏も麗日の言いたいことはわかる。こうして一緒に食事をしていてもそうだが、飯田からはちょっとした所作や言動から育ちの良さが見てとれた。聡明中ってエリート校だしおまけに私立だし。まあそういう見方もできるよね。
飯田は誤魔化すようにビーフシチューを食べる速度を上げたが、三人の視線からは逃げられないとわかったのか、観念したようにスプーンを持つ手を止めた。
「……そう言われるのが嫌で一人称を変えていたんだが……」
「おや、やっちゃったね麗日さん」
「えー!ごめん!」
「いや別に悪気があったわけじゃないだろう?気にしてないさ」
パンッ、と元気に両手を合わせて飯田に頭を下げる麗日を、飯田は気にしてないと左手で制す。それからオレンジジュースを一口飲んで、やや言いづらそうに口を開いた。
「俺の家は代々ヒーロー一家なんだ。俺はその次男だよ」
「ええー!すごー!!」
麗日の声は賑わった食堂でもよく通る。一応周りに目を向けるが、これだけ人が集まる中で会話をするにはみんなある程度声を張るためか、あまり気にされていないようだ。奏は飯田の話を聞きながらカツサンドに手を伸ばす。
「ターボヒーロー、インゲニウムは知っているかい?」
「もちろんだよ!東京の事務所に六十五人もの相棒を雇ってる大人気ヒーローじゃないか!まさか……!」
「詳しい……」
「出久の十八番だから」
嬉々として喋り出した緑谷を前に、飯田も少々呆気に取られる。それでも気を取り直して顎をひけらかしながら、クイッと得意気に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それが俺の兄さ!」
「あからさま!凄いや!」
ターボヒーロー、インゲニウム。奏も当然知っている。知名度も高い大人気ヒーローだ。飯田の兄がインゲニウムだったとは、さすがに奏も驚いた。
「規律を重んじ人を導く愛すべきヒーロー!俺はそんな兄に憧れてヒーローを志した」
飯田の言葉は柔らかな芯があった。弱さを表す柔らかさじゃない。大切に思う気持ちの表れだ。飯田にとっては当たり前のことで、当たり前だからこそ大事にしてきたものだとわかる。そういう柔らかさだ。
「人を導く立場はまだ俺には早いのだと思う。上手の緑谷くんが就任するのが正しい!」
そう言って、飯田は困ったように眉を薄く寄せながら笑った。教室で見せる真面目さを残したままの、穏やかな笑みに奏も緑谷も、麗日も、食事の手が止まる。
「なんか初めて笑ったかもね。飯田くん」
「わかる。初めて見た」
「え!?そうだったか!?笑うぞ俺は!」
飯田くんにとって、きっとずっと憧れてる存在なんだな、お兄さんは。
奏はカツサンドに齧り付きながら、ぼんやりと考える。
憧れがすぐそばにいる。それはきっと幸福なことだと思う。自分のありたい姿が手本のように目の前にあって、生きた温度で感じられる。
カツサンドは美味しいのに、噛むほどに味がわからなくなる。周囲の音も、ただのノイズになって遠くなる。剥離していく。意識と身体が。少しずつ隙間を広げていく。
憧れがすぐ近くにいることの幸福を、奏は知っていた。
もう一口カツサンドを齧ろうとしたところで、高くうねるような音がけたたましく鳴り響いた。
「警報!?」
突如聞こえたその音量に、奏はカツサンドから手を離して耳を塞ぐ。麗日は味噌汁を盛大にこぼした。飯田、緑谷に続いて奏も席を立つ。ざわめく食堂に放送が流れた。
『セキュリティ3か突破されました。生徒のみなさんはすみやかに屋外に避難してください』
その放送が流れた直後に、恐らくは上級生だと思われる食堂を利用していた生徒達が慌て出した。聴き取れる単語を拾っていく。
「3!?」
「嘘だろそんなことあったか!?」
「三年間で初めてだよ!早く早く!」
ざわめきが不安を煽り、伝播していく。
「セキュリティ3!?」
「雄英のセキュリティシステムの警戒レベルだね。3は確か校舎内に侵入形跡が発見されたときだ」
「詳しいね音波くん!」
「初日に配られた入学説明に書いてあったよ。生徒手帳にも」
たまたま昨日、からあげさん食べた後に勝己が書類見てたから一緒に読んだだけだけど。まさか入学早々体験することになるとはね。今朝正門で雄英バリアーが作動したのがセキュリティ1。校舎に近いセキュリティが作動するほど警戒レベルは当然上がる。3は校内に侵入者ありだ。どこの馬鹿だ。雄英に侵入するなんて。
奏はピリピリと刺さるような感覚を覚えながら、書類に書いてあった避難経路を思い出す。まずは食堂から出なければ、と体の向きを変えた途端にワッと人の波が押し寄せた。
「いたっ!急になに!?」
「さすが最高峰!危機への対応が迅速だ!」
「迅速すぎてパニックに……」
警報と放送を聞き、この場にいた生徒たちが全員一斉に動き出している。左右前後から人にぶつかられ、波に抗おうとする方が危ない。
「三人とも、なるべく離れないように……!」
「どわーっ!しまったーー!」
「言ってるそばから!」
「デクくん!」
「緑谷くーん!」
人の波に挟まれて、身動きの取れなくなった緑谷が流されていく。いつの間にか飯田も離れてしまっている。僕らはまだいいけど、女の子にこれは辛いだろ……!
