残響ユートピア04
気がつくと葉に色がつき散っていた。朝晩の冷え込みがぐっと深まって、秋の終わりが近いことを知る。
季節を二つ跨いで、春が過ぎ夏が、夏が終わり秋が、そうして今、冬がその足音を鳴らし始めていた。
志望校の最終決定も差し迫る中、奏は冷える廊下で緑谷の重いため息を聞いていた。
「なに、どうしたのため息なんかついて」
「えっ!ごめん無意識だった……!」
「いやいいけどさ。なんかあったの?」
奏は廊下の壁に凭れ掛かりながら緑谷を見た。春に比べて、大分体つきが変わってきたなと思う。筋トレや体力づくり、食事改善で筋力や体力も随分鍛えられているのだとわかる。少しの寂しさと、応援したい気持ちと混じり合って、奏は取り留めのない言葉しか紡げない。
緑谷が忘れたという数学の教科書を貸す。緑谷は申し訳なさそうな笑みを浮かべて「ありがとう」と言葉にした口でやけに重いため息をついた。奏が問うと、緑谷は少し迷ったように視線を逸らしてから切り出す。
「……今度、三者面談あるでしょ」
「うん、受験も大詰めだからね。志望校の最終決定するって」
「それで、お母さんには雄英を受けるってこと話したし、応援するって言ってくれたんだけど」
その経緯は奏も聞いている。緑谷の母、引子は、息子のやりたいようにやりなさいと笑ってくれたらしく、奏もよかったねと返した覚えがある。
「……実は、担任の先生に進路を考え直せって言われてて」
「あら」
「三者面談の前に、進路担当の先生も交えて話し合おうって言われてるんだ」
「三者面談の前に三者面談するわけだ。忙しいね出久」
「かなちゃん、僕は真剣に困ってるんだ……!」
奏の数学の教科者を握り締めて緑谷が言う。気が弱いところがあるから、教師二人に囲まれて進路の話をするのが嫌なのだろうと想像するのは容易かった。
担任の教師だって悪意を持って雄英の受験を諦めろと言っているわけではないだろう。緑谷の将来のことを思って忠告しているのだとわかる。
「出久の進路を決めるのは出久だよ」
奏がそう言うと、緑谷は安堵したように、少しだけ強張っていた頬を緩めた。
予鈴が鳴って、緑谷は自分のクラスに戻って行った。奏も自分の教室に入り席に着く。
外は冷たそうな北風が細い音をたてている。ヒュー、ヒューとどこかの隙間に入り込む風が、今日はやけに耳に残った。
△▼△
「音波」
聞き覚えのあるような、太い声に呼ばれたのは放課後になってからだった。着古したジャンバーに、剃り残しの目立つ髭。足を止めて振り返った先にいたのは緑谷と爆豪のクラスの担任だった。奏のクラスの社会の授業を受け持っている。
「はい」
「悪いな、今ちょっといいか?」
奏は「構いませんよ」とひとつ頷いて、廊下の端に教師と揃って避ける。
「帰るとこだったのに悪いなあ」
「いえ、どうかされましたか?」
尋ねると、教師は一度視線を足元でうろつかせて、バツの悪そうな、曖昧な笑みを浮かべた。
「あ〜、なんだ……その、音波はうちのクラスの緑谷と仲が良かったよな?」
「はい」
「緑谷の進路志望、聞いてるか?」
問われた言葉で、奏はこの教師が自分に声をかけた理由がわかった気がした。向かい合って立つ教師からは焦りと罪悪感、それに悩んでいるような音が混じり合って聴こえた。だから奏は、なにも気付いてないフリをして頷いた。
「はい。雄英のヒーロー科ですよね」
奏がさらりと言うと、教師は途端に眉を八の字にした。
「それなんだが……音波からもなんとか言ってやってくれないか」
「と言うと」
教師は奏から目を逸らして、行き場を探すようにキョロキョロと忙しなく目だけを動かしている。少しずつ早くなる口調に、余裕がないことがわかった。
「今の子供がヒーローを目指すことなんて珍しくもないが、緑谷はほら……」
