残響ユートピア26






 倒壊ゾーンから一直線に、セントラル広場に向けて走る。目的を果たしたら今度はあのワープゲートの個性を利用して逃げるはずだと考えて、そうなれば状況の把握しやすいUSJ内の中心にいるはずだし、あの黒いモヤが中央近辺にいる可能性は高い。
 奏は走りながらも周囲の音を探る。各エリアで、交戦中の音が聴こえてくるのを無視して走り去るのは胸が痛んだ。

「なあ、音波のあれどうやったんだ?まとめて敵倒したやつ」

 隣を走っていた切島がそう聞いてくるので、奏はちらりと視線を投げながら答える。

「ああ、あれ。眠らせただけだよ。相手の状態とか、その場の音の反響とかを音で把握して……相手を眠らせる音波を出すんだ。さっきみたいに人数が多いとかからないやつとか、眠りが浅いやつも出てくるけどね」
「へえ〜!すっげえな!」

 目を輝かせる切島に、奏はくすぐったくなって目を細める。よく眠りやすくなる音楽とか、リラックスミュージックなんて呼ばれるものがあるが、奏の催眠音波はそれらを極めたものに近い。
 相手の心音、呼吸、脈拍、精神状態、年齢層などを音で把握し、周囲の音の跳ね返り方、音の消え方を理解して、眠らせるのに最も効果的な音波を放つ。度合いにもよるが効果は一時間から二時間が目安だ。
 戦闘訓練で瀬呂に向けたものもそれだった。味方も巻き込んでしまう可能性があるので使い方は注意が必要だ。
 
「てめえらくっちゃべってねえでさっさと走れや!」
「おお!悪い!」
「走ってるじゃん」

 少し先を走る爆豪がグリンと顔だけ向けながら叫んだ。爆豪は両手を後ろに伸ばして爆破の勢いを活かして走っている。爆破を使えばいくらでも先に行けるはずなのにそうしないのは、それなりに自分たちを気にしてくれているんだろうなと思っても口にはしなかった。

「なあ爆豪!」
「てめえ人の話聞いてたんか!?」
「聞いてるって!でも知っときてえんだけどさ!ワープのやつのモヤ対策ってなんだよ?」

 喋ってるな真面目に走れと怒られた直後に、切島が爆豪に声をかけた。奏は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪える。嘘じゃん、切島くん面白すぎない?しかし問うている内容は真っ当なもので、爆豪もいくらかつり上げた目に落ち着きを戻した。そして低い声でぶっきらぼうに話し出す。

「俺とテメーが攻撃したとき、効いてねえくせにあいつ"危ない"つったろ」
「うん?言ってたか?」
「言ってたんだよ!」

 確かに言っていた。煽るような言い方だっただけに奏も覚えている。首を捻る切島に、爆豪は再び目をつり上げる。勝己がいちいちキレると話が進まないな、と奏は眉を八の字のにしてため息をついた。

「なるほどな、二人の攻撃が効かなくて、物理攻撃完全無効化できるなら、"危ない"って発想はないもんな」
「おお!なるほど!……え?つまり?」
「バァカかてめえは!」

 切島は奏の言葉にパッと表情を明るくしたが、すぐに眉を顰めて首を傾げた。その様子を見て爆豪がまた吠え、すぐに前を向いて、荒々しく説明を始める。
 
「つまりあいつのモヤ状のワープゲートになれる箇所は限られてる!実体があるってことだろが!」
「あのモヤで実体覆ってんだろうな。実体部分を特定できれば、攻撃も通る……!」
「おお……!!」

 切島の赤い瞳に光がほとばしる。この状況で見えた可能性に、自然とあふれたような笑みを浮かべて、口を開けて大きく笑う。けれど額には冷や汗のようなものが滲んでいて、奏はそれに気付いてもなにも言わずに前を向いた。
 セントラル広場が見える場所まで来た。小さく人影がちらほらと見えて、爆豪と切島もそれに気付いたのだろう。空気がヒリつく。隣を走る切島が、「ん?」と目を細めて唇を突き出した。