「麗日さんっ!」
「へっ!?」
奏は近くにいた麗日の手を取って、ぐいっと引き寄せる。そのまま人の間を縫うようにして窓際まで逃げて、麗日を壁際に押しやり、片腕を窓について肘を伸ばす。
「ごめん引っ張って……大丈夫?」
「……音波くんって色々スマートやね……」
「ん?」
麗日が放心した顔で、感心したように言う。ん?どういうこと?
パニックはいまだ収まらない。それどころか増していく一方だ。奏は窓についた手をぐっと握り込む。
「押すなって!」
「痛え!」
「ちょっと待って倒れる!」
「だから押すなよ!おい!」
強い恐怖と不安の声がいくつも響いて、消えては生まれ、終わりがない。食堂からの非常口が一つしかないせいで、みんな同じ方向に向かおうとごった返している。何度も人にぶつかられて、その度に足と手に力を入れる。
音がやまない。それに呼応させられて、心臓がバクバクと鳴っているのが自分でわかる。
「デクくんも飯田くんも無事かな……」
「まあ……二人なら自力で……」
「って!音波くん大丈夫!?顔青いよ!?」
「え……?」
麗日が奏を見上げて心配そうに眉を下げた。そんな顔をさせてしまうほど、自分の顔色は良くないらしい。それでも気を込めて唇だけで薄く笑う。
「……大丈夫、ちょっと人に酔ったかな……」
「ええ……!早くこれ収まらんかな……!いや、先に避難した方がいい……!?」
心配してくれているのだろう。麗日は辺りを見ながらそんな風に呟く。さっきからちょこちょこ麗日さんの言葉が崩れるけど、方言かな。飯田くんの一人称みたいに、色々気を遣ってることがあるのかな。
思考を無理やり別の方向へ持っていこうとするが、圧倒的な音の数にぐわんと視界が揺れる。どこのどいつが侵入したか知らないけど、恨むぞ。
「ちょっ、人倒れた!人倒れたって!」
「痛えよ!押すなって!」
「みなさんストップ!ゆっくり!ゆっくり!」
「あぶねーって!」
っ……うるせえ……!クソ、音が多すぎる……!
奏は窓についてない方の手で耳を塞ぐ。塞いだところで意味がないことくらいわかっている。こんなのただの気休めだ。窓についている方の手をさらに握り込む。爪が食い込んだ痛みで意識がはっきりさせられる。
恐怖、不安、焦り、苛立ち、負の感情を混ぜ合わせた音に呑まれそうだ。
「あ!音波くんあそこ!飯田くーん!」
「麗日くん!音波くん!」
麗日が声を上げる。彼女が見る先には飯田がいて、彼もこちらに気付いたのか人の波を掻き分けて距離を縮めようともがいている。飯田は左手を奏たちの方に向けて思い切り伸ばした。
「俺を……浮かせろ麗日くん!」
「へ!?」
伸ばされた手に、麗日もほとんど反射的に手を伸ばし返す。パンッ、と短く渇いた音が微かに聞こえた。上手く麗日の肉球で触れられたのだろう、飯田の身体がフワリと浮いて代わりにズレた眼鏡が落ちてきて、奏は慌ててキャッチする。あ、レンズ触っちゃった。
飯田は奏たちの頭上よりも高くまで浮いたところでズボンの裾を捲り上げる。その拍子に今度は脱げた上履きが落ちてきたので、麗日とそれぞれキャッチする。
露わになったふくらはぎには、エンジンの働きをする器官があって、飯田が個性を発動させると、無重力状態のせいでぐるぐると回ってしまう。
「飯田くん!」
想像しただけで三半規管のやられそうな移動方法に思わず名前を叫ぶ。飯田は非常口の真上にビタンと勢いよく張り付いた。壁に這わせた管に捕まり、浮いてしまわないように足を踏ん張るそのポーズは、どこかで見覚えがある。あ、あれだ、非常口のピクトグラフ。
パニックに陥っている生徒たちは飯田に気付かず、その非常口に我先にと向かっていく。
「いってえ!」
「おい押すなって!押ーすなって!」
「っ……!」
ドンと背中を強く押されて、麗日を潰してしまわないように踏ん張る。不安に強張る声も、恐怖から早くなる心音も、全部聴こえている。それにつられる自分の心音も、呼吸も、全部が煩わしい。
ああ、嫌だ。聴きたくない。聴きたくない――
「だいっ、じょーーぶ!!」
耳を塞いで、苦しさからグッと目を細めたときに聞こえた力強い声が、奏の意識を奪った。
21:その声で照らして
21