教師は辺りを見やってから、声を顰めて、周りに聞かれないように注意して言った。
「"無個性"だろう?」
ああ、やっぱりな、と奏は思う。目の前で語る教師の言葉を聞きながら、奏は教師の向こう側を見るように目の焦点をずらした。
「緑谷は成績も優秀だし……普通科や経営科ならまだしも、ヒーロー科はなあ……無謀というか、何というか……」
困ったように顎を撫でながら続けていく教師の言葉。廊下を行き交う生徒達の足音や話し声が重なっていく。喧騒、雑踏。音が遠くなったり近くなったりするのは誰のせいか。
昔からそうだ。緑谷を枠の外に出す理由は無個性だから。それ以外になにもない。たった一つ、それだけが彼を大衆の輪から外してしまう。
「何度か考え直すように言っているんだが緑谷は頑なに頷かなくてな……お前からもさり気なく言ってやってくれないか?」
教師の声音にはきちんと心配の色があった。わかる。悪い人ではないのだと、奏にはちゃんと聴こえている。
「言ってくれとは、出久にヒーロー科を受験するのはやめろと言うことですか」
僅かに硬くなった奏の声色に、教師は目を丸め、一歩後退りながら誤魔化すように薄ら笑いを浮かべる。それから目を逸らしながら言葉を選び、連ねた。
「お……まあ、言い方はあれだが……そうなるなあ。雄英は……最高峰のヒーロー養成機関だし……いくら緑谷が優秀だと言っても……」
教師の続ける言葉が、奏には安易に想像できる。
「"個性"がないとなあ……」
教師は困ったように眉を寄せて下げた。段々と弱くなる口調、合わなくなる視線。教師も酷だと思っている。
「たたでさえ雄英なんて倍率が高いのに……あとで後悔して、苦労することになるのは緑谷自身だろ?」
どこか縋るような目で、教師が奏を見た。同意を求められているのだと、肌でわかる。
そうですねと言うのは簡単だ。表向きに奏がなにを言おうと、結局最後に決めるのは緑谷以外にいない。
だから奏は、ゆっくりとその唇を開いた。
「……なにで後悔するのかは人それぞれで、多分、今測れるものじゃないんだと思います」
未来のことなんてわからない。自分の感情だってそうだ。
「出久が雄英を受験したことに後悔する日が来るもしれない。けど今のあいつは、受けなかったことを後悔し続けると思います」
教師は静かに目を見開いて、奏の言葉を聞いていた。だから奏は言葉を連ねていく。結局決めるのは緑谷だから、自分が今こうして教師に向けて言葉を重ねる必要なんてないのかもしれないと、どこか冷静な部分で考えた。
でもそれでもいい。
「……先生にとって、難しいことだとわかっていますが、出久のやりたいようにやらせてやってくれませんか。他人よりも何倍も高い壁だと本人も自覚していて、それでも諦められない場所なんです」
ほんの少し、あいつの進む道を明るくしてやれるなら。あいつの往く険しい道を、ほんの少しでも。
奏の頼みに、教師は眉を下げて、困ったように頬を掻いた。
緑谷の進路先は、今度の三者面談で最終決定をする。助言はするが、あくまでも進路を決めるのは緑谷本人だからと言って、教師はそそくさと奏から離れて行った。
話を切り上げたくて言った言葉なんだろうなと思いながらその背中を見送って息をついた。
きっと、奏の考えは正しくない。
教師の反応や考え方がきっと普通で、当たり前のものなのだろう。
「おい」
「……勝己」
不意に、背後から低い声で名前を呼ばれて振り返るとそこには爆豪が立っていた。いつものしかめっ面で、顎を突き出すようにして奏を見ていた。
「どうしたの」
奏が問うと、爆豪はジッと奏を射抜くような鋭い目つきで見ていた。探るような目でもあった。
「……テメー、本気でクソナードの受験止めねえ気かよ」
「……聞いてたのか」