「あれ……オールマイトじゃねえか?」
「え」

 切島が指差す先、出入り口の前に巨漢が見える。きらりと金髪が光ったように見えた。

「やっぱそうだって!オールマイトだ!」
「来たのか……」

 上向いた声で切島が言う。オールマイト、平和の象徴、敵連合の狙い。オールマイトが殺されるなんて想像はできない。けれどやつらには殺せる算段があるはずで、それが気掛かりだった。
 奏は自然と走るスピードを上げる。敵とオールマイトが交戦している音がする。そこらの雑魚敵なら、オールマイトは拳一つで倒せるはずだ。けれど音からしてそうじゃない。
 セントラル広場に近付くにつれ、戦いの音が激しくなる。爆豪や切島にも聞こえるほどの距離になった。
 奏は別に、オールマイトのファンではない。ただすぐそばにオールマイトオタクがいたおかげで、自然とそれなりの知識が身についた。それゆえに思うのは、オールマイトにしては手こずっている、ということだった。
 戦う様子が目視できるほどの距離になって、目的のワープゲートもその場にいるのが確認できた。爆豪が速度を上げる。
 爆発のように土埃が舞う。音からして爆発ではないとわかるが、恐らくオールマイトの攻撃だ。土煙で様子がわかりづらいが、決着した様子は感じない。つまり、敵はオールマイトのあの攻撃に耐えている。
 
「あ!音波あれ!緑谷じゃね!?梅雨ちゃんと峰田もいる!」
「出久……!」

 切島の言葉に目を凝らす。土埃が徐々に落ち着いてきて、ようやくその姿が見えた。見えた瞬間にホッとして、安堵したことでかえってバクバクと心臓が鳴っていたことに気付いた。けれどすぐに緑谷が誰かを担いでいることに気付く。真っ黒な服に、白い布。すぐに誰だかわかってしまって、ここからでは様子が掴めないことにぐらりと頭が揺れる。
 消太くん……!
 走っても思うように縮まらない距離に焦りが募る。それでも足を前に出すしかなく、必死に腕を振る。

「見つけたあ!あのモヤモブ!ぶっ殺す!」
「勝己!」

 両手で爆破を起こしさらに加速する爆豪に逸るなと名前を呼ぶが、爆豪は振り返ることもせずに突っ込んでいく。奏は慌てて指を鳴らす。爆豪の接近を悟られないようにできる限り音を消す。
 オールマイトの方を見れば、彼はバックドロップで敵の一人を地面に突き立てているようだが、様子がおかしい。よく見れば、突き立てた地面にはワープゲートのモヤが広がっている。ワープゲートの繋がる先は、バックドロップの体勢で止まったオールマイトの背中の下。そこから敵の上半身が現れて、オールマイトの脇腹に指を突き立てている。

「あれまずくねえか……!?」
「っ、みたいだね……!」

 切島も気付いたのだろう。顔を歪めて小さく漏らす。奏も眉を寄せた。オールマイトの着ている白いシャツに、赤い染みができるのがわかる。鮮烈な赤が、すぐ黒を混ぜたように変色していく。痛みを想像して顔が歪む、そこにオールマイトを呼ぶ声が響いた。

「オールマイトォ!!!」

 響くその声は、よく知るものだった。
 よく知るものだったから、奏は息が詰まった。相澤を担いで出入り口の方に向かっていたはずの緑谷が、なにを思ったかオールマイトの方へ駆け出していく。
 なにしてるんだ、馬鹿、出久、やめろ。

「出久!!」

 気付いたら叫んでいて、眼前ではワープゲートが黒いモヤを広げて緑谷に立ちはだかる。足元が急に不安定になった気がして、まっすぐ走れているのかも怪しい。黒いモヤが緑谷に差し迫った。

「どっ、け邪魔だ!デク!!」

 爆破音が響いて、爆豪がワープゲートの横から飛び出していく。その爆破の光が、奏には間違いなく光明で、瞬きをする瞼の裏ですら眩く光ってくれた。
 奏が音を消していたことが功を奏したのか、爆豪の奇襲は完全に不意をついたようだった。緑谷に届かぬまま、ワープゲートはバランスを崩していく。
 その隙に奏は個性を放ち、爆豪の背中に向かって声を張り上げる。

「音波で実体は把握した……!勝己!モヤの中心!目が目印だ!そこから下20p!」
「わーっとるわ!」

 飛び出した勢いのまま、爆豪は空中で体勢を整えながらワープゲートのモヤを爆風で吹き飛ばし、実体部分を捉えた。そのまま左手で背面を取り、地面に押さえつける。
 次にパキ、となにかが凍る音を聴いた。視線を走らせればオールマイトと戦っている敵の半身が凍りついている。氷を辿った先には轟が立っていた。

