残響ユートピア03
本当はもう、ずっとわかっていた。
言いたい、けど言えない。明かせない、でも伝えたい。自分の置かれた立場と状況を振りかざして、わからないフリをしていた。
怖かったのだ。ずっと。奏に否定されるのが、なによりも。
怖くて仕方がなかったのだ。
「雄英……?」
ヒュウ、と風が細く唸り、奏の声を運んだ。紺青の髪が揺れる。緑谷はぐっと足に力を入れてその場に立つ。気を抜くと後退してしまいそうだった。
「受験のこと?雄英の……ヒーロー科?」
「っ、うん……っ!」
ブン、と大きく頭を縦に振る。奏が真っ直ぐに緑谷を見る。バクバクと心臓が鳴っていた。奏はなんと言うだろう。どんなふうに自分をその宵色の瞳に映すだろう。愚かに見えるだろうか。
「――雄英は」
奏は静かに切り出した。いつもの淡々とした口調で、けれどどこかに言い聞かせるような重みがあった。
「雄英のヒーロー科は、間違いなく国内最難関だよ。受験者は毎年数千人っているのに、今年の一般入試の定員は三十七人。普通科と違って実技試験もある。今年も倍率は三百超えるってね」
知っている。知らないわけがない。多分奏も、緑谷が知っているとわかってしながら話している。だからそこから意図が読み取れてしまう。
「出久の進路調査見たよ。第一志望の欄……書き直した跡がなかった。本気だってわかるよ。でも」
続く言葉を想像して、身構える。唇をきつく噛んだ。
祈るように握る手に力を込める。どうか君だけは、と。
「――出久には難しいと思うよ」
言葉は、想像していたよりも優しくて、思っていたよりもずっと質量があった。
ずしりと、胸の奥の深いところに鉄の塊がのしかかるようだった。息がしづらくて仕方ない。
目の前が暗くなって、じわりと視界が滲んだ。慌てて制服の袖で目元を擦る。ここで泣いてしまえば、すべてを奏のせいにしてしまうようで嫌だった。
目元を拭って、クリアになった視界で息を吸う。日が暮れて冷たくなった空気で肺を満たすといくらか感情が落ち着いてきた。
燃えるような夕焼けの遙か上空からゆっくりと、夜の帳が降りてくる。
奏は優しい。そんなことずっと昔から知っている。言葉を選んで、自分のためを思って言ってくれたのだとわかる。奏はオールマイトとのことを知らない。無個性で受験すると思っているからこそ忠告してくれている。実際、個性の譲渡が間に合うかもわからない。間に合ったとして、受かるという保証はない。
ここで「そうだよね」と笑って流してしまえばきっと今は楽になる。けれどこの先で絶対に苦しみ続ける。
だから言え。もっと強い意志と言葉で、どんなに怖くても自分の言葉で。
「わ、わかってる……!僕なんかが簡単に受けるなんて言えるようなところじゃない。でも……」
声が震えていた。言葉を探す。奏を説得するためじゃなくて、奏に自分の意思をより正確に、強く伝えるために。
「小さい頃からの目標なんだ……!やってみたいんだ……!」
こんな言葉を、教室でも爆豪に言ったなと思い返す。あのときはクラス中に笑われた。
――てめえになにがやれるんだ!?