奏は長く息を吐いてから「そうだね」と返した。奏の一言に爆豪の眉がピクリと動く。眉間のしわが深くなって、眇められた目が、異物を見るように奏を映した。
外の木が風に枝を揺らしている。寒そうだな、と枝から落ちていく褪せた葉を見て思った。
「わかっとんのか?相当イカれてんぞテメーら」
「酷いな。出久にはそういうこと言うなよ」
「デクには、なあ……」
爆豪はチッと短く舌を打つ。目つきが更に鋭くなったような気がして、奏はまたよくわからないところで爆豪怒りに触れたのかもしれないと心の内でため息をついた。
「その言い方じゃあ、自分のイカれ具合はわかってるみてーだな」
「……」
奏が黙ると、爆豪は気を良くしたのか、ハッと吐き捨てるように笑った。
「テメーのそれは優しさのつもりかよ?いい加減現実見せろや。あのクソナードに」
爆豪の言葉に、やはり自分はおかしいのかもしれないと思う。
ただ、自分のこれは優しさではないとわかる。それだけはわかっている。こんなのはただのエゴだ。
「……僕は、ただ」
声には自分でも驚くほど平坦だった。爆豪の意識が奏の言葉に向いているのがわかる。目を伏せる。視界に入っている爆豪の姿を遠くに感じた。
「――ただ、僕が見たいだけだよ。出久がヒーローになるところを」
その言葉を吐いた瞬間に、爆豪の怒気が立ち昇ったのを感じ取った。コツコツと窓の外の細い枝が風に吹かれて、窓ガラスにぶつかる音がする。
コツ、コツコツ、コツ。枝が鳴る隙間を縫うように、ヒューとまた細く風が鳴る。その音を聞きながら、奏は思う。
ただ僕が見たいだけだ。出久がヒーローとして立つ姿を、ただ善良な市民ではなく、ヒーローとしての出久を見たいだけだ。
拍手喝采を浴びる彼の姿が見たい。彼の名前を呼ぶ声が聞きたい。
たったそれだけのために、優しさに擬態した行為と感情を押し付けている。
爆豪の表情が険しくなる。「だからよお」と低い声で呟く。大股で奏との間にあった距離を縮めて、なくす。ゴン、コンクリートの壁に強く打ち付けられた拳の音は想像よりも静かで、手を痛めていないかが心配で、視線を僅かに左に動かす。けれどすぐに爆豪の表情へと戻った。
「ありえねえんだよ!デクがヒーローになるなんて!」
目の前で歪んだ表現はどこか余裕がなかった。下瞼が持ち上がった細められた目が、このままいくと泣いてしまうんじゃないかと、とてもこの場と声にそぐわないようなことを考えていた。
「……勝己、僕は」
お前の、と続けようとしたところで、爆豪が奏を突き飛ばした。二、三歩よろけて、視線を正面に向けたときには既に爆豪は背を向けていた。猫背の背がどうしてかいつもより小さく見える。
「デクが雄英に受かるわけねえんだよ。テメーも落ちろ。ほか行けや」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、かかとを踏んだ上履きの底を鳴らしながら行ってしまう。奏はその背中を追いかけなかったし、背中に言葉をかけることもしなかった。
ただ、ヒューと聞こえてくる隙間風の音が、どうにも胸の中を吹き抜けているような感覚に、自分にはどこかに穴が空いているんじゃないかと馬鹿なことを考えた。
――なにで後悔するのかは人それぞれで、多分、今測れるものじゃないんだと思います。
そう言ったのは奏自信だ。先にある後悔を、今測ることなんてできない。たとえ奏が、緑谷が雄英を受験することを後悔する日が来たとしても。それは今はわからないことだから。
ヒュー、ヒュー。風が吹いている。隙間に入り込む冷たい風は、隙間に入り込むだけでそこを埋めてくれることはない。冷たいそれは、ただただ隙間があることを自覚させるだけだった。
04:隙間を埋めるには足りない
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