「てめえらがオールマイト殺しを実行する役とだけ聞いた」

 轟は冷静にそう言って、奏の横では覚悟を決めた表情で切島が身体中に手をつけた敵に向かっていく。奏は爆豪が無事なことを確認して緑谷の方へ駆け寄った。

「出久!お前ってやつはまた……!」
「かなちゃん……!」

 緑谷がひとまず無事なことに安堵して、相澤を担いで移動している蛙吹たちの方を見る。明らかに意識がない。また不安が喉元まで迫り上がったが、切島の「だぁー!」という声にハッとする。

「くっそ!いいとこねー!」
「スカしてんじゃねえぞ!モヤモブが!」
「取り敢えず目標達成だな」
「平和の象徴はてめえらごときにやれねえよ」

 汗を拭い、前を向く。爆豪がワープゲートを押さえ、轟が大柄の敵を氷結で動きを止め、残るは手の男のみ。

「かっちゃん……!みんな……!」

 目に涙を溜める緑谷に、奏は後で説教だと思いながらいつでも個性を使える状態にする。催眠音波……いけるか……!?いや、もし仕留められなかったらリスクが大きすぎるし、この開けた空間じゃみんなを巻き込む可能性がある。得策じゃない……!
 ならばせめて敵の状態を探ろうと、奏は音を聴く。体中を手に掴まれた、白髪の男。音と見た目からして年齢は二十代前半。細身に、癖のある白髪。
 奏が敵に意識を向けている間に、轟の氷結で敵の手が緩んだのだろう、オールマイトが敵の手から流れて、奏たちの前に立つ。

「出入り口を押さえられた……こりゃあ……ピンチだなあ……」

 ゆるり、男は指の隙間から見える目をワープゲートに落とす。声は抑揚がなく、淡々として、奏はぞくりと肌が粟立った。
 男はあまりにも平静だった。これだけのことをしていて、仲間も押さえられて、平和の象徴を前にして。やっていることと、男が放つ音があまりにもちくはぐで、薄寒いとすら感じた。
 声には、その人の本質が出る。ならこの男のこの声はなんだ。
 
「このウッカリヤローめ!やっぱ思った通りだ!」

 爆豪は左足でワープゲートを踏み付けながら、目をギラつかせて笑う。そのまま先ほど話していた内容を声高に明かした。爆豪の仮説通り、ワープゲートには実体があった。仮説は正しかったのだろう、ワープゲートは悔しそうに目を細めて身体を揺らす。それを許さないとばかりに爆豪がさらに強く地面に押しつけ、上半身を低くして顔を近づけて笑みを深くする。

「怪しい動きをした、と俺が判断したらすぐ爆破する!」
「ヒーローらしかぬ言動……」
「悪役のセリフじゃん」

 爆豪の爆豪らしい物言いを聞いて、奏は寒気を忘れた。
 敵を見る。自分たちが合流したときの状況からして、オールマイトと戦っていたのは大柄の敵だ。今は轟の氷結で動けなくなっている。けれど、その存在が明らかに異常であることは一目でわかった。
 その巨軀はオールマイトを上回り、肌は黒い。体中に傷があり、縫合したような跡も見えた。口は大きく裂けている。なによりも気になるのは頭部。脳みそが露出している。眼球は脳に直接埋め込まれているように見えた。
 表情が変わらないのも、一言も発さないのも、不気味で、異質な存在。恐らくこいつが敵連合の切り札なのだろう。

「音波少年!」
「!」

 オールマイトが敵の方を向いたまま奏の名前を強く呼んだ。思わず体が強張る。
 奏から、オールマイトの表情ははっきりとはわからなかった。けれど笑っていないことだけは確かだ。テレビでも、授業でも、彼はいつも笑顔だった。笑顔で人を救けてきたヒーロー。そんな彼から笑顔が消えていることに、奏は改めて目の前の敵の危険性を知る。