投げられた言葉に、返せるものを持っていなかった。無個性の自分はみんなと同じ場所に立つことさえ難しいのだと分かっているつもりだった。それでも自分を慰めるようにやってみないとわからないだなんて奇跡を待つような言葉を口にして。
「なにが……僕なんかになにがやれるかなんてわからないけど……!それでも、ほんの少しでも可能性があるなら!僕は……!」
言葉と共に、どうしようもない熱量が溢れてくる。燃える夕焼けに薪を焼べるように、この熱を絶やさないように繋いでいく。
「出久」
緑谷の言葉を遮った奏の声は、緑谷とは対照的に冷静だった。炎を消す、水のような冷涼さがあった。緑谷はハッとして、狭めていた視界に奏を映す。
「雄英はゴールじゃないぞ」
たった一粒の滴が、燃え盛る炎を消すようだった。奏の一言にはそれくらいの破壊力があって、瞬間、驚くほど視界が開けた。燃えるようだと感じた夕焼けの中に淡い寒色を見出して、よく見えなかった奏の表情がはっきりと網膜に映る。燃え盛る炎の向こう側に景色を見た気がした。
無個性の自分がヒーローになりたいと言うと、現実が見えていないと周りは一蹴し、嗤うだけだった。奏はいつだって自分の言葉を聞いてくれた。今もそうだ。一言「諦めろ」と言えば済むはずなのに、最後まで自分の言葉を聞いてくれる。聞いた上で、言葉をくれる。
そうだ、ゴールじゃない。雄英は通過点に過ぎない。緑谷の幼い頃から抱き続けた夢を叶えるのなら。そこまで見越した上で、奏は。
「最高の……」
気付けば口が動いていた。そのわりには声が弱々しくて、なんとも情けないなと頭の隅で思う。それでも自然と言葉は続いていた。
「最高のヒーローになるために……オールマイトみたいな、困ってる人を笑顔で救けられるヒーローになるために、僕は雄英に行くんだ!」
言い切ったとき、ほんの一瞬、奏が笑ったように見えた。
「だからっ、かなちゃんに反対されても僕は……」
「別に反対しないよ」
「へ!?」
奏は緑谷と目を合わせると、ゆっくりと進んだ道を戻ってくる。奏が動いたことで、太陽が随分と沈んでいたことに気付く。
「一応、本気かどうか確かめたかっただけでさ」
奏は緑谷の前に立つと足を止め、視線を別の場所へと向けた。
「まだ時間があるなら、少し話そうか」
奏が指差した先には、昔からよく遊んでいた公園があった。もう遊んでいる子どももいないようで、腰を落ち着けて話すにはちょうどいいかもしれないと、緑谷もひとつ頷いた。
△▼△
「ぶっちゃけるとね、最初から予想はしてたんだよ」
公園に設置された自販機でホットコーヒーを買った奏は、缶のプルタブに指を引っ掛けながらそう言った。
「えっ」
木製のベンチに並んで座る。春とはいえ、この時間になると肌寒かった。緑谷も自販機で買った温かいカフェオレで暖をとるように両手で握り締める。
「出久がヒーローになりたいのはずっと前から知ってるし……オールマイトのガチファンだってこともね。そっから考えればまあ雄英かなって」
「えええ」
「進路調査見ちゃったのは悪かったけどね。いつ言ってくれるのかな〜とは思ってたよ」
「うっ、ごめん……」
肩を落として眉を下げる緑谷に、奏は唇で緩やかな弧を描いた。けれどすぐに弧は線になる。
「でも正直に言えば、反対はしないけど勧めることもできないって言うのが本音だよ」
緑谷は顔を横に向けて奏を見る。奏もまた緑谷を見ていて、その目に心配の色があることに気付いた。
「さっきも言ったけど……どうしたって出久には難しい。他の人よりずっとだ」
「うん……」
「だから出久が策もなく取り敢えず受験するみたいなスタンスならさすがに止めようかと思ったよ」
「でも違うみたいだからさ」と奏は続けた。二人だけの公園は寂しくて、少し寒くて、奏の声がよく聞こえた。スッと奏の長い指が緑谷のポケットからはみ出ているハンドグリッパーを指差した。
「それ……というか、最近始めた筋トレやら体力作りは実技試験対策だろ?」
「知ってたの!?」
「そりゃね。おばさんも心配してたよ」
奏は眉をほんの少し眉を寄せる。曰く、緑谷の母である引子から相談をされたらしい。
「急に食事のメニューの要望があったり、走り込みに行くようになったら誰だって心配するよ。おばさんにはちゃんと説明したのか?」
「う……」
「お前ね……いや、まあうん、いいけどさ。ちゃんと説明はしなよ」
「はい……」
半ば呆れたような奏の視線を受けながら、緑谷は縮こまる。奏は仕方ないなと言うように息を吐いた。
「おばさんから相談されて、最近のお前を見て、本気だってわかった。出久にとって……なにが一番いいのか、僕にはわからない。でも出久の夢は知ってる」
奏は正面を向いた。整った横顔。目は遠くを見るようだった。この公園を駆け回っていた頃を思い出すような目だった。
「お前になにもしてやれない僕が、応援するのは無責任だと思ってたから、なにも言わなかった。今もこれからも頑張れなんて言うつもりはない」
宵が降りてくる。空の色が赤みを失って、奏の瞳の色のような空が頭上を覆い出す。
カラフルなはずのジャングルジムの色がわからなくなってきて、空気の匂いが変わっていく。
「だからなんて言うか……難しいな」
なにを言ってもお前の枷になる気がするよ。と奏は言った。口元を手で覆い、それを離して、唇が開く。
「ただお前が……出久が笑っていられる道を歩いて欲しいと思っているんだ。ずっと」
その一言に、奏はずっと、ずっと深く自分のことを、自分が思っているよりも考えてくれていたのだと知った。
なにもしてやれないと、奏は言った。そんなことはない。そんなことがあるわけがない。幼い頃から自分は、ずっと、ずっと奏に多くのものを貰ってきた。ずっと、今も。
奏だけが唯一、自分の夢を否定しないでいてくれたから、雄英を受けると伝えて、諦めろと言われるのが怖かった。奏に否定されてしまえば、この脆い夢の縋る場所などどこにもなくなってしまう。奏だけがよすがだった。
緑谷にとって奏は唯一だ。唯一、一緒に歩いてくれる人だった。奏だけが緑谷の見ている景色を一緒に見てくれる人だった。
気付けば頬を熱いものが伝っていた。ボロボロとこぼれ落ちていくそれの止め方がわからなくて、下手くそに喉の奥を鳴らす。
「出久?」
「ごめっ……っ、ひ、ぅ」
「おいちょっと……大丈夫?」
緑谷の異変に気付いた奏が視線を移した。見ればボロ泣きしている幼馴染の姿があって、ギョッと眉を顰める。
奏はそっと緑谷の丸まった背中を撫でた。この温度を知っている。何度も何度も、幼い頃からずっと、泣き虫な自分を慰めてくれた手の温度だ。
目の奥が熱い。喉が灼けるようで、呼吸が震える。頬を伝って膝の上に落ちた涙が制服を濡らして色を変えた。
「っ……かなぢゃん……っ!」
「うん?」
涙の滲んだ嗄れ声で、名前を呼ぶ。震える喉の奥を、うまくできない呼吸を、体を丸めて、腹に力を入れて無理やりに整える。
「僕……っ!なりたいんだ……!」
「……うん」
「オールマイトみたいな……!最高のヒーローに……!」
「……うん、そうか」
「だから行きたいんだ……!雄英に……っ!」
「そうかあ」
降ってくる声が柔らかくて、緑谷は涙も拭えないまま顔を上げる。見上げると、宵の空は暗く澄んでいて、ほどけるように笑う奏の頭上に一番星が見えた。
この日のことを、今目に映るすべてを、緑谷は忘れたくないなと思った。
△▼△
「思ったより遅くなっちゃったな」
日が沈んだ空を見上げて奏が言う。自分が泣いていたせいなのもあって、緑谷は少し申し訳なくなった。
奏は緑谷が泣き止むまで背中を撫で続けてくれた。そんなことは中学に上がってからは滅多になかったので、気恥ずかしくはあったが、嬉しく思ったのも本当だった。
緑谷と奏は分かれ道までくると、再び向かい合った。
「かなちゃん」
「ん?」
名前を呼ぶと、奏は上げていた視線を下げて緑谷の顔で止めた。緑谷も真っ直ぐに奏を見返す。
「――ありがとう」
そう言うと、奏はパチリと瞬きをした。その表情がいつもより幼く見えて、緑谷は口元が緩むのを感じた。
「何かお礼を言われるようなことしたかな?」
「どうだろう。でも言いたかったんだ」
そう言って笑う。今日の中で一番口角が自然に上がった。
風が夜のものになって、指先が冷えてきた。それでも胸の奥が春の日差しを受けたときのように暖かい。
緑谷が笑うと、奏も少しして緩やかに笑った。それが嬉しくて、緑谷はさらに笑顔を深める。
「さて、じゃあ本格的に受験対策だ」
「うん!」
「帰ったらちゃんとおばさんと話しなよ」
「ハイ」
母にもきちんと話さなければと改めて思う。心配するだろうか。泣かなければいいなと思いながらリュックを背負い直す。
「――出久」
奏が名前を呼んだ。一音ずつ丁寧に呼んでくれる奏の声が、緑谷は幼い頃からずっと好きだ。
夜風は冷たく柔らかかった。奏の髪がふわりと揺れた。空にはまばらに星が散っていて、その下で奏が笑っている。笑っているのにどこか寂しそうな顔が胸の奥を締めた。
「……お前と一緒に雄英に行けたらいいな」
声が、幼子のようだった。どうしても我慢できなくて溢れたような言葉がどうしようもなく嬉しくて、緑谷の中で特別な意味を持つ。
「うん……!うん!――――ん?」
緩む頬を赤らめながら目を輝かせて頷く緑谷は、頷いてからハタと動きを止めた。
ん?今、かなちゃんは何て言ってた?
緑谷は頭を回しながら奏を凝視する。奏もそれに気付いたのか、「ああ」と思い出したように視線を上げた。
「言ってなかったっけ?僕の第一志望も雄英。ヒーロー科だよ」
さらりと言ってのける奏を前に、緑谷はただ丸い目を溢れそうなほどに見開くことしかできなかった。
03:紺青に笑声
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