「君、確かコスチュームに応急処置具入れてたな!?」
「はい……!」
「相澤くんと13号を頼む!入り口前だ!」

 オールマイトの言葉に、相澤だけではなく13号も傷を負ったのだと知る。奏は下唇を噛んで、グッと一度強く拳を握る。一瞬迷って、すぐに体の向きを反転させた。

「出久!危ないまねするなよ!勝己も!無茶するな!切島くん、轟くん、こいつら頼む」
「おお!先生たち頼むな!」
「とっとと行けや!」

 切島と爆豪の声を聞いて駆け出した。この状況で自分を狙ってくることはない。奏の視線の先には相澤を運ぶ蛙吹と峰田の姿がある。
 
「蛙吹さん!峰田くん!」

 奏が呼ぶと、二人は気付いて奏の方を見た。二人と合流する。

「ケロ、梅雨ちゃんと呼んで。音波ちゃん無事でよかったわ」
「ああ!梅雨ちゃんたちも!」
「順応早すぎねえ!?つーかあいつらなんだよ!やべえよ!」

 早々に蛙吹を名前で呼んだ奏に、峰田が大粒の涙を両目に浮かべながら突っ込んでくる。元気そうでよかった。けど消太くんは……!
 奏は相澤の背中にそっと手を置く。やはり意識はないが、心臓は動いている。けれど流れる血がポタポタと地面に落ちる音を聴いて、思わず唇の隙間から「消太くん」と声が漏れる。声が自分でも情けないほどに弱々しかった。
 奏は蛙吹と担ぐのを代わり、出入り口前の階段下まで急ぐ。階段の上に麗日がいることに気付いて、声を張る。

「麗日さん!手ぇ貸して!」

 不安そうに緑谷たちの方を見ていた麗日が、奏の声に気付いてパッと下を見た。奏と目が合い、慌てて階段を降りてくる。

「音波くん!デクくんは……!」
「ああわかってる!あの馬鹿あとで説教だ!麗日さん、しょ……先生浮かせて!梅雨ちゃん!舌で先生をなるべく動かさないように上まで運べる!?」
「ええ、任せて」
「僕は先に上に!」

 麗日の個性で相澤を浮かせてもらえばこの階段も運ぶのが楽になるし、相澤にかかる負担も少ない。移動を三人に任せて、奏は階段を三段飛ばしで駆け上がる。突風が吹いた。後ろから強い風圧を感じて、室内なのにと振り返る。植えられた木々が大きく揺れて枝を鳴らす。
 今の……攻撃の風圧か……!?どっちの……ワープゲートの拘束が解かれてる。状況からして向こうの攻撃……!?
 ぐっと目を眇める。緑谷も爆豪も無事ではいるようで、それを頼りに前を向いて足を動かす。階段を登り切ると、そこには数名のクラスメイトと倒れた13号の姿があった。

「音波!無事だったか!」
「瀬呂くん!状況は!?」

 奏に気付いた瀬呂に状況を尋ねながら、13号の元へ駆け寄る。そばには芦戸がいて、彼女は黒目からボロボロと涙を流している。普段明るく笑っている芦戸の怯えた表情と13号の姿に、なにがあったのか悟る。

「13号先生はあのモヤのやつに……!ここにいるやつら以外はみんなバラバラに飛ばされた。障子が全員USJ内にいることは確認してる」
「外への連絡手段は」
「飯田が学校に向かった!」

 飯田くんが……センサーを無効化しているやつを探すよりも、飯田くんに学校まで駆けてもらったほうがずっと速いか……!飯田くんなら絶対やってくれる。大丈夫、大丈夫だ。
 奏は芦戸の横に膝を着き、13号に触れて個性を発動した。13号はうつ伏せに倒れていて、コスチュームごと、背中が裂かれるように怪我をしている。13号の内側に向けて超音波を放ち、奏は怪我の具合を診る。
 背中から上腕にかけての裂傷……出血を止めないと。
 奏はウエストポーチの中から止血するための用具を取り出す。取り出す手が震えていることに気付いてしまって、強く唇を噛んだ。
 落ち着け!取り乱すな!落ち着け!

「っ、13号先生!聞こえますか!」

 問いかければ、細い呼吸が微かに震えた気がした。ヘルメットとうつ伏せにしているせいでわかりづらいが、どうやら意識はある。

「傷口を押さえて止血をします!痛むかもしれません!」

 ガーゼを取り出して傷口に当てる。すぐに真っ白なガーゼが血に染まった。軽かったガーゼが重たくなっていく様子が恐ろしかった。自然と自分の呼吸が荒くなっていく。超音波で把握した傷は決して浅くない。その深さがわかってしまうから余計に恐ろしく、痛みすら想像してしまう。余計なことは考えるなと、何度も自分に言い聞かせる。

「音波……」

 弱く震えた声で、名前を呼ばれた。芦戸だ。
 隣を見ると、芦戸は涙で濡れた目で奏を見ていた。下がりきった眉と、あふれ出る涙が、普段の彼女とはかけ離れていた。
 芦戸はつっかえながら、震えた声を絞る。

「だい、大丈夫だよね……?13号先生、も、みんなも……」

 涙で濡れた目が不安気に揺れている。おぼつかない光が、涙の中でゆらゆらと揺蕩っている。
 大丈夫かと問われて、奏の頭に13号の傷の深さがよぎった。助かるよと言えるほどの知識も根拠も、奏にはない。
 体が熱い。内側から熱を放っている。なのに手足の先には血が通っていないような感覚がずっとある。
 耳が良かった。昔からだ。だからかはわからないけど、聴覚に関する知識は自然と興味があった。事故に遭った人や、怪我で動けなくなった人でも、意外と周囲の音は聞こえているらしいと知ったのはいつだったか。自分の状態がわからないときに、周囲の人間の様子で自分の状況を悟ってしまうこともあるくらいに、動けないときは音に敏感になる。だから決して、どんなに危険な状態だろうと本人にそれを知られてはいけない。安心させなければいけない。気持ちで負けないように。
 倒れた13号がいる。目の前で泣いているクラスメイトがいる。自分はなんと言えばいい。なんて声をかければいい。なんて、こんなとき、なんて――

『超かっこいいヒーローなんだよ!』

 頭の中で声がした。今よりもずっと幼かった頃の、緑谷の声。

『どんなに困ってる人でも笑顔で救けちゃうんだよ!僕もオールマイトみたいなヒーローになれるかなあ』

 あのとき、段々と笑顔を失っていく緑谷に自分はなんて声をかけたんだったか。なにも言わなかったような気もするし、そうだねと曖昧に返したような気もする。
 オールマイトのことを特別好きではないと言った奏に、幼かった緑谷はオールマイトのどこが凄いのかを懇々と話してくれた。聞いた後も特別好きだなとは思わなかったが、それでもヒーローとして素晴らしいと思う場所はいくつもあった。
 奏は芦戸の音を聴く。泣いている、恐怖に震える音が内で響いている。
13号のか細い音を聴くと不安になった。赤黒く変色したガーゼから感じる熱が思考を掻き乱した。

『心を揺らすな』

 次に聞こえたのは低い声だ。自分を見下ろす目を思い出す。声は硬く、威圧すら感じた。

『感情を乱すな。己の心は己で制御しろ』

 無機質な冷たさがある声だった。その冷たさが奏の頭を冷やしていく。掻き乱れた思考が段々と緩やかに、波が引くように感情が凪いでいく。

『それがお前の責務だ』
 
 その声が聞こえたから、奏は深く息を吸う。不安が消えたわけじゃない。自信がついたわけじゃない。それでも、と奏は不器用に口角を上げる。

「――大丈夫」

 放った声は、個性で補って震えないようにした。うつむいていた芦戸が顔を上げる。
 感情を表に出すのが苦手だ。今ばかりは苦手でよかったと思う。自分の不安や焦りも、きっと最低限にしか知られていない。
 笑うのが下手だ。今はそれを悔やんだ。もっとちゃんと笑えれば、きっと目の前で泣く彼女も、みんなも安心させられる。

「僕らが戦った連中はそんなに強くなかった。みんなのとこもきっとそうだ。切り抜けられる。オールマイトも来てくれたんだ。大丈夫だよ」

 自分では安心させる材料がない。それが悔しい。オールマイトへ、トップヒーローへ無意識に寄せているだろう安心感を利用することしかできない。
 奏は笑う。ささやかでも確かに。

「大丈夫、だから芦戸さんも泣かないで」

 血で濡れた手では涙を拭ってやれない。彼女なら自分の涙を拭えるはずだと見つめると、芦戸はぐっと唇を結んでからぐい、と腕で涙を拭った。堪えるように眉を寄せたまま、「ん」と鼻が詰まったような声で、確かに頷いた。
 


26:いつかの言葉が示す

 


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